第百二十章:二人きりの放課後
「――んっはぁ」
柔らかな日差しに包まれながら、私は梨花から顔を離した。
気がつけば床に寝転がり、お互いの背中に腕を回して体躯の前面を精一杯密着させていた。
どのくらいの時間、こうしていたのだろう。
ほんの一瞬のような感じだったけど、梨花の顔を見たところ、数瞬間やら数秒間とか、そんな次元では無いことが分かる。
柔らかそうな頬は紅潮し、顔が上気している。
口元から漏れる吐息も甘く、温かい。
触れ合っては弾かれ合う二人の心音もかなり速まっており、体感時間よりもずっと長い時間、抱きしめ合っていたのだと思う。
そう思うと、ちょっと恥ずかしい。
床に寝そべった瞬間も覚えていない。
きっと、舌を絡め合いながら抱きしめ合って――そのままお互いに身
体を預け合って、横に倒れたのだろう。
視界の端に時計が入る。
抱きしめ合ってからの正確な時間は分からなかったけど、まだ昼休みは半分以上残っている。
お昼を食べても、もう少しだけ梨花と一緒にいる時間はあると思う。
「梨花、お昼食べよう。……遅くなっちゃった」
梨花は顔を紅潮させながら、小さく頷いて転がった身体を起こす。
制服にシワがよっている。
見る人が見れば、寝転がっていたことがバレてしまうかもしれない。
私も自身の制服を見てみる。
目立つほどでは無いけど、梨花と同じようなシワが浮き彫りになっていた。
まあ、私と梨花二人の制服のシワまでジロジロ見る人なんていないでしょ。
梨花はどうだか知らないけど、私はあまり男の子から視線を向けられないし。
などと考えながらお弁当に手を伸ばすと、お箸が床に転がってしまっていた。
抱きしめ合っている最中にぶつけてしまったのか、箸入れから飛び出
してしまったらしい。
はぁ……。面倒だけど洗いに行かなくちゃ。
「……どうしたの、裕海?」
煮魚のような料理を口に含みながら、梨花が不思議そうに首を傾げて見せた。
膝に手を着いて立ち上がった私は、箸を見せながら、床に落ちたことを梨花に伝える。
人気の少ない空き教室。
つまり、水道やら何やらが遠くて誰も使用しない場所だ、ということ。
さてと、一っ走り行ってきますか。
お箸を握りしめて「さて、行こう」と意気込んだところで、不意に制服の裾を摘まれた。
寝床から腰を上げた母親のエプロンを、眠れない少女が摘むように。
ここにいて、とでも言うような、遠慮がちな動作。
梨花はじっと私の顔を見ると、不意に手に持った箸を私に見せた。
「お箸なら、私のあるから」
梨花はそう言うと、私の弁当箱を引き寄せ、自身のお箸で焼き魚を掴んだ。
そして、そのまま私の眼前へと慎ましげに運ぶ。
「はい、あーん」
懐かしい感覚に、中身が沸騰したヤカンのように思わず顔が熱くなる。
梨花の顔も上気しており、若干息が荒い。
時折喉を鳴らしては、グイグイとお箸を口元へと押し付けてくる。
「ねぇ……私だって恥ずかしいんだから、早く食べてよぉ」
澄んだ瞳をそっと逸らし、口元をキュッと結ぶ。
差し出された焼き魚とにらめっこをして、暫しの間逡巡したが。
照れた様子で視線を送る梨花の瞳に吸い込まれるように、私はその行動を受け入れた。
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思ったよりも、梨花は積極的だった。
最近二人っきりでいる、ということが少なかったから、それも必然だったのかもしれないけど。
とりあえず、プレゼントのことに話が向かなくて良かった。
若干暖房が効いている教室にて、私は机の上に突っ伏していた。
昼休みも終わり、後は放課後に梨花を呼んでプレゼントを渡すだけだ。
梨花、気に入ってくれるかな。
普段よりかは多少膨らんだカバンへと視線を送り、思わず頬を緩める。
放課後が待ち遠しい。
そりゃ、まあ。いつだってそうだけど、今日は一段と待ち遠しいのだ。
その後のことは、とくに予定は立てていない。
梨花はキチッとした予定を立てて、その通りに事を運ぶのが好きなようだけど。
私はどちらかというと、余裕を持って、気の向くままぶらぶらする方が好きなのだ。
私の家に行くか、梨花の家に行くか。
はたまた別の場所か。
ああ、最近梨花と一緒に出かけてないから、凄く楽しみ。
二月は忙しかったからなぁ――とここまで考えて、その大半が梨花に関することだと気がつき、自然と頬が緩む。
腕を伸ばして机に身体をあずけ、ふと梨花へと視線を送る。
普段と変わらぬ凛とした風貌。
でもよく目を凝らして見ると、若干口元が緩んでいる。
頬も普段より桜色に染まっている。
何があったのか、などの理由を知っている身としては、実に微笑ましい光景でもある。
ああ、早く放課後にならないかな!
「――えっと、蒔菜さん?」
突如視界に何者かの顔が闖入し、視界がぼんやりとぼやけた。
一瞬霞がかかったような錯覚を感じながら、私は焦点を合わせて、梨花へ向けた甘い視線を邪魔した張本人を睨みつける。
「何よ、倉科君」
周りに聞こえないように配慮したつもりだったが、思ったよりドスの効いた声音が出てしまい、反射的に口を押さえる。
目の前で放たれた倉科君も驚いていたけど、出した本人の方が驚いている。
びっくりしたぁ。
暫しの沈黙の後。
倉科君は思い出したように、姫華の話やら他愛も無い授業の話をしていた。
最近ことあるごとにたわいもない話をしてくるけど、他に話す相手とかいないんだろうか。
教師が来るまで、倉科君はずっと何かを話していたけど、私は放課後のことで頭がいっぱいだったので、途中から内容が半分以上頭に入ってこなかった。
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そして放課後だ。
午後の授業は、半分以上頭に入ってこなかった。
視界の端にはずっと梨花がいたし、頭の中はこの後のことでいっぱいなのだ。
銀縁のメガネがよく似合う梨花は、真剣な眼差しを向けながら黙々とノートをとっていた。
よし、誕生日に悪いけど、後で見せてもらおう。
このままじゃ私が危ない。
ホームルームが終了すると、大きな溜息や脱力感溢れる声音が辺りから奏でられ、各々帰宅準備をしたり、部活動へ向かったりする。
灯は後者だ。
三年生がいなくなってから大分経ち、そろそろ部活内最上級生というのにも慣れてきたらしい。
文田君との関係は、もう部内公認の仲なのだとか。
ラケットを持った灯は、実に嬉しそうな表情で外へと向かっていった。
さて、
一見このまま帰るようにも見える格好をした私は、梨花に簡略なメールを送り、何事も無かったかのような素振りを見せて教室を出る。
全身が心臓になったかのように総身が震え、脚がカクカクと痙攣する。
ヤバい、凄く緊張する。
別にただ渡すだけなら問題無いんだけど、今回は、色々と心配事も多いのだ。
梨花は、私のプレゼントを気に入ってくれるだろうか。
正直言うと、自信があると言えば嘘になる。
姫華にアドバイスをもらい、私が梨花に貰って欲しかったもの。
確かに私は、これ以上のプレゼントを用意することはできなかったとは思う。
だけど、手抜きだとは思われないだろうか。
梨花だったら、私の気持ち、分かってくれるかな。
気がつけば若干早足になっており、人気の少ない廊下を抜けると、一足先に空き教室へとたどり着いた。
昼休みにも来た、二人だけの場所。
大抵そういう教室とは、よからぬことを致す男女が使用していたりするのがこの世の常なのだが。
ここはそういったことに使われてはいないらしい。
実際、よからぬことを致す“二人”は使用しているけど。
日差しが傾いた以外は変わらず、まるで凍結されたかのように代わり映えのしない空間が広がっている。
私はカバンからプレゼントの包を取り出すと、傍に置いてあった箱の後ろに隠す。
梨花が入ってきて真っ先に視界に入ってもつまらないし、だからといって、目の前でカバンを開け閉めするのもなんだし。
「……時間あるし、ちょっとだけ練習しようかな」
私はカバンから包を取り出し、渡すときのシミュレーションをすることにした。
片手で包を持って、前に突き出すようにしてみる。
「梨花、お誕生日おめでとう」
…………うぅん。
何だろう、なんか面倒くさそうに見えるな。
もっとこう、心を込めてるって感じに――。
両手で包を持ち、丁寧な動作で前方へと差し出す。
これで、可愛く首を傾けてみたりすれば――。
――梨花、誕生日おめでとう。
空想上の私が、花が咲くような笑みを見せて梨花へとプレゼントを渡している。
よし、頭の中での予行演習では完璧だ。
これで多分問題ないだろう。
「さて、後は梨花が来れば……」
「えっと、裕海?」
もう一度練習しておこう、と吐息をこぼした刹那、不意に扉が開けられ、梨花の美麗な黒髪が空間を舞った。
聞きなれた柔らかい声音が耳に入り、銀縁眼鏡越しに透き通るような瞳が顔を覗かせる。
驚愕のあまり、プレゼントを隠す暇も無くその場で硬直する私。
「……ごめん、タイミング悪かった?」
「ううん! 全然大丈夫、あ……えっと。はい、これ梨花にプレゼントなんだけど――っと、梨花、誕生日おめでとう」
言うべきことは言った。
でもかなり焦った。
理想での私は優雅に微笑みを見せて、驚きの歓声をあげる梨花に、まるで王子様が花束を贈るように煌びやかな動作で華麗に渡す予定だったのだけど。
残念。渡すことは渡したが、空気が固まってしまった。
このまま梨花に包を開けてもらって、それを選んだ理由とかを話したかったのに――。
「裕海、ありがとう。……これ、開けても良いかな?」
嬉しそうに口元が弧を描く。
愛らしくほんのりと頬を染め、梨花は実に軽やかな動きでリボンを解く。
繊細な指先がリボンを絡め取ると、包の口が開かれた。
「わぁ、マフラーだ。それに、凄く長いね」
梨花の手の上には、白と黒のチェック模様な長めのマフラーがかけられている。
柄は私が選んだ。
姫華も一緒に探してはくれたけど、最後に決めたのは私。
「梨花は、私の誕生日に手編みのマフラーをくれたよね」
梨花の体躯がピクンと跳ねた。
今でもちゃんと憶えている。
二人で一緒に巻きたいね、って話してて、梨花は誕生日当日の放課後に、桃色のマフラーを私に編んでくれた。
あれはまだ、たまに使っている。
梨花ともっとイチャつきたいときとか、意味も無く梨花を傍に感じたいとき。
理由とか無く、ただただ近づきたい時とかに。
口に出すのは照れくさくても、マフラーを見せれば、私がどうしたいのか、梨花は分かってくれる。
でも逆はどうだろうか。
梨花はあまり、甘え上手なわけでは無い。
梨花から私に、精一杯とろけた様子を見せてくることなど、私が梨花に甘えた回数と比べれば、数える程度しか無い。
梨花だって、私に甘えたいときがあると思う。
私だって、梨花に甘えて欲しいんだから――。
「私が梨花に甘えたいときには、梨花から貰った桃色のマフラーを巻いて、その……梨花がもし私に甘えたいときがあったら、遠慮無く、それを見せて欲しい」
「…………」
梨花は黙ったまま、怜悧な双眸を私に向けていた。
チェック模様のマフラーを両手で握り締め、ほんのりと頬が桜色に染まる。
「それは、その。裕海は私と、このマフラーを一緒に巻きたいって、ことだよね?」
「……うん」
梨花の瞳が穏やかに細められ、淡い吐息がこぼされる。
「いつでも良いの?」
「いつでも、梨花がしたいときに」
「……じゃあ、今でもいい?」
そう言ってマフラーをふわりと虚空に舞い上がらせる。
梨花は颯爽と私に近寄り、顔と顔とが接触しかけた。
実に自然な動作でメガネを外すと、梨花は丁寧にマフラーを首にかけ、お互いの肩を寄せ合う。
抱き寄せるように優しく引き寄せられ、梨花の体躯がギュッと押し付けられる。
温かくて柔らかい。
胸元に顔を埋めると、梨花の匂いが胸いっぱいに広がる。
新しい布地の香りもするけど、それはまあ置いておく。
梨花の胸元から顔を上げると、顔を赤らめた梨花と目が合った。
お互いに手を握り合い、どちらからともなく指を絡め合う。
甘い吐息が混ざり合い、梨花の鼻先が私の鼻を突っついた。
「裕海……ありがとう」
柔らかい感触をともに、湿った舌が口腔内に闖入する。
真っ赤に輝く夕日に照らされながら、私と梨花は二月二十七日という大切な一日を、二人一緒に楽しんだ。
甘い水滴音を奏でながら、橙色の光に照らされたシルエットは、その太陽が完全に沈むまで、くっきりと映し出されていた。