第百六章:新しい恋人
梨花が男の子から告白された。
そのことだけで、私の頭の中はいっぱいになり。しばらくの間、他のことが頭に入らず。
帰り道で梨花が話してくれた内容の半分近くはちゃんと聞けなくて、記憶から消し飛んでしまった。
男の子――高垣君は、梨花と私が教室で話しているところを見て、梨花も笑うと可愛らしいんだ。ってことを知って、一目惚れのようなものをしたらしい。
この時期ってことは、多分新学期の日に灯たちと話してた時だと思う。
週末にデートに誘われたけど、また今度にでも。って単語を耳に入れた辺りから、私は記憶が飛んでいる。
その後は家に帰って、シャワーを頭から一気に浴びて。スッキリサッパリしようとして、色々頑張ってはみたんだけど。
「でも、やっぱり頭に浮かぶのは梨花と男の子の楽しそうな情景なんだよね」
「いや。待って、そこだけ言われても……。ちゃんと話すなら順序だてて最初から話そ?」
休日。姫華の部屋。
休日でもメイド服を着ていた愛理ちゃんにはびっくりしたけど、淹れてくれた紅茶は美味しかった。
砂糖の量も多すぎず少なすぎず、ほのかなレモンの香りが舞い。高ぶっていた心が若干落ち着いた気がする。
目の前で姫華も大人しくカップに口を付けているけど、もしかして完璧なメイドさんを作り上げようとか、愛理ちゃんの負担になるようなことはしてないよね。
「はぁ……。やっぱり愛理が淹れた紅茶は美味しい」
姫華はうっとりと頬を包み込み、幸せそうに遠くを見て。
「やっぱり。恋をしながらだと、何でも美味しく感じるよねぇ……」
「ん……。あのさ、」
自惚れだとは思うけど、また私への想いを詩的に伝えようとしてるのかと思い。ここから続くと思われる姫華の言葉を停止させようとしたのだけど。
「ん~。何かぁ……私も告られちゃったんだよねぇ、えへへ」
「はへ?」
時間が止まったとはこのことだろうか。いや、実際私には恋人さんがいたし。私の妙な浮気性を誘惑することが無くなるならそれでも良いんだけど。
ううん。今はそれどころじゃ無くて。
「早っ!」
口に出た言葉はそれだけだった。
頭の中では色々な感情や思いが大量にグルグル廻っているのに、突然のことにパニクってちゃんとした言葉が浮かんでこない。
姫華に恋人ができた。誰? の前に、女の子か男の子かも分からない。
――って言うか、やっぱ早いよ。
新学期に初めて出会って、もう告白受けるとか。やっぱり転入生って狙われ易いのか、それとも姫華はそれだけ魅力的なのか。
それよりも、姫華も梨花もって……。何この告白ラッシュ。
別に良いんだけど、私だけ何も無いってのはそれはそれでさみしいし。
それよりも。言うべきことがあるでしょう!
「おめでとう!」
「ありがとう!」
満面の笑み。見ているこっちが嬉しくなりそうなほどに幸せそうな照れ笑い。
……って言うか。これが私の“言うべきこと”か?
もっとこう。喉の奥につっかえて、訊きたくても訊けないこととかあるよね。
ほら。
「名前、何て言うの?」
「ん~……?」
ネコのように目を細めて幸福感溢れる微笑みを向け、姫華は人差し指で私の頬を優しく突っつく。
ぷにぷにして触り心地が良いのはわかるんだけど……。
頬は桃色になってるし、姫華の表情がどんどんととろけていく……。
「えっとね。羽谷新って言うんだよ」
「んっと……。誠に失礼ながら、男性でしょうか女性でしょうか?」
姫華は一瞬だけ戸惑ったような顔を見せ、コホンと咳払いをしてから真剣な瞳を向け。
「どっちだと思う?」
「んぇぇ……」
困った。男の子なのに女の子ですか? って聞くのも失礼だし、逆もまた然り。
姫華は真剣な目でこっちを見て、口元は妖艶に緩んでいる。
んぁぁ、もう。新婚のご夫婦から赤ちゃんでも見せられたような感じだわ。
ここは、普通の答えを選ぶ!
「男の子……かな?」
「ざんね~ん。可愛い可愛い女の子でしたっ」
姫華は顔の前で人差し指を交差させてバッテンを作り、見るからに幸福そうな微笑を浮かべて私を見つめている。
その笑顔を見ていると、やっぱり私にだって思うことがある。
そりゃ、絶対に叶わない片思いをするよりも、自分を好きになってくれた娘と楽しく青春するほうが良いに決まってるけど。
意外と冷めやすい娘なのね、姫華って。
「なにー?」
邪気の無い笑顔を見せられ、姫華に抱いた妙な気持ちは消え去ったけど。でもやっぱり……。
「早すぎない?」
「え~、やっぱりそうかなぁ?」
姫華はポケットからスマホを取り出し、軽くスクロールさせて一枚の写メを目の前に出した。
一瞬ぼんやりした画面がチラつき、徐々に焦点が合ってようやくはっきりと見えてくる。
苦手では無いけど、パソコンとか携帯のチカチカする光は未だに慣れない。
自分で動かしたり選んだりするのは問題無いんだけど、人がカチャカチャ動かしてる画面を見ると目が疲れちゃうんだよね。
「この娘だよ」
姫華に見せられた画面には、一人の女の子が憂いな表情で窓の外を眺めている。いかにも演技臭い写メだった。
でも確かに可愛い。
撮ったシチュエーションは別として、被写体は中々魅力的な女の子だ。
パチっとした瞳に細くて綺麗な眉。表情が崩れているので細かいところは分かりにくいけど、ほっぺたもプニプニしてそうで愛らしい。
“格好良い”が真っ先に出る梨花や、“綺麗”が出る姫華とは違って、まさに“可愛い”が適切であろう女の子だ。
この娘が本当に姫華と……?
私は気にしないから良いけど、別方向から二人を狙っていた男の子たちはちょっと可哀想だなぁ……。とか思ったり。
「どっちから、その……告白したの?」
「えっとね。告白ってほどでも無いんだけど……。ああ、そうだった、そのことで裕海ちゃんに相談事があったんだ」
どこかにトリップしそうな幸せ笑顔をハッと戻すと、姫華はさっきまでと打って変わって真剣な表情を向け。人差し指で下唇を突っつきながら、噂話を広める時のような口調で。
「何かその娘ね、私と付き合い始めてから、毎日のようにキスをねだってくるの」
「甘えん坊さんなの?」
まだ倉橋君を思っているときのことだが。実際裕海にも、思い出すだけで顔から火が出そうなほど、甘々でバカップル的にイチャつきたい。なんて願望はあった。
思い返せば思い返すほど、あれは願望やら希望では無く。ただの欲望と煩悩だろうと思い、記憶に蘇る度、ベッドに顔を埋めて枕をバタバタする。
だから、うん。別におかしいことでは無いわ。
ちょっと甘え方が身体的なだけだよね。そう認めないと、自分が変なんじゃないかと若干不安になる。
先ほど私が問いた疑問をまだ考えているのか。姫華は両腕を胸の下辺りで組み、眉間にシワを寄せて真剣な表情をしている。
しばらく思考した後。姫華は組んだ腕を解き、両手指を絡め合いながら思い出したように口を開く。
「甘えっ娘……。なのかなぁ? どっちかって言うと、独占欲が強い娘って言うか。うん。何か『ずっと宮咲先輩から離れたく無い』とか言われたし」
「ほぅ……」
この期に及んでまだおノロけ話を続ける気ですかい。
――と。私の何らかの感情が暴走しかけたところで。なんとかまだ冷静を保っていた心情が、ある疑問点を引っ張り出した。
「宮咲……先輩? ――ってことは、後輩さんなの?」
「うん。新は一年生だよ」
さも平凡だと言うようにクリクリした目でこちらを見ているが、姫華はつい何日か前にこの学校へ転入して来たわけで。
部活見学などをするとは思えないし、姫華が他学年の娘と出会うこと自体が稀であろう。
何の疑いも無く、羽谷新なる女の子は同級生なのだと思っていた。
言われてみれば名前も聞いた事が無い。
入学式とかで呼ばれた名前を全部憶えているとかそういうんじゃ無いけど、大抵名前を聞けば「ああ!」ってなるはずだ。
灯が文田君と付き合い始めた時も、うちのクラスに来て初めて顔を見たし。縦のつながりがほとんど無いんだよね。
梨花は委員会に貢献しているけど、姫華はしていない。
私も部活や委員会に所属していないので、後輩で私と接したことがあるのは――。
ここまで思い出したところで、初めてキスで舌を入れられたことを思い出した。
そうだよ。結局あの娘の名前も知らないし、単に私が縦につながりを持とうとしていないだけなのか。
あんな激しいキスをした相手の名前も知らないなんて……。
それはそれで、何か妙な気持ちに苛まれる。
あんな、普段人に見せないような部分を絡め合って、もう甘々な展開を――。
今になってみれば、あれはあれで貴重な体験だったんじゃ無いか。とも思えてくる。
梨花とか姫華以外の女の子で、あれだけ深くて甘いキスをしたのは後にも先にも――。
「どうしたの? 裕海」
我に帰ると、心配そうに顔を覗き込む姫華の姿があった。
いけない、いけない。ちょっと自分の世界に入り込みすぎた。
「大丈夫だよ。姫華」
姫華は安心したような顔で私を見つめ、ネコのようにそっと目を細める。
私はその様子を見て、姫華をここまでとろけさせちゃうような女の子である――羽谷新ちゃんとは、どんな娘なんだろうと凄く気になった。
――少し。会ってみたいな。
無理だろうなぁ。と思いながらも、一応姫華に聞いてみる。
「ねぇ、姫華。今度その……羽谷さんと会わせてもらえないかな?」
「んー? 良いけど、どうして? もしかして、さっきの写真見たら欲しくなっちゃった?」
姫華は『あげないよ』とでも言うように私を見てから、フッと何かを思い出したかのようにクスりと笑う。
ちょっぴりはにかんだような微笑が、美麗な笑顔を愛らしく染める。
「なーんて、ね? 良いよ、今度紹介してあげる。裕海は氷室さん以外の娘に心奪われたりしないもんね」
輝かしいほどの笑顔で見つめられ、私は思わずドキリとする。
「うん、まぁね。……でもさ、“娘”って言うか『梨花以外の人』で良いんじゃないかな?」
「え~? だって裕海、倉橋君って男の子のことまだちょっと想ってるんでしょ?」
半瞬時が止まった。
待って。何で姫華は私が倉橋君にベタ惚れだったことを知っているの?
言って無いよね? それに、倉橋君は今遠川さんと付き合ってるし。
と、私が怯えたような表情でオロオロしていると。姫華は少し困ったような表情で私を見据え。
「あれ? 『クラス中の男女全員が知ってること』だって、クラス委員の新谷さんがこの間私の席で言ってたけど――」
「いやぁぁぁ!」
私は思わず顔を手で覆って崩れ落ちた。
一度広まった噂とは、もう絶対に止められないんだなぁ。と、裕海は深く身にしみたように理解した。