第百二十四章:最終日
結局あの後、梨花には「行く」との連絡を入れた。
簡略的なメールを一本送っただけなのだが、溜息をつく間もなく折り返しの電話が鳴り、普段と比べてひどく興奮した様子の梨花が、電話口にてはしゃいでいた。
どうやら私からの連絡が来るまで、断られるのではないかという不安にずっと苛まれていたらしい。
今どんな顔をしてるんだろう、とか思わず気になってしまうほどに、嬉しそうな声音をあげていたけど。
私って、そんなに信頼無いのかなあ。
それとも、そんなに勉強嫌いだと思われているんだろうか。
普段のテストの出来が悪いのは、別に勉強してないからじゃないんだけど……。
ともかく、
梨花との約束に関することは、その電話で大体済んだ。
どうやら講習は終業式直後からあるようなので、梨花と会えなくなる、といったことにはならないみたい。
その点では良かったかも。
梨花と一緒にいられる時間が、少しでも増えてくれる――とか、言ってみたり?
そういえば失念してたけど、来年はクラス替えもあるんだよね。
割と雰囲気は良い方だし、私的にはこのまま変えなくてもいいように思うんだけど、そうはいかないらしい。
一学年六クラスくらいあるんだから、下手気にシャッフルされて梨花と離れても嫌だし、クラスの雰囲気が崩れても嫌だ。
ああ、それに関しては若干憂鬱だなあ。
だが、そんなことを考えたからといって状況が変わることは無い。
私は無駄な心配をしながら小さく溜息をこぼすと、鞄を持って、今年最後の出席をこなすために玄関を出た。
今日は、その終業式なのだ。
---
「――では、くれぐれも事故などには気を付けて」
担任、川村先生のフレンドリーな長期休暇中に関する注意事項の羅列が終わり、教室中から脱力するような溜息が奏でられる。
この感覚は、冬休み開始以来だろうか。
でも前は、これから梨花と会う日が減るなーとか考えてたけど、今回は違うもんね。
それに――、
私は教室を見渡してみる。
ありふれた日常を切り取ったような空間が、今この場に広がっている。
この過ごしやすい環境も、新しいものへと変わっていくんだよね……。
変化を嫌うわけではないけど、私は結構この顔ぶれは気に入っていたのだ。
新しい環境で仲良くやっていけるか、少しだけ心配だ。
もっとも、灯曰く、私は意外と環境適応能力はあるほう、らしいので、そこまで深く気にするほどではないのかもしれない。
そう言った張本人である灯ほどではないけどね。
そんなことを考えながら、持ち帰ることを渋って溜まりに溜まった荷物を小さな鞄へ詰め込んでいると、不意にトンと肩を叩かれた。
突然の感覚に一瞬だけ驚いたが、手を置かれた方へ顔を向けると、見慣れた顔が柔らかく微笑んでいた。
倉科君だ。
「蒔菜さん、またね」
「――う、うん」
紺色のショルダーバックをかけた倉科君は、小さく手を振って高垣君と教室を出て行った。
退室する姿を流し目に見送った後、私は若干早まった鼓動を感じて俯く。
うぅむ、不意打ちだった。
……それにしても、「またね」か。クラス替えあること、忘れてるのかな。
でも、ま。男の子の中では割と話しやすい部類だし、どうせなら同じクラスだといいかも。
顔見知り程度でも、知ってる人が多い方が新しい環境にも溶け込みやすいからね。
なんて考えながら、ボサッと倉科君の背中を追っていると、不意に背後から、わざとらしい咳ばらいが聞こえた。
「裕海、私が来たことに気が付かないくらいに、誰をそんなに見つめていたの?」
首を百八十度回し、首に負担がかからないようついでに身体もそちらに向ける。
視界に入ったのは女子の制服、見慣れた着こなし、視線を上げれば、煙る黒髪、美麗な首筋にキュッと締まった口元。
そして、銀縁の眼鏡。そこに映るは切れ長な釣り眼。
梨花そっくり、というか梨花である。
「あれ、高垣君と倉科君だよね? もう私、高垣君とは何でも無いって言ったよね」
腰に手を当てて、顔をずいと接近させる。
顔は怒ってないけど――あ、教室に残ってる皆さんが私を見てる。
哀れみの視線――、待って大丈夫、別に私委員長さんに叱られてるわけじゃないから。
「梨花、ちょっとここじゃあれだし、もっと別のところで、」
「あー、そうやってまたすぐ逃げるー」
梨花はそのまま私の前の席へ腰を下ろすと、若干不機嫌そうな表情を作って私の顔を見つめてきた。
「裕海は裏切らないと思ってたのにー」
バタバタと脚を揺らし、学校特有の鉄パイプ状の机下をパタパタと蹴る。
ジタバタジタバタ。
「裏切って無いよー」
私も机に突っ伏して、机の下で梨花の脚を優しく蹴っ飛ばす。
ジタバタジタバタジタバタ。
そんなことをしている内に、皆さんお帰りのようだ。
気が付けば、教室には他に誰もおらず、ガラーンとしている。
突っ伏した顔を上げると、いたずらを成功させた子供のような表情をした梨花がはにかみわらいを見せていた。
私もそれに返すよう、照れ笑い。
「裕海がのってきてくれて良かったー」
「最初真剣かと思ったよ、というか良いの? 梨花って、外では割とお堅いイメージで通ってたと思ってたんだけど」
「大丈夫よ、どうせクラス替えするんだし」
平然と答えられた。
「ところで、裕海今日はお弁当持ってきた?」
持ってきてない。
今日は元々早く帰るつもりだったし、母も今日が終業式だと知っているから、わざわざ作ったりはしなかったはずだ。
「無いけど、」
「それじゃ、どこか食べに行かない? 駅前の塾を見にいくついでに、どうかなあ?」
私の言葉が言い終わるより先に、遮るように言葉を挟まれた。
珍しく、梨花は少し興奮しているようだ。
誰もいない教室だからか、久しぶりに素の状態を外で見せたからか、理由は分からないけど、梨花の瞳を見れば分かる。
キラキラと子供のように輝き、口元もくすぐったそうに緩みかけている。
二人きりで、梨花の部屋にいるときのように、安心しきっているときの表情だ。
「いいよ、それじゃあ一緒に行こうか」
窓から差し込む日差しから逃れるように、私は梨花をカーテンの陰へと誘い込む。
厚いカーテン生地のため、仄暗い小さな空間が作られる。
そこで一瞬だけ軽く唇を重ね合わせ、照れ隠しにはにかみ笑いを見せ合い、私たちは教室を出た。
誰もいない廊下にて、遠慮がちに指を絡め合いながら。
---
三月の空を飲み込む外気はまだ冷たく、時折吹き抜ける風は素肌の温もりを容赦なく奪っていく。
だが確実に春はやってきているらしく、所々に小さな花卉が顔を覗かせている。
私はそんな小さな変貌を遂げた景色を眺め、春の訪れを心から感じていたのだが、人一倍寒がりな梨花はそんな私を視線で追いながらも、忙しなく足の動きを速めていた。
スカートを可愛らしくはためかせながら、梨花は歩道上を行ったり来たりして、身体を温めている。
時折両手に吐息を吹きかけるのが、何とも可愛い。
でもそれって、真冬とかに手袋越しにするものだよね。
「そんなに寒いかな」
「別にそういうんじゃないけど。……さっきの温もりを、もっと感じていたいから」
梨花はそう言うと、ポッと頬を淡い桜色に染める。
格好いい――と言っても過言では無いであろう端正な顔立ちをほんのりと赤らめる、なんて可愛いのだろう。
ああ、そうやって照れたように頬をかく仕草とか!
もう見てるだけでドキドキしてきた。
「……裕海、どうかした?」
我に返った。
危ない危ない、明日から春休みだというので、少しハイテンションになっていたようだ。
休みと言ったって、春季講習だってあるんだから――ああ、梨花と一緒にお勉強……いいなあ。
「裕海、危ないよ」
またしても妄想世界にトリップしかけた私の腕をぐいと引っ張り、梨花は自身の体躯に押し付ける。
車道に出かかっていた私を守ってくれたらしい。
なんていうか、行動の一つ一つが格好よすぎる。……もっと甘えたいなあ。
そんなことを考えながら梨花を見つめていると、いつの間にか、目的地まで辿りついていた。
窓際で向かい合って座れるような席とか、空いてるといいな。
---
「…………」
「…………」
昼時ではあったが、思ったよりかは混んでいなかった。
まあ、喫茶店とファミレスの間みたいな場所だしね、親子連れのお客さんもあまり来てないみたいだし、煙草の煙をまき散らすようなおじさんおばさんもいないから、そういった意味では割と良い時間帯に来れたとは思う。
他の学校はまだ終業式が来ていないのか、知らない制服でごった返しているというわけでもない。
普通に考えれば、かなり過ごしやすい空間だとは思うんだけど――。
「うちの学校の生徒、たくさんいるね」
「皆、考えることは一緒みたい」
自然な風を装って辺りを見渡すと、見慣れた制服姿の人々が、皆思い思いの席について、何やら楽しそうに話している。
男女関係なく集まっているところから見て、部活とか同好会のメンバーではないかと思われた。
別に他の人がいたからといってどうってことは無いんだけど、これじゃあせっかく二人きりで来たというのに、イマイチ特別感を味わえない。
私は全然オーケーなんだけど、梨花は結構そういうことを気にするタイプなので、完全に借りてきた猫状態になっている。
さっきまでの明るい梨花は、もう見れないのかあ。残念。
この状態の梨花をそのままにしておくと二人の間に嫌な静寂が生まれてしまうので、とりあえず私は話題を切り出すことにした。
「この後はどうするの? 細かい予定は夜メールするとして、一度塾までの道のりを歩いたほうがいいと思うんだけど」
氷を浮かべたグラスを揺らし、梨花は怜悧な双眸を虚空にさまよわせる。
眼鏡越しの瞳が私を捉えたところで、梨花は吐息のように小さな声音でポツリと呟く。
「そうね、私は裕海の提案に賛成よ」
クピリと喉を鳴らし、冷えた水の入ったグラスを口に付ける。
時折切れ長かつその鋭い瞳で、三つ隣の席で談笑する男女グループに半瞬間だけ視線を送る。
そんなに、他の人のことなんて気にしなくてもいいのにな。
注文を待ちながら、静寂をごまかすように私もグラスを傾ける。
家で飲む水と比べて、若干美味しいような気がするけど、これは気分的なものなのかそれとも実際に美味しい水なのか、どっちなのだろう。
などと素朴な疑問を浮かべながらコクコクと喉を鳴らしていると、不意に梨花の薄い唇が小さく開いた。
「こんな風に、普段学校にいるような時間に二人でこんなところに来れるなんて、最後かもしれないんだよね」
ふわりと放たれ、シャボン玉のように弾けて消えてしまいそうな、自然と発せられた言葉。
梨花もきっと、そこまで重要なことをいった気は無いのだろう。
でも、確かにそれは事実だ。
来年は、私はともかく梨花は勉強やら何やらで忙しいだろう。
こういう場所に来ることが息抜きになる私なら時折訪れそうだけど、下手すると梨花は、こういう場に腰を下ろすのが苦になっているのかもしれない。
毎日が忙しく疲れる毎日を送っている梨花を、こんな場所に私は誘うだろうか。
「また、来年も来ようよ」
色々と葛藤し、逡巡することもあったが、結果的に私が言った言葉とは、そんな内容だった。
薄っぺらくて、ありふれた言葉なのは自分でも分かっている。
だけど、これが私の本心だ。――きっと、来年の私がこの言葉を聞いても、納得してくれると思う。
「時間が無かったら作ればいい。梨花と二人でいる時間がなくなるほど忙しくなるんだったら、私大学なんて行かない」
「……裕海?」
心配そうに視線を送る梨花。
あ、ちょっと弾けすぎたかも。
「えっと、まあ大学行かないってのは大袈裟かもだけど。でも、梨花とまた来たいっていうのは、嘘じゃないから」
梨花の透き通るような瞳に、真剣な表情の私の姿が映る。
梨花は小動物のようにパチクリとその目を見開いていたが、私の言わんとしていたことを理解してくれたのか、ほんのりと頬を染めて俯いた。
「来れるかな?」
「私が絶対、梨花を連れて行く」
両手で梨花の手を包み込み、ギュッと力を込める。
俯いていた梨花はそろりと眼鏡越しの上目使いをすると、いたずらっぽくはにかむように表情を緩めた。
「そのためには、裕海も頑張らなきゃいけないんだよ?」
「……もう! やっと格好付いたと思ったのにい」
どちらともなく、クスリと笑い合う。
氷のように冷たい表情を見せていた梨花が、やっと笑ってくれた。
テーブルを挟んで向かい合った二人は、数々の思い出話を語らいながら、その日をゆっくりと味わったのだった。