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善悪の彼岸を越えて -魔法少女異聞録-  作者: JohN∴DoE
【Chapter.1】正義の敵
5/5

第1話 たった四年、然れど四年

 血に濡れた金髪。

 見返してくる瞳と、微かに動く唇。


「―――――」


 彼女は何を言おうとしたのか。

 しかし問い返す術を彼は持たず。


 彼女()遺志(こたえ)は、永遠に喪われたのだった―――。



       ◆       ◆       ◆



 久我(こが)五樹(いつき)が駅のホームに降り立つと、途端に穏やかな昼下がりの冷気が体を包み込んだ。

 三月下旬――春先とはいえ、やはりまだ屋外は冷えるという季節。しかし大陸に比べれば随分と温厚である冷風に、自然と五樹の頬が緩んだ。

 ああ、帰ってきたんだな――と柄にもなく静かな感慨を覚える。

 たった四年、然れど四年。

 過ごしてきた時間の密度を考えれば、その倍以上もの時を経てきたようにも錯覚する。浦島太郎というほどではないが、それでも見慣れたはずの街が異境へと変貌してしまっているかのような不安感を覚えないわけではない。

 事実、四年近くも離れていれば、帰ってきた時には様相が一変してしまうのが生きている街の常だ。こうして歩く駅構内も、すっかり改装工事を終えて小綺麗に整っていた。

 午後から部活動に赴くらしい道行く高校生たちの中に、顔見知りの同窓生はいないものかと視線を走らせてみる。とはいえそう都合良く知り合いに巡り逢えるものでもなく、ただこの雑然としながらも平穏な空気を懐かしみながら、五樹は軽やかに歩を進めた。


 ――福伊市。

 列島は北陸地方に位置する、関西近郊のこぢんまりとした都市である。人口はおよそ三十万ほどであるが、古くは列島でも有数の大都市として栄えてきた歴史を持つ。

 とはいえ戦時中の空襲や大規模な震災、更には河川の氾濫といった度重なる災害に見舞われて、浅くない傷を負ってきた街でもある。

 それでも挫けることなく何度も立ち上がってきたその姿は、まさに〝不死鳥〟を象徴(シンボル)として掲げるに相応しい街並みと言えるだろう。


「Hi, Itsuki!」

 流暢な発音と共に名を呼ばれて、五樹は足を止めた。

 聞き慣れた声に五樹は面倒臭さを滲ませた苦笑と共に振り向き、―――――そのまま引きつったような笑顔で頬を強張らせた。

「Welcome back!」

 ロータリーの一角では、彼の方へと手を振っている女の姿があった。

 金髪碧眼という西洋系の美女だ。年頃は既に四十代半ばであるはずだが、その外見は三十代前半でも通用しそうなほどに若々しい。

 しかしそのような彼女の美貌も、野暮ったい服装の所為で猫に小判といった有り様だ。

 やや癖のある髪は見るからに適当といった様子でシュシュに束ねられていて、薄化粧とてすっぴんでないだけマシだと言わんばかりの簡略さだ。極め付けは地味な色合いのセーターとロングスカートの上にエプロンを掛け、更には防寒着としてコートを羽織っているという、コーディネイトもへったくれもない出で立ち。

 見るからに主婦然とした適当な装いの美女である。実際、彼女は本業を持ちながらも夫と娘を支える兼業主婦であるが。

「…………」

 しかし五樹が思わずこめかみを押さえて絶句してしまうのも然もありなんことだろう――その野暮ったい美女の背後に鎮座する紅蓮の車輌に目を留めれば。

「……ランボルギーニ・アヴェンタドール」

「えへへぇ、良いでしょう!」

 伊太利亜製の高級外車を背に、女は相好を崩しながら胸を張る。

 地味な主婦と派手な高級外車――これほどにアンバランスな取り合わせも他にない。さりげなくナンバープレートの文字が青いところも見逃せない。

 言いようのない鬱積とした気分を抱える彼の内心を知ってか知らずか、女はにこことと幸せそうな様子で微笑みを浮かべている。その様子にどうしてか逆らえない圧倒的な格差を思い知って、五樹は重々しい足取りで一歩を踏み出すのだった。



 道路交通法など知らぬ存ぜぬといった勢いで、紅い猛牛が県道を疾駆する。

 点滅する青信号への滑り込みなど珍しくもなく、速度計は決して下がることを知らない。レブカウンターの針はレッドゾーンを踊り狂う。

「……随分と安全なスピード違反ですね」

 助手席に腰掛けている五樹は、窓枠に肘を委ねながら頬杖を突いていた。

 物憂げに細められた瞳に写るのは、矢のように飛び去っていく車外の風景。

 横目の速度制限標識を鼻で笑うように爆走しているにもかかわらず、周囲の車に無理を強いない配慮を忘れていない。その安全な暴走ぶりは、さすがにドライバーの卓越した運転技術を認めざるを得ない。

「ありがたいことに迎えに来るとは聞いてましたけど、まさかドライブに付き合わされるとまでは思っていませんでしたよ」

 年相応の少年らしい憎まれ口に、ステアリングを握る金髪の女――八神(やがみ)沙良(さら)はくすりと微笑む。

「この車は家族(みんな)には内緒だから、こういった用事でもなきゃ乗り回せないのよ。それにあなたに売った恩の分くらいは、付き合ってくれても構わないんじゃないの?」

「押し売りされる恩ほどクーリング・オフしたいものもありませんけどね」

「残念。もう期間を過ぎています」

 下らない冗句の応酬は挨拶代わりだ。

 沙良とは五樹が幼い頃からの知己であるが、同時にこの四年間で随分とその印象が変化してしまった人物でもある。

 人は一体、いくつの隠された顔を持っているのか。

「どうせ沙良おばさんに見つかるんなら、裏をかいて別ルートから来れば良かったかな」

 半ばほどは本気でもある後悔に、沙良は苦い顔をする。

「あなたねぇ……自分が首輪付きだって解ってるの?」

 呆れたように嘆息する沙良に、はんと鼻を鳴らす五樹。

「もちろん。けれど僕の飼い主は皇國ですから。英帝に尻尾を振る道理なんざありませんから。――七生報国、女皇陛下万歳」

 こうした言葉を交わしてしまうことが、四年以上前と現在の違い。

 八神沙良――彼女のことをただ〝幼馴染の母親〟とだけ知っていられれば、どれほど気が楽だったことか。

 しかし五樹の内心を知ってか知らずか、彼の懸念を吹き飛ばすかのように沙良は声を荒げる。

「もう、私にとってあなたは家族同然に大切なのっ!」

「……という建前?」

「こちらが本音です!」

 本気で怒ったように唇を尖らせる沙良に、五樹は思わず首を竦めた。

「まぁ……それが解らないほど僕だってガキじゃありませんよ」

「ふふ、ありがと。……でも、〝建前〟が無いわけじゃないのよ」

 沙良の柔らかな微笑みが、律された無表情へと塗り替えられてゆく。

 信号機の赤い光に遮られて、いよいよ真っ赤なスポーツカーもその四輪を停めた。

「〝例の件〟なんだけれど……日本政府は核施設防衛の名目で予算を下ろすことを決めたそうよ」

「……へぇ」

 対する五樹の声もまた、秘めた感情を掴ませない冷徹な音に響いた。

 窓の外に投げられた視線が、やがて刃物のような鋭さを帯びてゆく。その双眸が捉えているのは、歩道を歩く祖母と孫娘。ゆっくりとした動作で手押し車を押す老婆の周りを、もっこりと防寒着を着込んだ幼女が何が楽しいのかくるくると走り回っている。

「だからきっと、あなたにもその関係で出動を命じられることがあると思うわ」

 それはつまらないほどに平和な光景。

 何処にでもありふれた退屈な情景であり、だからこそ何よりも価値がある。誰もがそれを守ろうとするほどに、途轍もなく大切な存在。

「何せあなたは――――」

 対向車線を走る大きなトラックに祖母と孫娘の姿が覆い隠される。そして沙良の紡いだ言葉もまた、トラックの唸らせた轟きに紛れて届かなかった。

 けれども彼女が何を言ったのかは、容易に察しが付く。わざわざ掘り下げるようなことでもないので、敢えてその言葉を聞き返したりすることはしなかった。

「……で、どうしてその情報を沙良おばさんが伝えてくるんです?」

 車外に向けられていた視線が、転じて沙良を真横から射貫く。口端を吊り上げた薄ら笑いに、沙良は眉を顰める。

「……訊かなくても、大方の想像は付いているんじゃなくて?」

 耳年増な友人を持っているんでしょ、と言外に込めて睨んでくる沙良。

 前を向いて運転して下さいよ、と涼しい顔で受け流す五樹。

 やがて信号は青に替わり、脚を止めていた猛牛が再び鼻息を荒くする。

「日英同盟構想を前提とした密約、――ってところですかね」

 周囲の安全を確認するや、勢い良く発進するランボルギーニ。

「真相がどうであれ、あなたの知る必要の無いことだけれどね」

 沙良の表情は、しかし鉄仮面のように揺らがなかった。さすがに年季が違う。

 だから五樹も、気にせずに独り言を愚痴った。

「どうあっても英帝はヴァチカン条約には批准できないんですね」

「今更、旧教と国教会が仲良くできるわけないでしょ」

 これはまだ答えられる範囲内であったらしい。期待していなかったが、即座に答えが返ってきたことに軽く驚く。

「――とか何とかの宗教的事由は建前で、実際のところは英仏紛争の事情ですか?」

 大英帝国と仏蘭西共和国の仲の悪さは、今に始まったことではない。

 世界最大の国土を誇って七海を征せんとする英国が、それでも長年の宿敵である仏蘭西は陥落させられなかった。

 尤も天下の大英帝国とて、今やその巨大さゆえに内側から亀裂が走りかけていると見える。北米大陸において再び独立運動の兆しがあることは、日本でも広く報道されている国際情勢だ。

 そういった諸々の事情も言外に込めて問うてみたのだが、やはりと言うべきか、世界の裏側に足を踏み入れて数年ばかりである少年に尻尾を掴ませる間抜けな狸ではなかった。

「さあ……想像に任せるわ」

 調子に乗るな、と微笑みながら窘められた。

 釘を刺された以上は、五樹も食い下がることなく矛を収める。知ったところでどうにかなるわけでもなし、ならば知らない方が幸せなことも少なからずあるこの世界だ。

 それから暫く、車内は沈黙に支配されていた。

 沙良にとって既に言うべきことは言った後なのだろうし、五樹にとってもこれ以上、藪を突いて蛇を出す趣味などない。

 神政日本皇國と大英帝国――この二大列強が手を結ぶことで、国際情勢にどのような波紋を生み出すのかは、彼の関知するところではない。それは官僚と政治家の仕事であり、彼など所詮は女皇陛下に腹を晒した狗に過ぎないのだから。

 宛のないドライブもやがて終わりに近付きつつあるのか、紅い猛牛の鼻先はようやく五樹の自宅がある方角を向いた。

 そして沈黙を破ったのは、沙良の慈しみを感じさせる柔らかな声音。

「あなたの家、ちゃんと掃除してあるわよ」

「……ありがとうございます」

 今から四年前に、彼の家はその主を喪った。

 それは即ち、彼の大切な家族が喪われたということにも等しく。

 そして立ち止まったままの四年間を過ごし。

 ――やがて彼は、この場所から再出発を志すこととなる。

「さっきも言ったと思うけれど、あなたは私にとって――私たちにとって、家族も同然の存在よ。今度からは、私が面倒を見るわよ」

「それは余計なお世話じゃないかな?」

「ダメです。……そうね、晩御飯は原則として八神家(ウチ)で摂ること」

「えー」

「オーケイしないと、合鍵を返してあげないわよ?」

 それは脅迫というものだ。

 その後も押し問答を繰り返したが頑として沙良は譲らず、結局は五樹が一方的に条件を呑まされる結末に落ち着いた。

 やっぱりこの人は狸だな、と改めて心底から痛感する五樹だった。


       ◇       ◇       ◇


 丁字路の角地に建つ築十余年ほどの民家が、我が実家たる久我邸である。

 ちなみに庭を挟んだ裏手には八神邸が隣接していて、昔はよく母親同士が塀越しに井戸端会議に花を咲かせていたことを覚えている。

 ランボルギーニが玄関前に横付けされると、五樹は車から降りて、懐かしい家を見上げる。

 想い出の中に建つそれと比べると多少の老朽化は進んでいるが、覚悟していたほどには傷んではいなかった。沙良が定期的に掃除してくれていたなど、時には人の手が入ってくれていたことが良かったのか。

「どう? 四年ぶりのご帰宅は」

 車の屋根に頬杖を突いた佇まいの沙良を振り返り、五樹は微苦笑を滲ませた。

「感慨深いような、そうでもないような……ちょっと複雑な感じ、かな」

 想い出の懐かしさは、同時に二度と戻らない過去として牙を剥く。

 けれども痛みばかりでなく、微かな暖かみを覚えられるようになったのは――きっとこの足が前へと進むことができている証なのだと思う。

 たった四年、然れど四年――繰り返し思うフレーズ。

 本当にそれは、長かったのか、短かったのか。

「まぁ何にせよ、私がちゃんと見守っているわ」

 その場に踏み留まる五樹の背を押すように、にっこりと沙良は笑った。

 いつの間に背後に回り込んでいたのか、彼の両肩に置かれた手からは、母性を感じさせる温もりが伝わってきた。

「復讐を果たしたその先――あなたは今から、何処へ行こうとしているのかをね」

 それじゃあ車を置いてくるから、と車中に戻る沙良。そのまま走り出そうとエンジンを掛けたところで、ふと何かを思い出したのか、五樹の方へと身を乗り出した。

「言い忘れてたけれど――」

 悪戯っぽく笑う沙良の顔は、不意に彼女の娘を――五樹の幼馴染である少女を思い出させる。彼女も今は、少しずつこの人に似てきているのだろうか。

「懐のモノ、列島じゃ御法度よ」

 しかし続いた言葉は、彼の心に宿った情緒をぶち壊すには充分過ぎた。大方、先ほど肩を掴まれた際に、その感触で気付かれたのだろう。

「……何のことです?」

 肩に掛かる重みを認識しつつ、誤魔化すように肩を竦める。

 いつの間にかすっかり肩に馴染んでしまったこの重みは、どうしても置いてこられなかった心の凝りだ。それ以外は古巣に置き残してきたのだが、どうしても完全に切り離すことはできずに、ついつい〝これ〟だけは習慣通りに身に着けてきてしまったのだ。

 あくまで白を切り通す五樹に、沙良もまた「私の気のせいだったみたいね」と共犯者の笑みを浮かべる。

「じゃ、あとで晩御飯を食べに来なさいね。今日は七時頃になると思うわ」

 そう言い残すと、今度こそ沙良は走り去っていった。

 突き当たりの角を曲がって、姿が見えなくなるランボルギーニ。それをしっかりと見送ってから、改めて我が家に向かい合う。

 握り締められた手には、沙良から返された家の鍵がある。

「…………」

 足を踏み込めば、きっと動き出すことだろう――止まっていた時計の針が。

 そうだ、始めるのだ。此処から再び。

「そのために、僕は戻ってきたんだもんな――」

 目的など何もない。

 ただこの場所に帰りたかったから、彼は帰ってきたのだ。

 此処に帰ってくれば、きっと新しい目的を見つけられるだろうと信じて。



 扉を開くと、家の中から溢れ出した空気が、五樹を優しく包み込んだ。

 家には、その家の固有の匂いというものがある。自分にとっては気付かないほどに心地好いものであり、他人にとっては疎外感を覚えてしまうことのある独特の匂い。

 不思議なもので、四年という月日を隔てていようとも、彼の身体はその〝匂い〟を忘れていなかった。胸の奥から込み上げてくる強烈な懐かしさに、どうしようもなく心が躍る。こんなにも激しい安らぎがあるのだと、今、初めて知った。

「ただいま――」

 自然と口元から漏れた響きが室内へと吸い込まれる。

 むろん返ってくる声などないが、それでも五樹には、この家が彼の帰宅を喜んでいるかのように思えた。

 いざ靴を脱いで上がり框に登ってしまうと、途端に習慣のように足が動き始めた。それまでの緊張が嘘であるかのように、むしろ慣れているからこその気怠げさを感じさせるような動きで、自然と歩が進む。

 当然のことながら、記憶の中と何ら変わりのない内装。今にもそこかしこの扉が開いて、姉や母や父の姿が飛び出してきそうだ。

 けれども五樹は知っている。彼らがもう二度と戻らないことを。

 死者が黄泉の国から還ることなど、決して有り得ないのだということを。

(……やれやれ、だね)

 今更である物思いに、思わず苦笑せざるを得ない。解りきった現実ではあるが、これまではそれを思うことすらも忘れるほどに復讐心に没頭していたのだろうか。

 ――だとすれば、さぞや周囲の目に写る自分は危ういものであったことだろう。そしてその危うさは、彼女にもまた見透かされていたのか。

 不意に脳裏を過ぎった肖像を、五樹は軽い舌打ちと共に弾き飛ばす。これこそ今更だ、もう終わったことだ。

 廊下を進むと、やがてリビングに突き当たる。

 磨り硝子の窓が填められた扉の向こうに、家族が待っている情景を幻視し――すぐに人気のない殺風景な空気に出迎えられる。

 この場所で過ごした団欒は、もはや夢の跡――。

 疾うの昔に受け容れていた現実であったためか、不思議と、覚悟していたほどの哀しみは訪れなかった。ただその冷静さが、逆に哀しいとも思えたのは意外だったけれども。

 沙良たちが気を利かせて運び込んでくれたのだろう、引っ越し荷物の詰まった段ボール箱が部屋の片隅に纏められている。それを横目に、どさりとソファにもたれかかった。

 こうして腰を落ち着けて、ようやく自宅に帰ってきたのだと実感する。

 このまま動きたくないなぁ、などと年寄り臭いことを思いながら、億劫そうに積み上げられた段ボール箱へと視線を投げる。荷物を片付けないことには、これからの生活を始められない。

「……ん?」

 ――と、唐突な違和感に五樹は目を疑った。

 多いのだ、段ボール箱の数が。五樹が詰め込んだはずのそれらよりも。

 よもや、と思って箱に貼られた伝票を確かめていく。そして案の定、見慣れた悪筆で記された伝票が発見される。五樹の丁寧な筆跡とは明らかに異なる、書いた当人の性格がよく表れた汚い字だ。

「……〝忘れ物〟?」

 記された品名の単純さに比して、箱はずしりと重い。軽く見積もっても数十キロはあるだろう。よく此処まで運び込んできたものだ。

 一体何を詰め込んだのだ、と胡乱さを滲ませながら、ガムテープを剥がして箱の中身を検める。

「…………」

 見なかったことに、しようと思う。

「あのバカ……何を考えてやがる」

 苦々しげに呪詛を吐き出すことも忘れない。脳裏に響き渡る高らかな哄笑が忌々しい。

 何が〝忘れ物〟だというのか――これは自分から置き残してきたものであったのに。

 思わず頭を抱えつつ、左肩から吊られた重みの存在を再認識する。

 笑えない冗句か、或いは真面目な忠告か。きっとあの女のことだから、その両方の意味合いを込めて解釈を五樹に任せてくるくらいの大雑把さであろうが。

(……ったく、無意味に疲れたよ)

 とはいえ気分を入れ替えるべく、他の段ボール箱にも手を掛けた。軽い痛みを訴える頭を振って、片付けの作業に取りかかる。

「この〝忘れ物〟が一番置き場に困るんだよな……」

 ひとまずリビングで用を足せる荷物を選り分けるべく、他の段ボール箱も中身を確認していく五樹だった。



 そうして時が経ち、空はやがて夕刻の赤から夜の黒へと色を変えてゆく。

 ちょうど自室に置きに来た目覚まし時計は、六時半に針を刺している。七時からは八神家の夕食に招かれていることも忘れていない。もとい約束を反故にすれば、沙良からどのような報復を喰らうことになるか予想できたものではない。

 とはいえ、楽しみにしている部分とて無きにしも非ずだ。

 沙良の夫である八神(じよう)と顔を合わせるのも久々であるし、それに何より――五樹と共に子供時代を謳歌した幼馴染の少女とは、未だ再会を果たせていないのだから。

 車中で沙良と交わした雑談によれば、彼女は部活動の合宿で今夜まで帰らないらしい。しかし〈世界ふしぎ研究部〉なる奇抜な名前の部に参加している辺り、どうにも近状を危ぶみたくなってしまう。

 とはいえ――友人たちのことを思い出すと、つと懸念が心に痞える。

(……レントンやアリコには、悪いことをしたかな)

 四年という月日は、五樹がこの街から離れていた時間というだけではない。

 彼の大切な友人たちとも、全く連絡を取り合っていなかった時間でもあるのだ。

 今更、どのような顔をして向き合えば良いのだろうか。彼らはまだ、五樹のことを友人として認めてくれるのだろうか。

 本棚に視線を投げれば、借りたまま返し忘れていた文庫本が置いてあるのを見つけてしまって、更に申し訳なさが募ってしまう。

 果たしてこれは誰に借りた本だったろうか。

 微かな痛みを伴う懐かしさが胸の中に溢れるその時。

 ――がたり、と階下から物音が届いてきた。耳を澄ませれば、話し声のような音も聞こえてくる。

「……っ!」

 瞬時に切り替わる意識は、何もただ単に侵入者の存在を感知したからだけではない。

 気配を感じるのだ。微弱――というよりはやや素人臭い未熟さが漂うものの、明かな殺気を。或いはそれに準じる敵意を。

 人に恨まれる覚えが無いと言えば、嘘になる。この四年間は、綺麗事では済まされないようなことをいくつも経験している。

 気配の主は、どうやら真っ直ぐこの部屋を目指しているようだ。技術的には何ら脅威を感じないが、この家の内部構造はしっかりと把握できているらしい辺り、下手に動けば罠に誘い込まれる可能性も否めない。

 五樹は上着に隠れた懐に手を差し込む。

 肩に掛けているショルダーホルスター。脇の下に収められた拳銃――シグ・ザウエルP226。瑞西製らしい信頼性の高い堅牢さを誇る名銃である。

 思えば本当に自分は変わってしまったものだ。四年前には、よもやこのような兇器を身近にするなどとは、想像だにしていなかった。

 弾倉が装填されていることを確認した後、遊底を引いて薬室に弾丸を送り込む。

 気配は徐々に近付いてくる。本人は足音を消しているつもりなのだろうが、しかし緊張からか早まっている呼吸音が響いていることには気付いていないらしい。

 素人臭い未熟さどころではない。これは完全に素人だ。微かな足音から察せられる足運びの様子から、全く荒事に通じていないというわけではなさそうなのだが――少なくとも暗殺者としての訓練は全く施されていないだろう。

 或いは、それを装ってこちらの油断を誘うような相手であるか。

(――さて、どう出るべきかな)

 ほぼ間違いなく、賊は真正面からドアを開けて飛び込んでくるだろう。全くの素人か、或いは気配を偽装できるほどの達人であるかのどちらかなのだ。ならばどちらであったにせよ、小細工に頼ることは有り得ない。前者であれば他の発想ができないし、後者であればする必要がない。

 ならば五樹もまた、定石通りに対応するのが筋か。

 立てる音の大きさを調節しながら、彼もまた敵の侵入に気付いていない様子を装いつつ移動する。開き戸の真横、扉が作ってしまう死角にあらかじめ潜り込む。

 廊下からは微かな話し声も聞こえてくる。声の種類は二つ。比較的トーンの高い声は、おそらく女性のものであろう。だがもう片方は特に甲高く、まだ幼児なのではないかと疑わせるほどだ。

 怪訝そうに眉を顰めるも、脇道に逸れそうな思考はすぐに遮断する。まずは現状に対処すること。余計なことを考えるのは後回しだ。

 素人臭さを丸出しにしながらも、彼女らの話し声は、扉の前に近付くにつれて静かになってゆく。突入を前にした女が呼吸を整える音を聴き取る。

 そして、室外から闘気が膨れ上がった。

「やぁ――っ! ……あれ?」

 勢い良く扉が開け放たれると共に、木刀を振り回す金髪の少女が飛び込んでくる。しかし物陰に身を潜めていた五樹が、その間合いに囚われるはずもなく。

 木刀が虚空を薙いだ勢いに、少女は拍子抜けした様子でつんのめった。

(…………)

 呆れて言葉も出ないとはこのことである。

 未熟だ、未熟だ、とは思っていたが――まさかこれほどのものだったとは。

 とはいえ五樹は油断することなく、その隙を逃さずに少女を制圧する。前のめりに倒れた少女を俯せにさせたまま、その背中に馬乗りになる。

「はい、もう動かないでねー」

 のんびりと間延びさせた口調とは不釣り合いに、ポニーテールが結われた後頭部にがっしりと銃口を押し付ける。次いで他に武器を隠し持っていないかと、片手で少女の身体をまさぐり始める。

「ぇ…ゃ、…ちょっと! どこ触ってるのよっ!?」

 少女はどたばたと暴れるが、重心を押さえている五樹の戒めからは逃れられない。

 生娘という印象そのままに上がる悲鳴を煩わしく思いつつも、武器を隠せそうな部分は余すことなく探る。

 とはいえ。

「……装備も無ければ色気も無いね、君」

 プロテクターに守られているわけでもない胴体は、布越しにその身体の輪郭を露わにさせてくる。胸も尻も驚くほどに慎ましい。これでも本当に女なのだろうか。

「ななな何を言ってるのよ――っ!!」

 ぎゃおう、と涙を溜めた眼で吼える少女の態は、もはや素人を装う演技には見えない。どうやら本気で怖がられているようだ。

 しかし彼女が真に脅えたのは、振り返ったその双眸が向けられている銃口に焦点を合わせた瞬間。ふっと息を呑み、何が何だか解らない、といった様子で目を丸くする。

「…………」

 その仕草を見て、ようやく五樹は警戒を緩めた。

 眼前に突き付けられた銃に対してどう反応するかで、ある程度は相手の練度が知れる。

 それが銃であると即座に認識できる者は、その時点で〝銃〟という非日常的な兇器を見慣れているのだということが解る。見慣れていない者は、突発的な事態に対する混乱と共に一時的に思考が停止してしまって、ただ無抵抗に身を竦ませてしまうのだ。

 この少女の反応は、明らかに後者であった。

 とはいえ敵意を以て襲いかかってきたことは事実であるため、完全に警戒を解くことはしない。話し声は一人ではなかった――まだ伏兵の存在が確認されていない。

 部屋の外に気配は感じられない。ならば、と部屋の中を見回す。

 銃口を前に脅えたまま身を竦ませる少女と、その影にひっそりと隠れるように身を潜める猫。

「………………猫?」

 大きな頭に円らな瞳を備えた、小さな体躯の白猫だ。

「…………」

「…………」

 彫像のように動かない仔猫。まるで置物、もとい縫いぐるみのふりを装うかのように。

 だがそれほどの演技力を備えている時点で、ただの獣でないことを逆に証明してしまっている。

「ばん」

「ふぎゃっ!?」

 銃口を向けて擬音を口にすると、仔猫は驚いたように飛び上がった。

 どうしてだろうか――見れば見るほど、猫とは思えなくなってくる。

「お嬢さん。これは君の飼い猫?」

 じろりと猫を睥睨したまま、跨っている少女に問う。

「え、えと……そうです、いちおう、はい」

「ふぅん」

 猫に銃口を向けたまま、震え声で応じた少女の方へと視線を戻す。

 濃淡の入り混じる金髪は地毛だと気付いていたが、その瞳もまた碧い。カラーコンタクトで偽装しているならばともかく、十中八九、西洋系の血統だろう。

 ――と、少女もまた肩越しに五樹を振り返り、まじまじとこちらの顔を眺めてきていた。

 その驚きに丸くした目と、不安げに揺れる瞳の色に、―――――不意に既視感を揺さぶられる。

 否、この少女には確かな見覚えがある。

 というよりか、整った容貌の造作が、ちょうど昼間に目にしていた女のそれと多く重なっているのだ。

 すると、この少女は――。


「……アリコ?」「イッキー、なの……?」


 五樹の零した呟きと、少女の発した問いが重なる。

 そして同時に、互いがその答えを発しているのだと気付く。

 予想だにしなかった急展開に、少年と少女は言葉も忘れて見つめ合った。

 幼馴染たちの再会する場面としては、実に奇妙極まりない情景だと、頭の何処かでそっと思った。


 たった四年、然れど四年。

 止まっていた時計の針が、動き出す音を聞いた。



       ◆       ◆       ◆



 血に濡れた金髪。

 見返してくる瞳と、微かに動く唇。


 幾度となく繰り返し幻視する、過ぎ去りし昔日の残影。


 その屍を踏み越えることに後悔はない。

 ――嗚呼、けれども。


 決して()えることのない(のろい)を、彼女から刻み込まれたのかもしれない。

ようやく開幕しました本編です。

正直な話、【Prolouge】は書くべきではなかったかもしれない――と後悔していますが、今となっては後の祭り。

ほら……亜莉子さんのキャラとかブレまくってるでしょ、あれ^^;

これからどのくらい軌道修正が利くかは解りませんが、とりあえずは「本当に書きたかった形」になるように努力を重ねる所存です。


あと此処までお付き合い下さっている奇特な御方。

本当にありがとうございます<(_ _)>

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