最終話 始まりの終わり、終わりの始まり
「へくちっ」
「風邪かい?」
「風邪だろうな」
順に八神亜莉子、馳川蓮人、氷ノ原樹里である。
何ということはない。屋上で上着も無しに屋上で過ごしていたため、軽い鼻風邪を引いてしまったというだけのことだ。
ちなみになぜこの場に蓮人がいるかというと、教室に戻っていると彼もまた氷ノ原と共に亜莉子のことを待ってくれていたからだ。気持ちは嬉しいが、しかしこうまでされると、むしろ過保護なのではないか、と思えてきてしまう。
だが蓮人がそうしたがるのも、理解できなくもないのだ。
剣道部でこそ主将として皆を率いる立場にあったが、それは剣道の実力という自信が亜莉子を支えていてくれたからだ。けれども日頃の生活の中では、まだ誰かの背中に隠れてしまうことが少なからずあり、蓮人は――そしておそらくは氷ノ原も――そういう部分を察して、何かと世話を焼いてくるのだろう。
しかし今の二人はと言えば、先頭を歩く亜莉子を何処か不思議そうな目で見つめていた。
「……何?」
ひしひしと感じ取れる視線に、亜莉子は鼻を啜りながら振り返る。
「……いや、何つーかさ」
言葉を選びあぐねたらしい氷ノ原は、そのまま蓮人に視線を投げた。
「うーん……少し見ない間に変わったのかな、アリコ」
そう言う蓮人も、言葉に迷うような様子ではあったが。
何がとは言えないけれども、しかし何かが違う。
敏感に反応する友人たちに、亜莉子は苦笑を返す。
「変わったっていうよりは、在るべき姿になった、って感じじゃないかな」
このような言い方をすると傲っているようにも聞こえるかもしれないが、本人の感覚としてはそういうものだった。
そもそも部内でリーダーシップを執れる人間が、普段は他人の背中に隠れようとする方が間違っていたのだ。
習い性とはいえ、既に変わることができるだけの素質を有していたにもかかわらず、ずっと彼女は変わらないままでいた。
成る程――それは《怠惰》の罪銘を刻まれようになっただけのことはある生き方だ。
「『在るべき姿』か……いや、確かに言い得て妙かもな」
「うん。何て言うか、今の方がよっぽどアリコらしいと思うね」
「はっはっはーっ。もっと褒めてくれたっていいんだぞ~♪」
「調子に乗るな」
ぺん、と氷ノ原には指弾された。
まあまあ、と空気を整えるのは蓮人。
「何はともあれ、アリコが元気になったんだから良かったじゃないか」
「……とは言え、こいつは風邪を引いているがな」
至極尤もであるツッコミに、笑い声が沸いた。
そうして一頻り笑い終えた後、静かな笑みを湛えながら亜莉子は口を開いた。
「良いわね……こうして、笑い合えることって」
これが亜莉子の生きてきた日常であり、これからもずっと居場所にしていたいと願う日常だ。
けれども今日、彼女はその裏側を知ってしまった。
人としての在り方を、〈七つの大罪〉によって歪められてしまった怪物。そしてそれを狩ることのできる権能。
世界が壊れてしまったとは思わない。関節が外れてしまっているとは思わない。
きっと彼女の知るずっと以前から、世界はこのような姿をしていたのだろう。ただそれを知らずに、今までを生きてきただけだ。
けれども知ってしまった以上は、目を背けることはできない。
力を与えられてしまった以上は、逃げ出すことはできない。
叛逆すべきはこの世界に非ず――討つべきは、人を貶める擬神。
見上げた空は、亜莉子の秘めた熱意に染められたかのような深紅。
「明日も、晴れるかな」
「いや、明日はまた雪が降りそうだとか天気予報で言っていたよ。それに例年、卒業式日は大雪になるらしいしね」
「……レントン、ムードブレイカーとか言われない?」
「馳川。今のはさすがに情緒が無さ過ぎると思うぜ。
……八神も、何をいきなりポエムを呟き出すのかとも思ったが」
「ちょっ! ポエムって何よ! 私はただ率直な感想を口にしただけだもん!」
「無意識にああいう台詞が飛び出すってことは、アリコ、わりと素質があるんじゃないかな」
「何の素質よ、何の!」
賑やかに過ぎ去っていく少年たちの日常。
守るべき日常が確かにある限り、きっと亜莉子は闘ってゆけることだろう――。
◇ ◇ ◇
思えば、此処から全てが始まったような気がする。
それはつい最近にも、強烈な印象を刻み込まれてしまった公園。
今から丁度、一週間前。此処で悪夢と出遭った。
そして今もまた、その残り香が夕風に舞う――墨汁に濡れたような烏羽色の髪が、夕闇を喰らうかのように靡く。
「此処で待っていれば、きっと現れると思ってたわ」
振り向くまでもなく、彼女の存在を感知できていた。おそらくは霊感の類――これが魔法少女の持てる知覚か、と内心では妙に感心する。
しかし外面では、隠そうともしない険相を露わにさせていた。
現れたのは漆黒の闇――そう見紛うほどに、ひたすらに黒一色に極まる存在感を持つ少女だ。その名を、ヴェストリー、と聞いている。
「喚び出す前にきちんと現れるとは、意外と躾の行き届いた牝猿なのです」
「そう言うヴェスは、呼ばれてもいないのにやってくる傍迷惑なおばさんみたいだニャ」
「黙れなのです、この性悪猫」
しかし今日は彼女一人だけではなく、随行する白い仔猫の姿があった。
それ以外に人の姿は無い。亜莉子を除いては、あくまで一人の少女と一匹の猫だけだ。
つまり。
「……ね、猫が――喋ってる!?」
「ニャニャ!? 猫が喋るくらい、今更驚くことでもないニャ」
やれやれといった様子で肩を竦める仔猫。関節の構造からして、既に猫のそれではないことが瞬時に察される。
そして仔猫は素早く公園の門柱に駆け上がると、亜莉子と目線の高さを合わせてから一礼した。
「初めましてだニャ、アリス。ボクの名前はチェシィニャ!」
「……ちぇしーにゃ?」
何語だろうか。
「チェシィ、ニャン」
「……ああ。チェシィ、なのね」
紛らわしい喋り方だ。
とはいえ人語を解する猫と言えば、語尾に「ニャ」と付けるのが鉄則であろう。それはもう絶対に。異論は認めないくらいに。
だから許す、と心の中でぐっと拳を握り締める。
「一体その軽そうな頭の中で何を考えているのかは知りませんが――」
言葉とは裏腹に、亜莉子の内心を見抜いているかのようなヴェストリー。
「その猫は、あなたに差し上げるのです」
「さ、差し上げるって……ええ!? 私が飼えってこと!?」
「ボクを物みたいに言うのは止めて欲しいニャ!」
二者から同時に放たれるツッコミ。亜莉子もまた本来の目的を忘れて、思わずヴェストリーの話に付き合ってしまっていた。
「問題は無いのです。見ての通り、人の言葉が話せるので、あなたとは違って躾もしっかりと行き届いています。餌にしても、適当に残飯を漁らせておけば良いのです」
「さりげなく私を侮辱するのはどうして!?」
「それにボクは野良犬じゃないニャ! 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を要求するニャ!」
人語を解するとはいえ、人類並みの生存権を主張する猫というものもまた逞しい。
「まぁ、細かい事情の行き違いはさておき――」
「良くない!」「良くないニャン!」
マジでウゼぇ、という呟きが聞こえたような気がした。
「その猫……偉そうにもチェシィなどと名前が付けられている哺乳綱ネコ目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体は」
「いや明らかにそっちの呼び方の方が長くなってるわよね」
「話の腰を折るななのです。……で、この哺乳綱食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体なのですが――」
「『寿限無』っていう落語があるんだけど、チェシィは知ってる?」
「ニャー、知らないニャン……」
「話聞けよお前ら」
ぞくりと底冷えのする恫喝に、思わず少女と仔猫は背筋を伸ばしていた。
「はぁ。哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の一個体と哺乳綱食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体の躾は面倒なのです」
「敢えて呼び名にはツッコまないけれど、あなたに躾けられるほど落ちぶれた覚えはないわよ」
「同じくだニャン」
「哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の一個体と哺乳綱食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体の意見などどうでも良いのです。
要は哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の一個体の見届け役として、その哺乳綱食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体が派遣されているのだという話なのです」
「…………。……ええと、見届け役?」
無駄に長ったらしい台詞の中で、重要なキーワードだけを抜き出してくる。
これに応と答えたのは、当の哺乳綱食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属に分類される小型哺乳類の一個体――チェシィだった。
「そうだニャ。アリスの闘いを見届けることが、ボクの役目なんだニャ」
どうして、と言いかけて。
「どうして、などというベタな問いには答えられないのです。ただ我々には、哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の特別な一個体の在り方を、選択を、闘いを、――生き様を見届けなければならない義務があるのです」
――というように質問は封殺された。人形めいた無感情な漆黒の瞳は、そうであるだけに意志の堅固さを明らかにさせている。
「私には選択権は無い、ということなのかしら」
「厳密には違うのです。もしあなたがその存在を鬱陶しいと思うならば、実力を以て排除すればいい――あなたが今日、咒を討ったように」
瞬間、一挙に血が頭に登り詰めた。
がっ、とヴェストリーの襟元を掴もうとして――しかし虚空を薙いだかのように、その手が少女の黒衣を掴み取ることはできなかった。
「あなたが何をしようとも、我々はその経過を見届けるだけです。
……尤も、今のあなたの行動が全くの無意味だと教えるくらいのお節介は焼きますが」
実体も実感もある。けれども手が届かない。触れているはずなのに、すり抜けているかのように捉え所がない。
そして――無駄な足掻きを続ける亜莉子の腕を、ヴェストリーの繊手が掴み取る。
「根底からして次元が異なっているのですよ。二次元が三次元に絶対勝てないのと同様に」
握り締められた指に力が込められる。
「つぁ!?」
まるで万力に締められているかのような激痛。それはあたかも、一週間前の夜の再現のようで。
――そこで亜莉子は、はっとした。
空いている片手を懐に伸ばそうとして、しかしその手もまたヴェストリーによって捉えられてしまう。
「そう。このヴェストリーめに危害を加えたいならば、擬神の権能を行使する必要があるのです。尤もヴェストリーめ自身は専任の見届け役ではないので、有事の際には自衛する権利が認められていますが」
この場での戦闘は無意味なのです、とヴェストリーは言い、そして胡乱げな表情を浮かべた。
「一体何が、あなたを突き動かしていると言うのです」
「……てたんでしょ」
堪える声は、痛みに耐えてか。
その痛みは、むろん締められている手首のみならず。
「あなたは気付いてたんでしょ! 一週間前の今日、本当は向日が――中学生の女の子が咒に堕ちていたことに!」
聖遺物を埋め込んできた後のことだ。
あの時、ヴェストリーはつと何かを見つけたかのように、遠くへと視線を投げかけていた。今にして思えば、その方角には中学校が置かれている。
ほぅ、と感心したように頷く黒衣の少女。
「意外に観察力が鋭いのですね」
「……人の顔色ばかり窺って生きてきただけよ」
「ですが、気付いていたところで何だと言うのです」
漆黒の闇であるかのような少女は、淡々とした様子で揺らぐことがない。
「あの時点のあなたに、何を言ったところでまだ無意味です。加えては一旦咒に堕ちてしまった人間は、二度と元には戻せない」
「だけど――」
「咒の発生は、予見できないのです」
ほんの僅かに、ヴェストリーの声に怒気が籠もる。
「人の心はどうしようもなく脆く、あれはその綻びを目聡く見逃さない。
我々が打てる対抗手段は、せいぜい迫り来る咒を迎え撃つことばかりなのです」
それは覚えのある感覚だ。
屋上で向日と対峙していた時、何かが亜莉子の心に忍び寄ろうとしていた。その時に彼女が心を明け渡さなかったのは、《魔法少女のすゝめ》に組み込まれていた防衛機構が作動したからだ。
「理解しましたか、このミジンコ脳。このヴェストリーめにわざわざ教授させるまでもなく、いずれ聖遺物から知識が流れ込むのです。それまでは、己れが分を弁えて余計なことを考えないべきなのです」
「……でも!」
「強すぎる想いを罪として踏み躙られた者は、何も彼女一人だけではないのです。
特別なのは咒と対峙する魔法少女の方なのであって、咒は人の心の隙を突いて、何処からでも、誰の元にでも現れるのですよ」
ヴェストリーが亜莉子の腕を掴んでいた手を放す。亜莉子もまたそれ以上は彼女に掴みかかろうとせずに、力なくだらりと腕を垂らした。
「だから魔法少女は、余計な被害者を増やさないように、咒を見つけ次第、さっさとそれを討てばいいのです。相手が誰であろうとも、躊躇う必要は無いのです」
躊躇いはない。血と泥を被る覚悟は決めた。だからこそ向日葵を討った。
けれども――。
「余計な被害者?」
それは一体何だというのだ。
まだ学習していないのですか、とヴェストリーは露骨に面倒そうな表情を浮かべる。当初の人形めいた無感情さは何処に消えたのか、亜莉子への嫌悪感が露骨になってきている。
「咒は人を喰らうのですよ。
あなたが対峙した咒とて、その本来の目的は斃すことによる魂の捕食なのですよ」
「……っ」
聖遺物はその魔力を駆動するために、咒の持てる魂を喰らう。
しかし咒の喰らってきた魂とは、即ち人間のそれ――。
不意に力が抜けた。
咒を殺す覚悟は決めたつもりだった。魔法少女として、血と泥を被る覚悟を。
けれども、本当はまだ解っていなかったのだ。心の奥底では、まだ目を背けていた。
咒を殺すということは――延いては人を殺すということに等しいと。
守るべき日常が確かにある限り、きっと闘ってゆけると思っている。
けれどもその日常が壊れてしまった時――亜莉子の日常を形作る大切な人々が喪われてしまった時、彼女は闘い続けることができるだろうか。
かつて恋い慕う少年が姿を消した後も、不安で堪らなかったというのに。
「言っておきますが、咒は人ではありません。
確かに元は人であったかもしれませんが、堕ちてしまった以上は人の皮を被った魔物です。余計な同情をすれば、己れの身を危うくするのですよ」
「……違うわ。咒だって、やっぱり人間よ」
その言葉は無意識の内に漏れていた。
思い出すのは、かの鎧武者の女巨人――向日葵の放つ哀惜の咆吼。
「私の日常を、私たちの大切な人の日常を守るために、私は咒を討つ。
でも、魔物だから討つんじゃない――人としての尊厳を守るために、死者を辱める悪意を討つの」
尊い想いを罪へと歪めた、その悪意に鉄鎚を。
そのためならば、柄で無かろうとも正義の味方を気取ろう。
血を被り、泥を被り、しかし人を殺さない――そのような矛盾の体現者たることを許されるのは、正義の味方という空想上の偶像だけだ。
人殺しであるが、しかし人殺しに非ず――そのようなご都合主義の解釈を謳えるのは、強きを挫き、弱きを扶けることをモットーとする偽善者だけなのだから。
「一丁前に言いやがるのです、この半々人前の分際が」
そう言うヴェストリーは再び無表情の仮面を被っているが、ほんの僅かに、その口元が面白げに歪んでいるようにも見える。
上等だ、笑いたければ笑え。意地でもこの信念を貫き通してみせるとも。
「ですが、それを見届けるのはヴェストリーめの役割ではないのです」
「ニャ、ニャー」
その時、引きつったような、困ったような、そしてやや寂しげな様子すら窺える猫の鳴き声が聞こえてきた。亜梨子の闘いを見届けるという、白い毛並みを持つ仔猫だ。
ぱすぱすと前肢を叩く音。存在を主張したいのだろう――確かに今まで、眼中に無かったような気がする。
「…………」
「…………」
うるうる、とチェシィの円らな瞳が潤んでいるようにも見える。
「ごめんね、チェシィ! おねーちゃん、あなたのこと完ッ全に忘れてた!」
そのままぎゅうっと胸に抱きしめると、白毛の仔猫は悲鳴を上げた。
「ギャーっ! 痛いニャ! 骨がが砕けるニャン!」
「あ、ご、ごめん」
「でもアリスの匂いは好きニャ。嗅いでいて、何だか落ち着くニャ」
「…………」
何だろうか、この胸の中に膨れ上がる気持ちは。
仄かに暖かいものが、胸一杯に拡がってゆく。やもすれば、時々世間の煩わしさに忘れてしまいそうになってしまう温もりだ。
(か、か、か……可愛い――ぃッ!!)
だけれども、一つだけ訂正しておかなければならない。
「いいこと、チェシィ。私の名前は亜莉子よ」
「解ってるニャン、アリス!」
「だから〝アリス〟じゃなくて〝亜莉子〟!」
「ニャ?」
「何て言うんだろ……〝アリス〟って呼ばれると、何だか他の人の名前のように聞こえるのよ。だから〝亜莉子〟って呼んでくれたら嬉しいなって」
仔猫の瞳が、じっと亜莉子を見上げる。そして、にっこりと笑った。
「解ったニャ、亜莉子!」
「うん。これからもよろしくね、チェシィ」
一人と一匹が絆を育むその様子に、ヴェストリーは付き合いきれないと言わんばかりに背を向ける。
既に夜の帳は下ろされてる。夜闇とヴェストリーの輪郭との区別が曖昧になっていて、ふと気を逸らした瞬間にその姿が見えなくなってしまいそうだ。
しかし亜莉子は、そのまま夜に紛れて消え失せようとするヴェストリーを呼び止める。
「待って、ヴェストリー」
「この期に及んで何の用があるのです、見るからに頭の悪そうな哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の一個体」
まだそのネタ有効だったんだ、と亜莉子は小さく苦笑する。
「うん。さっきはその……喧嘩しちゃったけれども」
「喧嘩などではないのです。哺乳綱霊長目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト属の一個体の示威行動に付き合ってやっていただけなのです」
冗句でも何でもなく、心底からそう思っていると言わんばかりの真顔であるヴェストリー。
「……言うの止めようかなと思ったけど、やっぱり自分で納得できないから言わせて貰うわ」
額に青筋を浮かべながら、亜莉子はにっこりと笑う。彼女の腕に抱かれたチェシィが、ぶるりと身を震わせた。
「一体何の用なのです。このヴェストリーめはお前のような小娘とは違って、それなりに忙しいのですよ」
「あ、今夜は観たいドラマがあるって言ってたニャ」
ぎろりと黒衣の少女は白毛の仔猫を睨め付けた。
この二人が組み合わさると、どうにも漫才のように思えてくる。しかしこれ以上、ヴェストリーを苛立たせてしまうのも本意ではない。
だから、簡潔に言ってしまう。元はと言えば、この一言をどうしても言っておきたかったのだ。
「――ありがとうね、ヴェストリー。私にこの〝力〟をくれて」
それはきっと、驚きだったのだろう。
数拍の間、ヴェストリーは目を丸くしたまま無言を保っていた。
しかしすぐにその容貌は無表情の仮面に覆われて、硝子のように冷たい無機質な声音が返される。
「礼には及ばないのです。
資質ある者を魔法少女へと導くことが、このヴェストリーめの存在意義なのですから」
そして今度こそ、ヴェストリーは振り返ることなく姿を消し去った。
それを見送って、亜莉子もまた腕の中の仔猫に声を掛ける。
「それじゃ、私たちも帰ろうか。案内するわね、あなたの新しいお家に」
「ニャーっ!」
嬉しそうなチェシィの鳴き声に、何となく、亜莉子は明るい未来を予見するのだった――。
「言い忘れてたけれど、ちなみにボクは牝だニャ」
「えぇ!? ボクっ娘なの!? 仔猫の分際で無駄にキャラが濃いわね……」
「なんだかバカにされてるような気分だニャー……」
◇ ◇ ◇
――そして、一年の時が過ぎた。
神は天に在りて、なべて世は事も無し。
人知れぬ異相の空間において、少女たちの闘いは続く。
「Certa mittimus dum incerta petimus.」
紡がれた祝詞と共に、亜莉子の姿が爆散する。
――否、それは散華ではなく誕生。
弾け飛んだ雷光が形作るは少女の像。幾多にも分かれたその数は十を越え、二十を越え、二桁を越え、三桁をも越え――そして心を打つ荘厳さすら孕んだ合唱が、己れの誇る秘蹟を高らかに謳い上げた。
「「「――《鳴神剣舞・無量大数》ッ!」」」
反響と余韻の区別も付かない刹那の間にも、無数の剣影が殺到する。蒼白を通り越した白銀の輝きが、瞬く間に咒の巨躯を斬り刻む。それは轟く雷鳴よりもなお速く届く断罪の刃。
やがて微塵すらも残さずに宿敵の姿が消え失せた頃、白銀の装束を纏う少女は地に降り立った。それを合図としたかのように、彼女を取り囲んでいた風景が音もなく崩れ去っていく。
何処か儚げですらある、舞台の崩壊するこの瞬間。
人知れず拭い去られてゆく、罪の痕跡。
しかしそれは確実に、命を喪った一人がこの世界から欠落してゆく光景でもあった。
ゆえに亜莉子は心からの弔意と共に手を合わせる。それが形ばかりの欺瞞にしかならないことは、彼女自身がよく知りつつも。
やがて静寂が遠のいて、この人気の無かった路地裏にも少しずつ喧噪が生き返る。命ある者たちの営みに耳をすませながら、少女は仔猫を振り返った。
「どうだった、チェシィ?」
「驚いたニャン! 分身の術だなんて、いつの間に使えるようになったのニャ?」
「漫画を読んでたら登場したのよ。……で、これってもしかしたら私にも使えるんじゃないかなーとか思って、試してみたの。結果はご覧の通り」
「ニャー……日本の漫画も侮れないニャ」
腕を組みながら感心するチェシィを横目に、亜莉子は脇に置いておいたスポーツバッグを取り上げる。もともと大したものは入れていなかったが、念のために貴重品の無事を確認する。
――合宿からの帰り道だった。
とはいえ〝合宿〟というのは名目のようなものであり、実質的には亜莉子たちの所属する〈SF研〉――〈世界ふしぎ研究部〉のメンバーで小旅行に行ってきたようなものだ。
部内で唯一の先輩であった三年生の卒業旅行と、やがて春先に訪れる新入生争奪戦争の壮行会を兼ねたイベントだ。
余談だが亜莉子がこの巫山戯た名前の部活動に入部させられたきっかけは、たまたま喋る仔猫を連れている場面を先輩に目撃されたことに始まる。そして人攫いも同然に拉致されてしまった亜莉子を見かねた氷ノ原が共に入部し、噂を聞きつけた蓮人もまた面白そうだと仲間に加わったのだった。なお亜莉子の一本釣りを成し遂げたかと思えば、一緒に更に二匹も釣れたと先輩は当時、とても嬉しそうに語っていた。
しかし先輩と過ごす愉快な一年間はあっという間に過ぎ去ってしまったもので、次年度からは是が非でも新入生を迎えなければならない。同学年が三人も居るからまだマシと言えるだろうが、入部者が増えずに廃部の危機に陥っていた先輩の悲劇を再来させるわけにはいかないのだから。
「ニャニャ~?」
過ごした時間を回想しながら着く帰路にて、不意に肩口に乗ったチェシィが声を上げた。
「あの家、灯りが付いてるニャ!」
「え?」
言われて、亜莉子もまたチェシィが鼻先で示す方向を見やる。
それは八神家と軒を並べた隣家――主が不在となって、もう四年が過ぎている邸。
そして、彼女の恋い慕う大切な幼馴染の帰るべき場所。
「……泥棒?」
「かもしれないニャ?」
幸いなことに、この手には木刀がある。
旅先の土産物屋で購入したものだ。素振りをするのに程良い長さと重さであったため、元剣道部にして現役魔法少女剣士の血が騒いでしまったのだ。思わず衝動買いしてしまったのだ。
かの家は亜莉子にとっては聖域だ。触れてはならない逆鱗だ。忍び込んだ賊が何者であるにせよ、目に物見せてくれよう。
頭に血が上っていた亜莉子は、だからなのか気付いていなかった。
合鍵を持ち出すまでもなく扉が解錠されていたことも、むろん鍵穴に細工が施された形跡が無かったことも。
少女の早とちりは、やがて少年との運命的な邂逅をもたらす。
耳を澄ませば、きっと聞こえているくることだろう――狂々と廻る歯車の音が。
† † †
始まりが終わり、
やがて終わりが始まる。
―――――さて、お伽話の幕を開けよう。
今度こそ本当に『序章』が終了しました。
此処まで付き合って下さった皆様方、本当にありがとうございます!
さて次章からは本編ということで主役も〝彼〟に交代することになりますが、願わくば今後ともご愛顧頂けますよう――。