第百二十五章:自覚する感情
窓越しに乱反射を見せる日光が部屋に差し込み、瞼越しに瞳を焼かれたような錯覚を味わう。
瞑られた視界が赤く染まり、脳の奥にじんわりとした刺激が広がった。
私はベッドから身体を起こし、レース生地のカーテンを開けて身体いっぱいに日光を浴びる。
朝起きて真っ先にこうすると、心なしか心身ともに目覚めやすいのだとか。
終業式の帰り道にコンビニで買った雑誌に書いてあったので、試してみたのだ。
終業式が終わってから、早くも五日ほど経っている。
けれど、この目覚めてすぐに日光を浴びるという体験は、実を言うと今日が初めてだったりする。
昨日までは別に用事もなく、せっかくの春休みだったので、お日様が高く昇る時間まで起きなかったのだ。
もちろん、目が覚めればベッドの中で無意味に転がったりしていたけど。
ここ数日間、朝起きて部屋から出るのは決まってお昼過ぎだった。
だって毎朝眠いんだもん。
眩い閃光を放つ真っ白な光の球に身体の全面を向け、胸いっぱいに吸い込んだ空気を深呼吸するようにゆったりと吐き出す。
今日もゆっくりと寝ていたかったが、そうはいかない。
今日は梨花と出かける日――デートとかお遊びではなく、勉強をしに行く日なのだ。
昨日のうちに用意しておいたカバンを背負い、姿見の前でポーズをとってみる。
うん、我ながら可愛い。
「さてと、春休み最初の勉強……頑張りますか!」
このものぐさな女子高生蒔菜裕海は、来年受験生だと言うのにここ数日教科書さえ開いていなかった。
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いつもは通学通勤ラッシュで息苦しい電車内も、制服が少ないために若干過ごしやすい空間になっていた。
時間がいつものように早くないからというのもあるのだろう。
むせかえるような香水の臭いとかギトッとしたポマードの臭いが充満するなどということもなく、毎朝の通学と比べると実に快適だ。
まあ、だからと言ってズラッと並んだ座席に座れるわけではないんですけどね。
吊り手に指を絡め、ぐったりと揺れに身を任せる。
窓から覗く景色は今まで視認していたものと全く変わらない、何の変哲も無い住宅街や樹木のみだ。
時折踏切とかでいちゃついている制服の男女とかが目に入るけど、今日はいなかった。
代わりに真っ白な犬を連れたおじいさんが踏切で虚空を眺めていました。
普段通り何の変りもない景色を目の端で把握しながら意識を空想世界へと潜り込ませること数回目。
オカルト的な超能力で時間を加速させられたら何をするか、という議題が頭の中を巡ってきたところで、電車が停止して聞きなれた駅名をアナウンスする。
「――中央駅、中央駅ー」
学校前の駅名だ。
この名前と碧町駅というアナウンスだけは、どんなに深い妄想世界に浸っていても、この上ないほどの眠気と戦っていても聞き逃すことはない。
何故だろうか。
そんなことを考えながら、私は駅のホームにて両腕を広げて盛大に身体を伸ばす。
普段の通勤通学地獄では絶対に行えない行為だ。
穏やかな気候の中こんなことができるというのも、まあなかなか良いものかな?
数秒間そんな状況を堪能した後、私は梨花との待ち合わせ場所へと赴いた。
都会にしては簡素な改札を通り抜け、駅前をキョロキョロと見渡すと――いた。
通りの角に位置する本屋にて、黒髪を煙らす凛然とした美少女さんが静かに映画雑誌を読みふけっている。
時折ページを捲っては、新しい発見をした子供のように熱心な眼差しを向け、小さく頷いたりしている。
梨花にしては珍しくトレンディなものを見ているな――などと思い、少しだけこの光景を眺めていたいという衝動に駆られたのだが。
待たせるのも悪いと己の行動を考え直し、私はカバンを背負い直して梨花のもとへと駆け寄った。
「おはよっ、梨花」
「! あら、裕海」
私の姿に気が付くと、梨花はたった今まで開いていた映画雑誌をパタンと閉じた。
さりげなく右腕で抱えながら、自然を装って棚へと戻そうとしている。
「何読んでるの?」
梨花は隠したいようだったけど、ちょっといたずら心で聞いてみた。
「こ、今度上映される映画に、面白そうなのがないか見てたのよ。春休みだし、裕海と一緒に行くのもいいかなって」
「そっかー……。でも梨花、ハリウッド映画の最新情報雑誌見ても、日本で上映される映画の情報はあまり載ってないと思うけど」
手元の雑誌に視線を送り、梨花はハッとした表情を見せる。
背筋をピンと伸ばして、目が泳いでいる。
――梨花、何か隠しているね。
別に隠匿していることを詮索するような趣味はないけど、ここまで挙動不審だとやっぱり気になるよね。
「えっと、それは、はぅ!」
バサリと音をたて、梨花の手から一冊の本が落ちた。
最初はその映画雑誌だと思ったのだけど、梨花の手を見ると、そこに雑誌は存在する。
視線を泳がせ、床へと落下した書籍のタイトルを目で追ってみる。
ついでに、口の中で言葉にしてみて――、
「勉強嫌いな子に、やる気を与える方法100選」
自己啓発本――というか、文庫サイズの所謂ためになる書籍だった。
あれ? でも梨花って、勉強嫌いだったっけ。それに、やる気を出す方法じゃなくて、やる気を出させる方法って――。
「まさか、」
「だって、裕海絶対三日もしないうちに『飽きた』とか言うと思ったんだもん」
言わない、言わないよ! 確かに私が言いそうなことだけどさ……。
梨花は文庫本を手に取って優しく汚れを払うと、雑誌を棚に戻して文庫本を手の中に収めた。
どうやら買うらしい。
「裕海に見つかっても、気を悪くしないようにと思って……」
それで。それで普段読まないような映画雑誌に挟んでたんですか。
雑誌で本を挟んで読むとか、今時漫画とかでも見ない光景だよ!
突っ込みどころが満載な状況だったが、とくに何かを言うことはなく落ち着かせた。
梨花が文庫本を持ってレジに行くと、冴えない顔をした白髪混じりのおじさんが、嬉しそうに揉み手をして客の相手をしている。
駅前だから立ち寄る人は多そうだけど、お客さんは学生がほとんどだろうしあまり儲かってないのかな。
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本屋を出てから少し歩くと、駅ビルの端から目指すべき建物の陰が顔を覗かせた。
敷地はさほど広いわけではなさそうだけど、天を破砕するように伸びるビルは、見上げているだけで首が痛くなる。
もしかして、雲の上まで伸びているのではないかなどとメルヘンチックなことを思考してみたのだが、一階受付に設置された簡易案内図によると、どうやら九階建てらしい。
思ったより低かった。がっかり。
案内板――案内図とは違う即席の道しるべを辿りながら、梨花と一緒に階段をのぼる。
エレベーターはあるようだけど、使用許可は下りていないらしい。
前言撤回。九階建ても十分高いです。
一応今日行く教室は、五階なんだけどね。
息を弾ませながら五階までたどり着くと、私服姿の高校生らしき人たちが数人で固まりながらうろうろと廊下をさまよっていた。
同じような教室がずらりと並んでおり、確かに迷いそうだ。
私も同じように迷ってしまうかとも思われたのだが、
「大丈夫よ、ちゃんと教室の場所は確認済みだから」
と、用意周到完璧主義な同伴者のため、無駄な歩を進めることも無く目的の教室を見つけることができた。
「梨花って、本当頼りになるよね」
薄暗い廊下を歩きながらそんなことを呟くと、隣を歩く梨花がはにかみながら頬を染めた。
若干身を寄せるとさりげなく指を絡め、私の耳に口元を寄せて吐息を放つ。
「裕海も、もっと頑張んないとね」
「んもー、そればっか」
それにしても――、
と、私はそっと梨花の顔を目の端に入れる。
凛然とした瞳に、姿勢よく頼もしい歩き方。川の流れのように美麗な黒髪を躍らせ、整った横顔が目に入る。
格好良くて時に可愛くて、料理以外何でも完璧にこなすまさに理想の女の子。
もし梨花が恋人じゃなくて単なる友達とかクラスメートだとしたら、私の性格上、多分その欠点の無い魅力に嫉妬するか、憧れの対象として羨望の眼差しを送ってキャアキャア言ってたんだろうな。
後方に誰もいないことを確認し、私はさりげなく梨花の体躯に身を寄せる。
……梨花は。梨花はいつまで、私の傍にいてくれるのかな。
鮮やかな黒髪を視界の端に感じ、小さく吐息をこぼす。
所詮、私と梨花は青春を共にした恋人同士。この時が永遠に刻まれることは無い、いつしか終幕が来てしまう関係なのだ。
憧れとかじゃない。同性から見た羨望とか、解呪からの流れで、私は梨花の傍にいるわけではない。
女の子として――一人の女の子として、梨花のことが大好きだから。
メトロノームに刻まれたような正確なリズムで進んでいた梨花の足が不意に止まり、私の体躯から温もりが放れた。
凛然とした態度を保つ、所謂よそいきの状態である。
「梨花、どうしたの?」
「いえ、もうすぐ教室に入るから、あまりくっつかない方がいいかと思って」
声が届いていることを畏怖しているのか、声音は冷たく他人行儀だ。
だが、「離れましょう」ではなく「くっつかない方がいいと思う」という表現を使用したところから、何となく梨花なりには気を使ってくれているようにも感じるけど。
「いいんじゃない? たった一週間ちょっとの付き合いだし、女の子ならこれくらい普通だと思うけど」
今日はちょっと押してみよう。
今まで梨花が他人の視線に恐怖しているときは、できるだけ彼女の意思に沿ってきたつもりだ。
でも、もしかすると来年はこんな風に二人きりでいる時間も減ってしまうかもしれないのだ。
一緒にいられるときに、できるだけ一緒にいたい。
別に腕組みをしていたり、身体同士をくっつけ合っているというわけではないのだ。
肩を並べて歩いているだけ。全く持って不自然な部分は無い。
手も繋いでないんだし、誰もそんなこと気にしないと思うんだけどな。
私が二つ返事で了承しなかったことに一瞬驚いたのか、梨花はきょとんとした眼差しを私に向けている。
「……え、ええそうね。分かった。でも過度な接触とか馴れ馴れしいハグとかはやめに――」
「いいから早く入ろうよ! 教室の入り口付近でわたわたしてる方がよっぽど目立つっ、て!」
梨花の言葉が終わるや否や、私は彼女の腕を握って教室へと躍り込んだ。
脚がもつれてひっくり返る――なんて失態を演じることもなく、自然に室内へと闖入する。
十数人の視線を感じたと同時に、私も同じくクラス内を見渡してみる。
もしかしたら中学時代の友人とかがいるかもしれないし、仮にいたとしたら挨拶くらいしておかないと失礼かもな――と。
――いた。
知り合いがいました。しかも男の子だししかも――、
「あれ? 蒔菜じゃん」
モノクロを基調とした私服に、スラリと伸びた長い脚。
痩せぎすとまではいかないけど、筋肉質でもないバランスのとれた体躯を揺らしながら、その格好いい顔を煌めかせ、銀狼のような凛々しい目つきのその男子生徒は、私に向かって実にフランクに遠慮なく歩み寄ってきた。
「く、倉橋くん」
梨花を連れて威勢よく飛び込んだはずの私は、獲物を捕らえたような視線(実際は違う)をもった凛とした狼さんに捉えられ、蛇に睨まれたカエルのようにシュンとなってしまった。
迂闊だった。
いや、だからと言ってこの状況を回避できたとは思えないのだけど。
ああもう! 来るって知ってれば、こんな挙動不審な状態を晒すことにならずにすんだのに!
「ああ、委員長――氷室さんも一緒なんだ」
透き通るようなイケメンボイスが中耳腔を通り抜け、一瞬意識がふわりと浮遊する。
ああ、この声だけにはどうしても慣れない。倉橋くんの声って、絶対マイナスイオンか麻薬的な何かが混入してるよね。
ついでに、自分だけ呼び捨てだったという事実が私の単純な心を未知なる世界へと引き込んだ。
席順がもし自由なのであれば、倉橋くんより後ろがいいな――とか……あれ?
いつもであれば、このまま倉橋くんの美貌にやられた私は、そのまま視線を剥がすことができなくなるはずなのだが。
今日はあまり、倉橋くんに魅力を感じないような――。いえ、確かにカッコイイし、魅力的なことに違いはないのだけど。
でも別に、我を忘れて精神がトリップしてしまうほどではない。
私服だからかな。
てことはまさか……。私って、知らぬ間に制服倉橋くんに萌えていた!?
変な趣味を発見してしまったという事実に、後頭部を叩かれたような錯覚を覚えたが――。
いや、それは絶対にない。
服装とか雰囲気を超越して、倉橋風斗という男の子は格好いい。
それに、そんなくだらないことで半年近い青春を棒に振っていたとしたら、私はきっと立ち直れない。
「あら、倉橋くん。奇遇ね、こんな所で会うなんて」
冷徹余所行きモードの梨花が、爽やか余所行きモードの倉橋くんと対峙していた。
仕方がないとはいえ、梨花と倉橋くんが顔を合わせているという現実にどうもモヤモヤする。
透き通るような瞳に捉えられた梨花と、凛然とした双眸に貫かれた倉橋くん。
ああ、なんかどっちも羨ましい。立ち位置交換してほしいな。
――あれ、だとしたら私はどっちに対してモヤモヤしてるんだろ?
顔を突き合わせながら何やら話ている二人の姿を見やり、私は何となくコテンと首を横に倒してみる。
格好良い、そして憧れの人が二人、私の目の前で話している。
今までは誠に失礼なことながら、梨花と倉橋くんを同時に見ると、私の意識は八割以上倉橋くんへと向いていた。
倉橋くんと梨花は違う――そう思っていたはずなのに。
「……梨花」
誰かに聞いてほしいわけではなく、吐息にように自然と漏れた。
梨花を見てるとドキドキする。――って言うと今までしてなかったように見えるけど、そうじゃなくて。
今までは梨花を見ている時、心の奥底の方では微かに同性からなる憧れや、端正な顔立ちにキュンと来ているとか、いわゆる本気の恋ではない感情が疼いていたような気がする。
もちろん梨花のことは前から好き――大好きだったけど、それは梨花が女の子だからであって――あれ。
胸の中で何らかの感情がトクンと跳ねた。
何て言えば良いのか、はっきりとは思いつかない。カッチリとはめこめるような、これといった言葉は思いつかない。
――だけど、
私は梨花のことが好き。それは変わらなくて、でも、少し違う――。
いわゆる、『異性として好き』という言葉が当てはまりそうで当てはまらない、そんな感じ。
むしろ――、
私はもう、男の子より女の子――いや、女の子しか恋愛対象として見られないかも。
「蒔菜、どうした?」
「どうしたの? ボーっとして」
突如舞い降りた事実にトリップしかけた私の心は、そんな二人の言葉によって現実に引き戻され――、
「え、ああ、うん。だいじょぶだいじょうぶ」
格好いい倉橋君と凛々しい梨花に双方から顔を覗き込まれ、私は思わず顔を背ける。
……もう、二人の顔をまともに見られない。
この場をどうにかして凌ごうと思考を巡らせていると、狙ったかのようなタイミングで塾講師が現れ、私たち三人は用意された席へ着くことをよぎなくされた。