第百二十一章:無責任な傍観者
三月と言っても、まだ寒い。
春風を期待して外に出てみたものの、北から南に向かって通り抜ける風は冷たく、肌に突き刺さる。
季節的には春だけど、心地良い温暖気候はまだまだ先のようだ。
二月は楽しかったな。
色々あって大変といえば大変だったけど、それは全部嫌なことでは無く、楽しいことだった。
あれから梨花は毎日のようにマフラーを見せては、空き教室でも私の部屋でも梨花の部屋でさえも甘えてきた。
私といるときの梨花は甘え上手なのかとも思う節はあったけど、やはり梨花は多少遠慮していたらしい。
マフラー云々では無く、いつでも甘えていい、というのが梨花にとっては嬉しかったらしい。
恋人同士なんだから、そう遠慮とかしなくていいのに。
とにかく、二月のイベントは二つとも大成功だった。
私としては珍しく良い方向に転がり、姫華とも梨花とも仲違いすることなく三月を迎えることができた。
今更だけど、やっぱり背後霊がいない、というのは結構大きいのかな。
秋は本当に酷かったもんなあ、何しても上手くいかないし、クラスメートまで巻き込んじゃうし。
秋色のチェック模様なマフラーをふわりとかけ、私は碧町駅までの道の
りを歩んでいた。
姫華は昨日から羽谷さんの家に泊まっていたらしく、今日の登校は一人。
とは言っても、駅まで歩いて電車に乗っちゃえば、梨花が駅前で待っててくれるんだけど。
「……卒業式、かぁ」
不意にそんな事を呟きながら、私は地面に転がっていた小石を蹴った。
先月から先輩たちは自宅学習期間に入っており、学校内が若干ガランとしている。
灯なんかは、部活やら何やらで上下の関係はあったらしいし、梨花も委員会とかで接する機会があったらしく、先輩がいないことに、寂寥を感じているらしい。
ここ最近のお昼休みの話題は、大抵そんなところだ。
文田君との惚気話より、部活でずっと面倒を見てくれていた先輩と会えなくて寂しい、という話題の方が増えている。
梨花はそれに対して、頷いたり肯定したりしているのだけど。
実際私は、実をいうとあまり寂しさや心の穴を感じていない。
それは別に、私の心が冷たくて残念な人間だから、というわけでは無く。
単に、今回卒業する先輩に特別仲が良い人がいないだけである。
元々私は、あまり上下の友達ができないのだ。
先輩のみならず、後輩にも知り合いはほとんどいない。
羽谷さんと――ああ、背後霊だと分かったときに、突然告白してきた子がいたっけ。
あの子今どうしてるんだろう。
あれから私は、あの後輩ちゃんに襲われたり告白されたりはしてないけど。
あの様子だと、かなり本気っぽかったからなあ。
――意外と冷めやすいのかもしれないけど。
単なる憧れとかだったのかな、などと思いつつ。
視界に碧町駅が闖入し、心を引き締める。
さてと、毎朝の戦場たる、満員電車がまた近づいてきた。
今日は何両目が空いてるかな。
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「裕海、おはよう」
学校近くの駅から出ると、銀縁メガネをかけた梨花が、まるでお人形さんのように慎ましげな風貌で佇んでいた。
北風に煽られ、梨花の透き通るような黒髪が玲瓏に煙る。
梨花の髪を見るたびに、私は何度も髪を伸ばそうかと考えるのだけど。
毎度毎度、すぐに諦めて肩程度の長さで切ってしまう。
確かに長くて綺麗な髪には憧れるけど、あれだけ長いと凄く手入れが大変なのだ。
逆に言えば、梨花は毎朝丁寧に手入れして、それで私よりも早く駅に着いている、というわけだけど――。
梨花はいったい、何時頃に起床しているんだろう。
寝不足には見えないけど。
「どうしたの? そんなにジロジロ見て」
歩きながら梨花の髪を見つめていると、彼女の顔がこちらを向いた。
凛然とした瞳に、キュッと結ばれた口元。
声音こそ普段通りだが、表情は怜悧な状態であり、一瞬戸惑う。
出会った当時と比べて、梨花はかなり接しやすくなったと思うのだが、やはりまだ心に壁を作っているのだろうか。
それか、いつもとろけるような表情を見ているから、普通の状態が味気なく感じるだけかもしれないけど。
なんて考えながら梨花の顔を見ていると、突如背後から肩に手を乗せられた。
「おはよう、裕海」
「ああ、おはようあか――」
灯、と言おうとして、私は思わず口を閉ざした。
明るめの髪色に、男子受けしそうなスカート丈と着崩した制服。
目つきも若干流し目で、立ち振る舞いは普段と全く変わらないのだが。
まぶたが桜色に澱んでいる。
瞳の端もよく見ると赤くなっており、暫しの間見つめた後、ギョッとした。
「灯、何、どうしたの」
「……うん、ずっと仲良くしてくれてた先輩が、県外の大学に行くことになったんだって」
しなだれかかるように肩へと寄り添ってきたので、一旦梨花から離れて灯の肩を抱きしめる。
ちょっと視線を泳がすと、寂しそうに私を見つめる梨花の顔が目に入った。
梨花ごめん、ちょっとだけ待ってて!
灯の肩に手をまわして、姫華とかがするように優しく撫で、とりあえず落ち着かせる。
先輩……か。
卒業の時期だとは分かっていたけど、正直言って私はあまり実感が沸かなかった。
だから、刻一刻と迫る別れの日を、全くもって気にしていなかったのだが。
灯にとっては、大切な日なのだろう。
灯だけじゃ無い、きっとほとんどの人が、何かしらの寂寥や喪失を感じるはず。
梨花だって……。
視線を送ると、飼い主の帰りを待つ子犬のような表情で、私のことをじっと見つめていた。
……うん、でも梨花だって、その日になれば寂しさとかを感じると思う。
私はとくに、お世話になった先輩とかいなかったしなあ。
中学の時はどうだったっけ。
……よく思い出せないけど、泣いたりはしてなかったような気がしてきた。
私、感動とかそういった感情が乏しいのかな……。
「離れたく、ないよ」
嗚咽の混じった、吐息のように弱々しい声音。
珍しく頼られる感覚を覚え、私は肩を抱き寄せ、歩きながらも出来る限り慰めてあげた。
肩から腕にかけてを摩っていると、多少梨花の視線が冷たくなった。
――またお昼休みに、マフラーで甘えられるのかな。
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「週末に卒業式を開式するので、二年生はその準備を手伝ってもらいます」
ホームルーム直後、担任の川村先生がそう言うと、辺りから脱力した溜息や喜びの混じった吐息がこぼされた。
前者はやる気の無い人や、来たる将来のために受験勉強を始めた優等生組。
後者は、灯など上下の繋がりを大切にするような人たち。
ちなみに、梨花は後者だった。
皆と協力して何かを達成させる、ということは苦手なようだが、やはり
委員会などで先輩と接する機会は多かったのかもしれない。
ちなみにどうでもいいことだが、私は前者だった。
そんな必死に勉強はしてないけどね。
「――ってことは、帰る時間が少し遅くなるのか」
隣の席にて、疲れたように身体を机に被せた倉科君が、独り言のように呟いた。
倉科君は部活とかもやっていないし、よく一緒にいる高垣君もそう。
すなわち、毎日放課後は残らずすぐに帰ってしまうのだ。
姫華も少しすると、羽谷さんを呼びに教室からは出て行ってしまう。
――ふむ、これはチャンスではありませんか?
姫華には恋人さんがいるから、どう天地をひっくり返しても倉科君と姫
華がお互いを想い合いながら添い遂げる、なんてことにはならないが。
数日後からは春休みが開始され、来月はクラス替えだ。
倉科君と姫華が一緒のクラスになる確証は無い。
むしろ、これだけ教室の数があるのだから、別れる可能性の方が高いだろう。
姫華は男女隔たりなく接する人だし、滅多に他人を偏見の目では見ないと思う。
だからここは、二年生最後の思い出というか甘酸っぱい青春を、倉科君に体験してもらってはどうかな?
きっと倉科君も、そのことを考えているのだろう。
珍しく、放課後も姫華の姿を目で追うことができる。
決して叶わない恋だとしても、それはきっと未来を彩る美しい経験になるはずだから――って、失恋した人が言ってたら、単なる負け惜しみみたいに聞こえるけど。
とにかく。
好きな人を普段より長く見ていられる、っていうのは良いことだよね。
倉科君は多分、姫華に女の子の恋人がいることは知らないはず。
ふっふっふ、私は叶わぬ恋をする少年少女には寛大なのだ。
「放課後も、普段より長く一緒にいられるよね」
「……え、ああ。……うん」
挙動不審に応える倉科君。
やっぱり、姫華のことを考えていたんだろうなぁ。
倉科君の恋路を応援することはできないけど、少しでも好きな人と一緒にいたいって気持ちは痛いほど分かる。
経験者は語る、ってやつだよね。
違うか。
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放課後。
講堂に集められ、物資撤去から椅子並べなどの作業を任せられた。
男手が必要な仕事なのだが、ほとんどの男子は、屋外にてもっと大変な力仕事にまわっているらしい。
なので文句は言えない。
だけど、流石にこれだけの数を今日中にとか、いくら二年生の人数が多いからっておかしいでしょ。
しかも、勝手に帰っちゃった人とか何十人もいるし。
私だって、本当だったらこっそりと帰っていたのだろうけど――。
「裕海、疲れちゃった?」
パイプ椅子にもたれかかって溜息をついていると、凛然とした態度の梨花が、メガネをクイと直しながら私の傍へと駆け寄ってきた。
あまり目立ってはいないけど、梨花はこのクラスの委員長さんだ。
だから、必然的にこういう行事からは逃げられない。
もっとも、梨花はそうやってお仕事から逃避するような人では無いけど。
梨花が頑張っているのに、私が逃げるわけにはいかない。
確か入学式前の準備に関しては、灯とともにさりげなく帰宅していた覚えがある。
叱られはしなかったけど、いなかったことに誰も気がつかなかった事に関しては、若干寂しかったことは憶えている。
「ううん、大丈夫。梨花は疲れてない?」
「――ちょっとだけ」
眼鏡越しの冷たい表情を若干和らげ、吐息のようにボソリと呟く。
珍しいな、梨花が自身の疲労を訴えるなんて。
よく見ると、額にもじんわりと汗が滲んでおり、時折フゥと息をこぼしている。
かなり疲れているみたいだ。
辺りを見渡すと、教師陣も生徒も、皆休みたい時に少しずつ休憩をとっているらしく、数名の女子が飲み物片手に談笑していた。
「少し休憩しようか、飲み物買ってくるから待ってて」
私がそう言うと、梨花はドサリとパイプ椅子に腰を下ろし、眼鏡を外して瞼の汗を拭った。
ぐったりとしている。
人前では凛然とした態度を崩さない梨花が、ぐったりと、身体を休めている。
よっぽど疲れたのだろう。
珍しく梨花に頼られた、というのが何となく嬉しい。
私は講堂から退出し、自動販売機まで走っていく。
さて、何を買おうかな。