第百二十三章:終端を彩る提案
暖かく、柔らかい日差しが外気を包み込む。
時折流れる微風が制服越しの肌を撫で、心地良い。
透き通るような蒼穹を眺め、私は小さく身体を伸ばして目を細めた。
「……疲れた」
「お疲れー、裕海ちゃん」
背後から姫華が駆け寄り、ガチガチに凝っている私の肩を揉んでくれる。
後方へと顔を向けると、日光を受けて美麗に煌く茶髪が、そよ風を受けて流れていた。
確か姫華はさっきまでしっかりと髪を結んでいたから、ここに来るまでに解いたのだろう。
姫華の温かい手によって、肩や頭の重みが軽減される感覚に身を預けながら、私は心の中で溜息をつく。
じっとしているのは苦手では無いと思っていたけど、流石に数時間もピシッとした状態で座っているのは疲れた。
大切な式典だということは重々承知しているので、気を抜くこともままならず。
私は在校生最前列にて、眠気を堪えながら必死に前を向いていたのだ。
「終わっちゃったねー、卒業式」
痛い箇所を的確に指圧しながら、姫華がまったりとした口調でぼそりと呟く。
そう、終わったのだ。やっと。
まあ、来年私たちも送られる側になるのだから、「やっと」という表現はよくないのかもしれないけど――。
「双海さん、大丈夫かなあ?」
姫華は私の背中から離れると、身を飜えし、講堂の方へと身を捩る。
ついでにさりげなく腰や背中を回していた。
やっぱり姫華も疲れてたんだ。
私も踵を返し、姫華の傍に歩み寄り、肩を並べる。
梨花と灯は、今この場にいない。
今年卒業する先輩方とほとんど面識の無い姫華や、委員会にも部活にも入っていないために、全くもって関わることの無かった私は、何事も無かったかのように外で春風を浴びているが。
二人は結構仲の良い先輩がいたらしく、最後のお別れのために講堂に残っているのだ。
とくに、灯と一番親しかった方は、県外の大学に進路が決まったらしく。
これからの分、目一杯話してから戻って来る、と言っていた。
帰るまで一緒にいても良いのに、とも思ったのだけど。
相手方の予定が合わなかったらしい。
先輩たちのみのお別れに、水を差さないと言っていた。
梨花は、「お世話になった方たちに、一言挨拶してくる」と言っていた。
もう少し感情を出しても良いのに、と思ったのだけど。
普段、私以外の人と接している時の梨花は、静かで凛としているので、それで良いのかもしれない。
――とにかく、
そう言った状況なため、私と姫華は校門付近で二人を待っている。
羽谷さんは、もう儀式を済ませて先に帰ったらしい。
少し素っ気なくも感じるが、姫華はとくに気にしている様子は無いので、別に私は何も言わないけど。
暫しの間春風を感じていると、静寂の中、重なり合う二つの足音が奏でられた。
片方は引きずるように、もう一つは包み込むように。
近づくにつれて小さな嗚咽が混じり始め、時折立ち止まる。
「……おかえり」
滂沱の如く頬を涙に濡らし、薄桃色のハンカチで瞳を拭う灯とともに、彼女を抱き寄せるような格好で佇む梨花が戻ってきた。
感情に身を任せている灯とは相反し、梨花の表情は涼やかであり、飄々としている。
凛然とした双眸を銀縁眼鏡越しに映し、日差しを受けて煌く黒髪を風に躍らせる。
心の揺らぎは、一切感じられない態度だ。
灯は私の姿を視界に入れると、手で顔を覆いながらも、気を使うように梨花の体躯から離れた。
そのまま姫華の胸に歩み寄り、顔を埋めて身体を震わせる。
その様子を暫し見守った後、傍に歩み寄ってきた梨花に、私は声をかけた。
「梨花は大丈夫なの?」
「私は大丈夫よ。一応先輩方に挨拶はしたけど、湿っぽいお別れにはならなかったし」
そっと梨花の瞳を見てみたが、濡れた跡も泣いた形跡も全く無い。
梨花がそう言うのならそうなのだろうけど、もしかして梨花がお世話になった先輩って人も、あまり心内をさらけ出さない人なのだろうか。
――と、あれ?
憂いな表情で蒼穹を眺める梨花越しに、高垣君と倉科君の姿が目に入った。
あんな所で何してるんだろ。卒業式自体はもうとっくに終わってるのに。
誰かを探しているのか、物陰に半身を隠匿しながら辺りを見回している。
別に関係無いんだけど、そういう妙な行動を見ていると、私の探究心のようなものが変に掻き立てられ、少し気になるのだ。
さて、灯が落ち着くまで、ちょっと尾行してみようかな――と。
「裕海、どこ行くの?」
「裕海ちゃん、そろそろ帰ろうよー。双海さんも大分落ち着いたみたいだし」
右足を一歩踏み出した刹那、梨花と姫華に背後から呼び止められた。
そうこうしているうちに、二人の姿を視界から見失ってしまった。
少し残念だけど、まあいっか。
姫華に寄りかかるような体勢で俯く灯に視線を送り、私は同じように梨花の体躯へとしなだれかかる。
そんな私を、梨花は拒絶すること無く。
肩を抱き寄せ、私の心身を迎え入れて受け止めてくれた。
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さて、
卒業式は終わったものの、在校生にはまだ春休みと言う名の休息は巡ってこない。
あまり接する機会は無かったとは言っても、廊下を歩けば嫌でもすれ違っていたわけで。
そうして顔を合わせる生徒の人数が明らかに減少しており、廊下が若干閑散としている。
うむ、今更ながら少し淋しいな。
でもまあ、あと一ヶ月もすれば新入生が入って来て、また賑やかになるのだろう。
……そうなると私も最上級生――受験生か。
分かってはいたことだけど、やっぱりいざ直面すると何とも言えない思いに苛まれる。
ああ、一年生の頃は、二年生楽しそうだなとか思ったけど、二年生になっ
ても、三年生楽しそうだなとは結局思わずに終わっちゃった。
実際どうなのか分からないけどさ。
明日目が覚めたら、全てこのままで日付だけ一年前に戻ってたりしないかな――。
などと非生産的かつ凡庸な空想を繰り広げていると、
「裕海、どこいくの?」
背後からポンと肩を叩かれ、梨花に呼び止められた。
どこって……休み時間に廊下出て行くとこと言えば一箇所しか――。
「…………」
振り返ると、行き先ははるか後方に存在している。
ふわふわとファンタジックな内容を妄想している間に、目的の場所を通り過ぎていたらしい。
危なかった。
照れ隠しに一発咳払いをして、私は踵を返して冷たい廊下を舞い戻る。
今度はちゃんと、行き先を視界に入れて忘れないようにしないと――。
「裕海、春休みのことなんだけど」
梨花は小走りに私の傍まで駆け寄ると、肩を並べ、姿勢良く横に位置をとった。
「もし暇だったら、一緒に行きたいところがあるんだ」
廊下の窓から微風がこぼれ、ふんわりと甘い香りが漂う。
これはもしかして、梨花からデートのお誘いかな?
春休みか――うん、別段急ぎの用事は無いし、家族でどこか行くとかいう予定も無い。
むしろ、何もなさすぎて怖いくらい。
私、何か忘れてないよね?
少し記憶を遡ってみるけど、とくになさそう。多分大丈夫。
「暇だと思うよ、どこ行く? 梨花、どこ行きたい?」
廊下に誰もいないことをいいことに、私は甘えるように梨花の腕に絡みつく。
梨花は一瞬だけ離れようとして、辺りに人気が無いことを確認すると、私
の行動を拒絶せず、受け入れてくれた。
温かい感覚と、柔らかい触覚。梨花さえ気にしすぎなければ、毎日こうし
てベッタリするんだけどな。
「そこの駅前に、高い建物があるでしょ?」
梨花の言葉を聞き、私は毎日の登下校を思い出してみる。
確か――何の建物だったかは憶えてないけど、ベージュっぽい色彩の建築物は確かにあったような気がする。
あまり目立たず、おしゃれな感じはしなかったな。
でも、それがどうかしたのかな。
「そこで春休みにイベントがあるんだけど、――一緒に行かない?」
「イベントかー。良いよ、でも何をするの?」
恋人さんに「春休み、一緒に行こう」と言われて断るはずは無い。
でも、一応何をするのかだけは聞いておかないとね。
梨花はいたずらっぽくはにかみ笑いを見せると、私の腰辺りに手を回しながら、柔らかい声音で言葉を紡いだ。
「塾の春期講習だよ。無料だし、来年に向けて体験しておくのも良いかなって」
――その口端から出た言葉の内容は、あまり柔らかい事では無かったけど。
「は、え? 何で?」
思わず私は、素っ頓狂な声をあげてうろたえた。
漫画みたいに壁とかに張り付いて、いかにも驚きましたというアクションをとろうとしたが、梨花はそれを事前に察知していたのか、私の腰を支える手の力を強めて離さない。
え、だって待って。
確かに来年は三年生だけどさ、別にせっかくのお休みまで勉強に費やすことないじゃん。
来年の長期休校こそ、そういったことに時間を使うんだし、今年の春休みくらいは、二人の仲をもっともっと深める時に使いたいなーなんて。
――などと、いくつもの言い分はあったのだが。
「……何で? 塾行くの、一人じゃ寂しいの?」
思いが渦巻きすぎて焦ってしまったためか、口から出た言葉は頭の中とは全く違う内容だった。
そんな私の言葉を聞いた梨花は、半ばあきれるような表情を見せ、
「私は一人でも平気な人だけど、裕海は絶対一人じゃ勉強しない人でしょ?」
「――ぐっ」
痛いとこを突く。
確かに私は『春休みはどこに行こうかなー』とか、そんなことしか考えてなかったけど。
でも、それは来年から頑張ろうっていう私なりの決意から来るもので――あれ? 自分で言ってて思ったけど、これって結局先延ばしにしてやらないパターン?
「分からないとことかさ、難しいところは私が見てあげるから――ね? 一緒に行かない?」
梨花の純正な双眸が私を捉え、小さく首をコテンと倒す。
珍しい。梨花がこんなに甘えたアクションをとることも、ましてや学校内でこんな可愛らしい行動をするなんて。
「ね、行こーよぉ」
まるで組み敷かれるかのような勢いで、梨花は私を壁際まで追いやった。
静寂が耳に痛い三月の廊下。時折冷たい風が通り抜けるのに、私の身体はポカポカと温かい。
今は誰もいないけど、このまま続けていたら誰かしらはこの廊下を通るだろう。
梨花は、それでも良いのかな。
「……梨花?」
「裕海が『行く』って言うまで、放さないよ?」
吐息のかかる距離。
ああ、もう――このまま続けてたら、さしもの私でも理性とか色々飛ぶよ?
「べ、別に行かないとは言ってないし」
「本当? よかったぁ」
梨花は私の体躯から手を離すと、嬉しそうに笑顔を見せて頬を染めた。
何かいいように丸め込まれたみたいに感じるけど――梨花と一緒だし、春休みに塾行くのも、意外と楽しいかもな。
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「……疲れた」
自室のドアを開けた刹那、ベッドへと身体を投げ出して四肢の力を抜く。
疲弊の溜まった身体を、ふかふかな布団が包み込み、癒してくれる。
手に持った広告を顔の前に広げ、うつぶせのまま私はその紙切れに書かれ
ている内容をもう一度読み直す。
――意外と日数あるなあ。
無料、しかも誰でも参加可能とのことだったので、どうせ数日間――もしくは一日体験程度だと思って了解したのだが、どうやら講習は一週間以上あるらしい。
地方まで伸びている大手の塾なため、そういったことが可能なのだとか。
私は寝返りを打ち、真っ白な天井を見つめる。
……どうしよう、かな。
確かに他人ごとでは無い。
私だって、梨花と一緒の大学に行きたい。
高校を卒業してからも、ずっと梨花と一緒にいたい。
でも、梨花は秀才――天才で、私はどこにでもいるような平々凡々な凡人だ。
普通なら、同じステージに立つことも許されない、不釣合いな二人。
梨花は、こんな私をどう思ってるんだろう。
卒業したら、自然消滅する関係程度にしか、想ってないのかな。
このまま、この時が永遠に続くわけじゃ無いんだよね。
ベッドの上で寝返りながらふと視線を泳がせると、机の端に畳まれた一つのマフラーが目に入った。
私の誕生日に梨花がくれた、薄桃色の手編みマフラー。
思い出のマフラーを視認し、私は思わず穏やかに目を細める。
……決めた。やっぱり行こう。
来年は忙しくなっちゃうんだし、少しでも梨花と一緒にいたい、それに――、
梨花と一緒なら、頑張れそうだし。