第百二十六章:揺らぐ想い
正直言って、あんな状態で授業なんてまともに聞けるわけがない。
学校のようにチャイムが鳴るわけでもなく、インテリ系眼鏡をかけたオールバックの黒髪塾講師は、定められた時間を巧みに使い、ここ数か月間分の復讐を実に分かり易く教示してくれた。
指定された席が後ろの方であり、視線を向けると梨花も倉橋君も視界に飛び込む場所。
その上両側が女の子(しかも可愛い)であり、笑いあり真面目ありな三時間を集中するには酷く精神を摩耗した。
さっきまでの私だったら、逆に両側男の子だった方がドキドキして集中できなかったのだろうけど。
梨花に抱いている恋心が本物だと気が付いたせいか、今はもう男の子だけじゃなくて――、
「やばい、何これ。隣から漂ってくる匂いとか、すごく甘く感じるんだけど」
両側から漂う甘美な香りに、思わず鼻先がピクンと跳ねる。
そのまま自然と口元が恥ずかしいほど緩んでしまうため、私は寝たふりをするかのように、腕を枕にして机へと突っ伏した。
理由はどうあれ、一人笑いなんてしてるとこ見られたら、変な人だと思われちゃう。
腕の隙間から目だけを出して、辺りを見渡してみる。
初日だということもあってか、一緒に話したり教え合っていたりする人たちはごく少数だ。
むしろ一人でいる人の方が多い。見たところ知った顔も見えないし、知り合い同士で来るってのは少ないのかな。
さりげなく瞳を泳がし、梨花の方へと視線を向ける。
梨花は普段通り、凛然とした態度から他者を寄せ付けない空気を出し、銀縁眼鏡越しの双眸を活字上に滑らせていた。
文庫サイズの薄い書籍――とまで識別したところで、梨花が先ほど本屋で買った書籍を思い出す。
あれか、勉強嫌いな子に勉強させるための本だっけ。
そんなことを思いながら、私はなるべく他人を視界に入れないようにして意識を遠ざける。
休み時間が終わるまで、こうしていよう。
「――裕海」
と、考えたところで、突如自身の名前を呼ぶ声が頭上から降り注いだ。
安心感を与える聞きなれた声音。
その心地よく中耳腔を震わせる凛々しい声の正体は――、
「梨花」
「ちょっと外の自販機行かない? 喉渇いちゃった」
梨花はそう言って、眼鏡越しの瞳を凛然と向ける。
格好いい女の子に見下ろされるという感覚に一瞬だけ身悶え、私は小さく頷いて肯定の意思を表し、椅子から立ち上がった。
梨花がそういうのに誘うとは珍しい。
大抵は私から誘うか、一人で勝手に行っちゃうんだけど。
「良いよ、私も丁度何か飲みたかったし」
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廊下を歩んでいる間、二人は無言だった。
別にわざと黙っているわけではない。梨花がスタスタと早足で進んでしまうのと、単に私が話題を出すことができなかったからだ。
若干前方にて歩を進める梨花の後ろ姿を見ると、それだけで頬が熱くなり、思わず目を逸らしてしまう。
今までに感じたことの無い感覚――否。梨花に対しては初めて得た感覚だ。
これに似た感情は、前にも抱いたことがある。
――ちょうど、倉橋君を意識し始めたころだ。
今までちょっと格好いいな、程度にしか思っていなかったのに、突然ある日倉橋君が神々しく見えた。
気が付けば視線で追っているし、目が合いかけると自然と視線が下に向く。
集中しようとしてもどうしても頭に彼の顔が浮かび、無意識の間に溜息がこぼれる。
あの時の感覚と非常に類似している。
簡単に表現するならば、それは『好き』という二文字で表すことはできるが。
もっと上級な――いや別に『大好き』とかそんな単純な話では無くて。
「ねぇ……梨花?」
足早に歩行する梨花の背中に向かって、問いかけるように言葉を紡ぐ。
それは不安を取り除くようで、一種の覚悟のようで、自身の変革を認めることになる――、
「梨花は――初めて女の子に恋愛感情を抱いた時って、どんなだった?」
誰も手を付けたことの無いパンドラの箱が、裕海の手によって開かれようとしていた――。
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ガコン、と音がして藍色に煌めく缶ジュースが落下した。
自販機の取り出し口に手を入れ、梨花はそれを自身の口に運び、口腔内に流し込む。
私は手に持ったお茶を握り締め、傍の椅子に腰かけていた。
あの疑問を投げかけてからここに辿り着くまで、梨花は一言も言葉を口にしなかった。
怒っているのだろうか。軽蔑しているのだろうか。
触れてはいけない部分に触れたのかもしれない。――だが、それでも私は聞かずにはいられなかった。
初めての体感に、どうしていいか分からない現状。
こういったとき普通ならどうするか。
――同じ経験をしたことがある人に、意見を求めることだと思う。
チラリと梨花に視線を送る。
梨花はとくに表情を変えること無く、自身の購入した泡立つ漆黒の液体を口に含んでいる。
外出先――しかも塾でそんな炭酸系を飲むなんて、私にはできない。
アレ飲むと、ほら、アレが出るのは必然だから……。
「――ケフ」
危惧した通り、梨花は躊躇無くそれを吐息とともに口端からこぼした。
それでも梨花は黙ったままだ。
心の隅を突っつくようなこと言ったせいで、怒っているのだろうか。
胃の奥がキリキリと痛み始める。
ああもう! これだったら『えー、何それ』とか冗談っぽく流してもらえた方がよっぽど良かった――。
「私は……そうだなあ。最初は確かに、自分で自分の感情を認められなかったかな」
とくに私はそうなったことに原因があるしね、と続け、梨花は手に持った缶を口に運ぶ。
「……そっか」
「晴香と出会うまでは、やっぱ変なのかなとかイケナイことなのかなとか、色々悩んだ時期もあったんだけど――」
梨花の手の中でクシャリと缶が潰され、宙を舞うそれは弧を描きそのままゴミ箱へ。
もう一度梨花は口端から炭酸の籠った吐息をこぼすと、不意に身体を向け、私の真横に顔を寄せる。
真横――頬に吐息どころか唇が触れてしまうのではないかという距離に近づかれ、何とも言えぬくすぐったさが頬を撫でた。
凛然とした表情を崩した梨花は口端を緩め、眼鏡越しの双眸を細めて表情を柔らかくさせる。
普段二人っきりのときに見せる、いつも通りの梨花の表情だ。
「でも裕海には私がいるから、何も迷ったりすることはないんだよ?」
そう言って梨花は、頬にキスをするかのような勢いで耳元へ唇を運び、私にだけ聞こえるような声で小さく呟いた。
「裕海の頼みだったら、私は何だって聞いてあげるから」
「えぅ」
凛々しくそれでいて女の子らしい声音でそう呟くと、梨花は何事もなかったかのように背中を向けて教室へ戻っていく。
遠ざかっていく背中を見つめたまま、私はその場から動くことができない。
というか、このままの状態で教室に戻るとか――。
灯に言われて持ち歩き始めた手鏡を取り出し、私は自分の顔をその小さな光に映し込んでみる。
蛍光灯の光が反射し、一瞬だけ目を背けるが。そこには想像通り全く違いない私の顔が映っており。
「……ヤバいよ、こんなニヤけ顔で授業受けらんない」
鏡に映った私の顔は耳まで紅潮し、恥ずかしいほどに頬が緩んでいる。
完璧に意識してしまい、あんなゾクゾクする言葉を耳元で放たれて。
しかも言葉通り何でも聞いてくれる格好いい女の子。
胸の中にギュッと抱きしめてとか頼んでも、私が望むならしてくれるとか、
「ダメ、とりあえずこの頬の緩みだけは勘弁して!」
顔の赤みに関しては『温風が――』とか何とか言ってごまかせるけど、このニヤけ顔はどう転がしてもごまかせない。
私そんな口八丁じゃないし!
手に持ったお茶も若干温くなっており、時計を見るともう休み時間も終了する時間だ。
仕方ない。思いっきり授業に集中して、手をずっとノートの上を滑らせておこう。
ペットボトルのキャップをキュッと締め直し、私は小走りに梨花の後を追いかけて行った。