第3話 魔法少女のすゝめ
少女にとって、その少年は傘であった。
降り続く雨も、傘を差してゆけば歩いてゆける。
彼に背負われることで、茨の道も痛くはない。
けれど守られることに心地好さを覚える一方で、時にどうしようもなく不安になってしまうこともあって。
だから少女は焦がれた――せめて自分の足で立って歩いて、彼の背中を追いかけたいと。
いつか彼に追い着きたいと、その胸に想いを秘めていた。
やがて少年は少女の前から姿を消す。
傘を失くした少女は、雨に打たれながら立ち竦む。
それでも止まり続けることは許されなくて。
いつも誰かの傘を借りながら、少女は歩き続けていた。
◇ ◇ ◇
向日葵。
――まるで〝向日葵〟のような名前だと思ったことを、八神亜莉子は覚えている。
向日葵との出会いは、新入生歓迎会の直後のことだった。
様々な部活動の立て看板が並ぶ中庭。練習に赴く前に、亜莉子は部長として勧誘活動の様子を見に行ったのだ。格好良く言えば〝激励〟というものだが、果たして自分にそれだけのカリスマ性があるものだろうか。
上級生の引退に伴って先代より指名された部長職。
正直な話、亜莉子には荷が重く、固辞したい気持ちで一杯だったのだが、皆の期待に満ちた視線を裏切れずに、思わず引き受けてしまったのだ。
それまでは先代部長の下で二年生のエースとして気儘に竹刀を振っていられたが、やはり部長ともなると事務的な雑用が増える。有能な副部長の支えもあって何とか乗り切れているが、如何せん頼りなさを覚えてしまうのではないかと、常日頃から不安になる。
だからせめて、これから入部してくる新入生に対しては、最初から気取らない態度を見せておこう――という打算もあるのだ。
その思考に後ろめたさを覚えないわけではなく、そうであるだけに、いきなり届いたその声には思わず度肝を抜かれたのだった。
「あ、あの! こんなあたしでも、あなたみたいに強くなれるでしょうか!?」
挨拶も前置きも何の脈絡もなく、その少女は亜莉子を前にして叫んでいた。
大勢が賑わう中庭の一角で張り上げられた声だ。彼女が周囲から注目を集めてしまうことも、自然な成り行きと言えよう。
「……っ!!」
そして驚いたのは亜莉子ばかりでなく当の本人もそうだったらしく、黒髪の少女は顔を赤らめて俯いてしまう。
「え、えっと……あなた、剣道部に入りたいの…かな?」
それでもいち早く亜莉子が回復できたのは――もじもじとスカートの裾を握る少女の仕草に、思わず既視感を覚えてしまったためか。
声を掛けた亜莉子を前に、少女は大きく肩を震わせる。そして絞り出すような声で、彼女は言った。
「あたし……新歓で先輩を見て、すごく感動して。あたしも、ああいう風になりたいなぁって、思って――それで……」
俯いた目元は前髪に隠れて解らないが、しかし耳までも真っ赤に紅潮しているところが少し可哀相にすら思えてきてしまう。
ただ、そう思ってしまうのはきっと――。
「練習、頑張れる?」
「は、はい!」
――少女の姿が、かつての自分と重なってしまったからなのだろう。
それから、何かと向日葵のことは気に掛けていた。
体育会系にあるまじき運動音痴には思わず匙を投げそうになったが、そのハンディキャップを覆すだけの努力を彼女は続けていた。
他人の倍だけ練習して、ようやく他人と同じスタートラインに立てる。そのような報われなさを前にしても、向日は決して逃げ出そうとはしなかった。
彼女はずっと追いかけてきた。一心に、亜莉子の背中を追い続けてきた。
どうして、と亜莉子は思う。どうしてそんなに自分を追ってくるのか。
誰かに恋い焦がれられるほど、逞しい人間ではないのに――。
やがて夏を――闘いの季節を迎える。
亜莉子の率いる女子剣道部は州大会まで駒を進めるも、辛くも列島大会にまではあと一歩及ばずというところだった。後悔はないが、心残りがあるとすれば、先代部長から託された列島大会出場を果たせなかったことだろうか。
そして敗北と共に剣道部生活にも終止符が打たれて、亜莉子たち三年生も先達に倣って引退する時がやって来た。
これが今生の別れだというわけでもないのに、向日のよく泣くこと。
それでも一心に慕ってくる後輩の存在が鬱陶しいわけではなくて、思わず亜莉子もまた鼻の奥がつんとしてしまったことは内緒だ。
それからは向日と顔を合わせる機会もめっきりと減った。廊下で顔を合わせれば挨拶はするし、時には立ち話もする。けれども毎日のように顔を合わせていたそれまでとは、やはり感覚が違ってしまっていることは否めない。
とはいえ向日の台詞だけは、昔から相変わらずだった。
いつか先輩のように強くなります――と。
その言葉がどうにも頭から離れなくて、たまに剣道部に顔を覗かせる。
向日は今までと変わらず、黙々と竹刀を振っている。
振り下ろす際に僅かに右に逸れる太刀筋は相変わらずだが、それでも初めて竹刀を握った春先に比べれば、随分と様になっている。
けれどもその在り方には、張り詰めた糸のような危うさもまたあった。
どうして、と亜莉子は不安になる。どうしてそうまでして、自分を追い続けてくるのか。
そして季節は巡り、卒業式も間近になろうという頃。
放課後の教室で待っていては貰えないかと、向日から呼び出された。
夕陽に染まる室内で、ふと亜莉子は向日葵の花言葉を思い出す。
(〝憧れ〟――そして〝あなただけを見つめる〟、だったっけ)
成る程――名は体を表すとは言うが、まさに向日葵の在り方は向日葵の花言葉そのものであった。
やがて向日が現れた。
何かしら覚悟を決めたかのように、思い詰めた表情。その一方で、縋るような渇望にも彼女の瞳は揺れていた。
そして――彼女は言葉を漏らした。指の間から零れて落としてしまったかのように。
好きです、という呟き。
その意味するところが、特別であろうことは想像するに難くない。
向けられた好意が嬉しくないわけではない。しかし同時に思ってしまったのだ。
どうして、と。誰かに恋い焦がれられるほど、自分は立派な人間ではないのに――と。
そして一瞬だけ脳裏を過ぎった、懐かしい少年の面影。
だから彼女もまた、意図せずに零してしまった。
自分でもどうすればいいか解らないという――困ったような笑みを。
◇ ◇ ◇
ぎぎぃ、という重低音と共に、錆び付いた金属製の扉を押し開ける。途端に流れ込んできた冷気に、ぶるりと亜莉子は身を震わせた。
屋上に出て真っ先に目に飛び込んできた光景は、澄み渡る青空。この街の冬空にしては珍しく、雲一つ浮かばない快晴であった。
しかし空に気を取られることも束の間、手摺りに腕を載せて佇む後輩の後ろ姿を捉える。
向日葵――剣道部の後輩であり、同性ながらも八神亜莉子を恋い慕う一途な少女。
「……向日」
自然、呟きが零れ落ちた。その背中は見慣れているようで、けれども見慣れないようにも思える。――どうしてか、まるで彼女が遠くなってしまったかのように錯覚する。
亜莉子の存在には既に気付いているだろうが、それでも向日は振り返らない。空を見上げているのか、地を見下ろしているのか。或いは地平線の彼方を見据えているのか。
「…………」
黒髪を風に靡かせる少女の背中は、依然として黙したまま何も語らない。言葉を交わしても擦れ違ってしまうのが人なのだ。言葉すら語られるこの状態では、ますます互いを理解することができない。
嗚呼、けれど胸の奥で響く警鐘は何事か。
近付かなければならないというのに、近付くことを恐れている。拒まれてはいないのに、しかし近付いてはならないと産毛が逆立ってゆく。
(……っ!?)
背筋を氷塊が滑り落ちる感触と共に、知らずと体が震えた。
――この感覚には覚えがある。
忘れもしない一週間前の夜。暴虐の悪夢。思えばそれは、彼女に愛の告白を受けた直後の出来事であった。
その奇妙な符合は計算された必然であるのか、悪戯めいた偶然であるのか。
体の中を駆け抜ける戦慄に、思わず歩を進める足が止まる。けれども時は既に遅く、そお一歩は既に向日の伸びる影へと踏み込んでいた。
よもやそれが合図となっていたわけでもなかろうが、ようやく向日が口を開いた。
「ねぇ、先輩――」
それは亜莉子に向けられているようで、同時に独り言つように遠い呼び掛け。
息を呑んだ亜莉子の気配を応答と受け取ったのか、向日は更なる言葉を紡いだ。
「先輩は、恋をしたことがありますか?」
「……え?」
拍子抜けしなかったのかと問われれば、それは否と答えざるを得ないだろう。触れれば裂けてしまいそうな剣呑な冷気を纏っているにもかかわらず、彼女の声音には亜莉子を害しようとする毒気は感じられなかった。
張り詰めている少女の気配は、同時に何かを堪えるかのように思えて。
「どうなんだろう……自分でも、よく解らなかったりするの」
やはり大切な後輩を放っておけなくて、彼女の言葉に応えていた。
「恋って、何なんだろうね」
ふと脳裏に思い描かれた像は、快活な少年の笑顔。今からもう三年近くも前の肖像であるから、今はもっと違った容貌なのだろうけれど。
旧来の友人は、彼女が彼のことを好きだと思っているらしい。しかし当の彼女はというと、それを素直に認めることに抵抗を覚えてしまうのだ。
決して彼のことが嫌いだというわけではない。好き、であることに間違いはない。
けれども――彼に対して抱くこの感情を、本当に〝恋〟と呼んでしまって良いのだろうか。
「あたしは、先輩のことが好きです。前にも言ったように」
揺らぎなく、向日葵は断言した。
かつてのように零れ落ちてしまったような言葉ではなく、聞き違えがないほどにはっきりと。
「恋は暴力です。狂気です。理屈に合わない不条理です。
だから女が女を好きになるだなんていう、畸形の果実が実ってしまう」
付け加えられた独白には、抗えない哀しさも宿っていた。
同性愛という生産性の無い愛の矛盾。極論として、恋愛とは子孫を遺そうとする生物的衝動を人間的に美化した言葉に過ぎない。だからこそ子孫を残せない恋の形は、生物としての在り方から逸脱した異常と謗られてしまうのだ。
しかしその事実に傷付く後輩を慰める資格を、亜莉子は持ち合わせていない。
好きです、と向日葵が慕ったのが八神亜莉子であったのならば。
ごめんなさい、と向日葵を傷付けたのもまた八神亜莉子であったのだから。
人の心の有り様として同性愛が存在することを、亜莉子は否定するつもりはない。けれども、いざ自分に向けられたそれを受け止められない以上は、何を言ったところで欺瞞にしかならない。
「……ごめん。やっぱりわたしは、その想いには応えられないよ」
向日の小さな背中から目を逸らして、ぽつりと声を投げた。
かつては言えなかった台詞。今でこそ口にできたけれども、向き合わずに放つ言葉の何と空虚なことか。
その頼りない声を受け止めた背中は、ぴくり、と小さく微動した。遠くで硝子が割れる音が聞こえたかのように錯覚した。
『……そうやって、先輩は逃げ続けるんですね』
そしてようやく、向日は振り向いた。酷く疲れた笑顔が、その貌に張り付いていた。
「む、向日……?」
しかし彼女の表情の何と歪であることか。今にも泣き出しそうな不安定さを露呈しているにもかかわらず、同時に病的な歓喜に打ち震えたかのような危うさを孕んでいる。
本当は笑いたいのに泣いているのか。
本当は泣きたいのに笑っているのか。
相反する二つの感情が綯い交ぜになっている印象。まるで別の意志が互いに拮抗しているかのような違和感。
『怖い、怖い、怖い、――他人が怖い』
紡がれた声音に、亜莉子ははっと息を呑む。
『言葉が通じない、自分とは違う他人。それはまるで人の皮を被った怪物」
放たれる言葉の刃が、容赦なく亜莉子の胸を抉ってゆく。
『だから逃げ出す。対話しない。――理解することを諦める』
「やめて……やめてよ……」
ガイジン、という響きが耳の奥で谺する。悪意を唄う混声が不協和音を奏でる。
『違う、違う、違う、――他人とは違う』
瞳の色が違う、髪の色が違う、肌の色が違う。――違うことは、悪いことだ。
閉まっていた蓋が開く。忘れていた痛みが甦る。
「お願い! もう止めて!!」
耳を塞ぎながら蹲る亜莉子。しかし彼女の嘆願が聞き入られることはなく、向日は芝居がかった仕草と共に、高らかに謳い上げる。
『だから、あなたは逃げ続ける。
知ろうとする努力を放棄する。
知ることの喜びを捨て、知らないことの安寧を選び取る。
――嗚呼、無知は罪なり』
そうだ。他人は怖いものだ。
言葉の通じない彼らを、どうして恐れずにいられよう。
瞳の色が違う、髪の色が違う、肌の色が違う。――違うことは、悪いことだ。
何を言っているのか、解らない。何ヲ言ッテイルノカ、解ラナイ。
彼ラガ何ヲ言ッテイルノカ解ラナイ。ダッテ彼ラニハ言葉ガ通ジナイカラ。
ダカラ彼ラヲ理解スル必要ハナイ。
「理解シナケレバ、コノ心ガ痛ムコトモナイノダカラ――」
――決定的な何かが崩れ落ちようとするその直前。
場違いな電子音が、意識の片隅に割り込んできた。
はっとして顔を上げた亜莉子は、いつの間にか手に握られていた携帯端末に目を落とす。
画面上では見覚えのないアプリが作動していた。赤い文字で警告のような表示が浮かび上がっている。
〝FIREWALL of Anti-Confession〟
同時に亜莉子は、画面の右上に表示されているアプリ名を見つけていた。
「……《魔法少女のすゝめ》?」
『なっ――!?』
彼女の呟きを聞き咎めたのか、向日が明確な険相を浮かべた。
眼光の鋭い睥睨には亜莉子もまた息を呑まされつつも、同時に確信する。
これは向日葵ではないと。彼女はこのような顔をしない。
であればこれは、彼女を騙る全く別の何物か。
『そうですか、先輩はもう〝魔法少女〟だったんですか』
剣呑極まりない凶相とは裏腹に、紡がれる声は冷たさを覚えるほどに平静。
『だったら尚更――』
にぃ、と兇暴な笑みに歪む少女の貌。
『あなたを手に入れたくなってしまったじゃありませんか』
――瞬間、向日葵の姿を中心に暴風が吹き荒れた。
「きゃあ!!」
風の不意打ちに、為す術もなく亜莉子の体が突き飛ばされて、屋上の地面を転げ回る。
「な…に――、…ッ!?」
背中を打った痛みも忘れて、慌てて起き上がる。それほどに、眼前に繰り広げられる光景は異常事態に他ならなかった。
風景が塗り替えられてゆく。
さながら現実という画布の上に絵の具を塗り重ねていくかのよう。面影も余韻も無く、最初からそうであったかのように世界が在り方を変えてゆく。
――途端、がつんと殴られたかのような衝撃が頭を襲う。脳裏の内側から膨れ上がるそれは、膨大な情報の奔流だ。
現実を侵蝕する異相の世界。
空間を塗り潰してゆく画材は流出する心象。
咒の居城として築かれんとする魔界――その名も《咒界》。
(……レウ? シェオル? もう訳解んない! 何なのよ、これは)
混乱に頭を振りつつも、亜莉子は変幻した周囲を見回した。
それは異様な空間であった。
言うなれば天と地の区別が存在していない。空は地上に墜ち、地上は空に浮かぶ。
亜莉子とて自分が地上に立っているのか、空に浮かんでいるのか、その区別が付いていない。だがその破綻した条理を矛盾させんとする意志の存在もまた、感じ取られる。
『るうううううおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――……っ!!』
産声の雄叫びを上げるのは、大剣を携えた鎧武者の女巨人。
雷鳴の如き叫声に、今度こそ亜莉子は日常が崩落してゆく音を聴いた――。
かつて屋上には、元より彼女たち二人だけであった。
であれば、それが変幻した舞台に招かれる演者もまた同じ二人であろう。
「…む、向日…なの……?」
亜莉子の視界を占めるのは、巌のような体躯を誇る巨人。掠れた声で問う彼女に、むろん応えなど返るはずもなく。
――それは見上げるような巨躯であった。
まさに巨人と形容するに相応しき、幻想世界の住人。大の大人が三人ほど縦に並べば、その高さに届くだろうか。
しかし並外れているのはその巨体だけではない。その手には巨大な刀を携え、その身には巨大な甲冑を鎧う。
そして面頬の向こうに覗く般若の如き鬼貌が――赫々と輝く紅の双眸が、亜莉子をじっと見据えていた。。
『届カナイ。届カナイ。太陽ニハ届カナイ――』
巨人の刀が上段の構えに振り上げられて。
『……ナラバ撃チ落トセぇっ!』
轟ッ、と巨刀が振り下ろされる。
見開かれた眼が、為す術もなく兇器の到来を予見する。避けられない――思考するよりもなお早く、直感がそれを悟る。
――が、その直感が刹那ほど早く上回られた〝直前〟の瞬間。
亜莉子の体内を、稲妻が駆け抜けていた。それに呼応して、体内から迸った閃光が少女の身体を突き動かす。
「……っ!?」
着弾の衝撃を、弾かれた空気の重さにて理解する。巨刃が少女の矮躯を捉えることはなく、少女もまた巨人の間合いから外れた位置に着地していた。
(な、何が……?)
理解が追い着くよりも早く、再び巨刀が翻る。前段よりも先鋭な、袈裟斬りの一閃。
認識の外から繰り出される圧倒的な剣速。それを更に上回るのは、亜莉子の無意識をも凌ぐ人外の反応速度。
溢れ出た雷光に鎧われると共に、亜莉子の身体は剣戟の結界から離脱する。
巨人が刀を揮えば、超人的な躍動が亜莉子を突き動かす。ひたすらにそれが繰り返される。
そうして、閃く剣戟が十三合を数えようとする頃。
亜莉子の身を守り続けていた諸刃の剣は、しかし今度は彼女へと向けて牙を剥いた。
身体が砕け散らんばかりの激痛が襲来し、思考の淵に沈んでいた意識は、強制的に現実へと引き戻されてしまう。
――ばかりか、巨刃が掠りもしなかった肉体には、代わりに内側から破綻が訪れようとしていた。
「―――――ぐぇ…げふぉっ!?」
全身の筋肉が絶叫し、掻き回された臓器が悲鳴を上げる。喉の奥から込み上げてきた酸味と苦味は、胃液のみならず大量の血液をも吐き出させた痛み。
無理な運動を強いられたことによる過負荷の反動だ。
「……ぐふっ…けほっ…、……」
軽く咳き込んだだけで血飛沫が舞い、肺からして焼け落ちるような激痛が走る。
そして同時に、胸の深奥で熱く鼓動する鼓動する暴威の気配を実感する。
――此処に至ってようやく、身体を突き動かす意志の存在を理解する。
聖遺物だ。
体内で聖遺物が――その魔力が荒れ狂っている。手綱の締められていない暴れ馬が、己れの防衛本能の赴くままに激走を続けている。
「……ぐェふ…っ…――」
既に亜莉子に自らの身体を動かせるだけの体力はない。続く十四、十五合目の剣閃を凌いだのは、宿主の体調を慮らずに暴走する聖遺物の意志。言うなれば今の亜莉子は、ブレーキの壊れた自動車に延々と加速を続けるエンジンを積んでいる状態にも等しい。エンジンが止まるのは、それが動かすべき車体が壊れた後だ。亜莉子の肉体が完全に崩壊するまで、この暴走状態は続くだろう。
しかし朦朧とする亜莉子の意識では、迫り来る自滅の危機を理解できるはずもなかった。ただ暴走する聖遺物に痛覚の麻痺した肉体を預けたまま、摩耗する精神と共に次々と感覚を遮断してゆく。
――否、彼女の意識こそ理解力を手放そうとしているが、無意識下の直感だけは、女巨人の躍動を見つめていた。
(………あれ、は……――)
識っている。あの剣を、識っている。
振り上げる構えの高さも、軌道が僅かに逸れる悪癖も、――紛うことなく向日葵の太刀筋。
どれほどに見てくれが変わってしまおうとも、しかし揮われる剣だけは、亜莉子の大切な後輩であるという証を輝かせている。
ほら、見て下さいよ、先輩。あたし、こんなに強くなったんですよ。
それは害意ではない。悪意ではもっと有り得ない。ただ純粋な意志だ――追い着きたい、並び立ちたい、焦がれて止まないあの人の隣に。
慕情の極みは、しかし歪められて殺意へと堕ちた。
『届カナイ、届カナイっ、届カナイ――っ!』
解るとも、むろん解るとも。それが向日の真意ではないことは。
なぜならば、彼女の叫びは悲哀だからだ。その絶叫は憤怒ではない。憎悪ではもっと有り得ない。瞋恚であるはずがない。
『ドウシテモっ、―――届カナイ!!』
巨人が哭く。それは喪われた想いに対する、哀惜の咆吼。
『ナラバ撃チ落トス、引キズリ下ロス、撃チ落トスっ、引キズリ下ロスっ! 撃チ落トス!! 引キズリ下ロス――っ!!』
二度と戻れない。二度と還れない。ならばせめて、あなたと共にイきたい――呪詛に捻じ曲げられた向日の恋慕が、激しく耳朶を打つ。
(……っ!)
解ってしまう。どうしてか、解ってしまう。
言葉ガ通ジナイ。理解デキナイ。――そんな呪いに、ずっと縛られていると思っていたのに。
(……ううん、違う)
言葉が通じなかったのでも、理解できなかったのでもない。
ただ諦めていただけなのだ――理解することを、対話することを。
(ずっとずっと、わたしは逃げていたんだね)
奇しくもそれは、向日を騙る何物か――おそらくは咒――が指摘した事実。けれども今は、全く別の意味を持って、それを受け止められる。
言葉ガ通ジナイ――否、対話することを諦めていただけだ。
理解デキナイ――否、理解しようと努力していなかっただけだ。
それは紛うことなく、亜莉子の罪――《怠惰》の罪銘を刻まれる〈七つの大罪〉が一。
瞬間、亜莉子の脳裏を電撃が走り抜けた。
そうか、これか。
向日葵もまた、こうして堕ちたのか。強すぎる想いを、罪として吐き出さされて。
少女が溺れたのは恋――即ち《色欲》の罪銘を帯びる〈大罪〉。
『撃チ落トセっ! 引キズリ下ロセ――っ!!』
その歪められた悲痛な叫びに胸を打たれて――不意に、心の奥で火が灯った。
誰だ。一体誰だというのだ。
一途に自分を慕ってくれる大切な後輩を、こんなにも泣かせているのは。
彼女の尊い思いを、大罪などと踏み躙って穢した仇敵は。
二度と人間には戻れない呪いを刻み込んだ元兇は。
むろん答えなど得ようもない。
なぜ咒は生まれるのか――それを指し示す知識を、この聖遺物は持ち合わせていなかった。
(道を踏み外してしまったことは、きっとあなたの責任なんだと思う)
嗄れた喉の代わりに、心中から亜莉子は語りかける。
(咒の囁きに、あなたは抗えなかった。
抗えないほどに、あなたは弱かった)
亜莉子の声が聞こえているのか、それとも何か意図があるのか――巨人はつと、その動きを止めていた。
向日は言った――〝あなたと共にイきたい〟と。それは〝生〟であったのか〝逝〟であったのか。
だが、いずれでも構わない。掛ける言葉は同じだ。誇りを持って、向日を傷付けよう。
(わたしは、あなたのことが好きだよ)
ほんの僅かに――或いは錯覚であるかもしれないが――巨人の双眸が揺れたように見えた。邪気に濡れた紅い瞳の奥に、揺らめく澄んだ星を見つけた気がした。
(でも、あなたに恋をすることはできない。
わたしにも――追い着きたい人が、いるから)
もう迷いはない。今こそ認めよう――これは〝恋〟であると。
追い着きたいと願っている男がいる。けれどもそれは、彼のようになりたいからではない。
彼に振り向いて欲しいから。彼と並び立ちたいと願うから。――その直向きな渇望を、恋と呼ばずして何と呼ぼうか。
腕に力を込める。震える肩を叱咤して、落ちている身体をゆっくりと持ち上げる。痛覚など疾うの昔に麻痺しているのだ。全身が痛もうが、知ったことではない。
潰れた喉にも意志を通わせる。掠れる声に、明確な決意を込める。
「もう逃げない――私は強くなると決めたから」
取り戻す――この身体は自分のモノだ。他の誰にも自由にはさせない。
胸奥で反抗する意志を、漲らせた気力で封殺する。――跪け、誰が主だと思っているのだ。
今や慣れ親しみつつある胸奥の異物感を、敢えてはっきりと認識する。何も無くはない。確かに此処に有る。
それをはっきりと認識すると、亜莉子は巨人を見上げた。一直線に彼女の双眸を見据える。
「向日」
表層ではなく、その深奥へと贈る言葉。
「自分でも解ってるのかもしれないけれど、あなたはもう人には戻れない」
冷厳な事実を、大切な後輩へと告げる。胸に走る痛みなど、きっと気のせいだ。たかが安い同情で胸を痛めてやれるほど、この相手は安くない。
「あなたがそうなってしまった責任は、あなた自身。
けれども私自身に、何の原因も無いとまでは言わない」
責任と原因は履き違えない。要らぬ荷物を背負うつもりはないし、背負わせるつもりもない。
「だから――私が責任を持って、あなたを殺す」
碧い瞳の奥に沸き起こる戦意。
向日の想いに応えられなかったことに、責任は持てない。亜莉子だけでなく、誰しもがそうだ。恋していない相手に、恋していると告げる方がよほど無責任だ。
けれども、別の意味で亜莉子は責任を負うことを選択する。
それは魔法少女として――そうなることを受け容れた者として、負うべき責務。咒を斃すことが魔法少女の宿命とあらば、向日だけは、亜莉子の手で斃す。他の誰にも、彼女を傷付けさせることは認めない。
にやり、と亜莉子は凄絶に微笑する。
「最初で最後の真剣試合よ、向日。残念だけど審判はいないから、とりあえず生き残った方が勝ちってことでね」
その言葉を合図としたかのように、動きを止めていた巨人が、再び巨刀を構え直す。
上段の構え。その握り方も、開いた足の幅も、向日は忠実に彼女の教えを守っていた。
向日の巨躯と亜莉子の矮躯では、明らかに向日の方が有利であろう。しかし向日はその巨大さゆえに、相対的に的を小さくしてしまっている。ましてや雷速で疾駆する俊足だ。それを捉えることは、飛び回る蝿を箸で摘むほどに難しくもあるだろう。
『るああああぁぁぁぁぁぁ――っ!』
裂帛の気合いと共に振り下ろされる巨刃。
その剣閃を見切った思考速度を超えた領域からの提言に、無意識ながらも、しかし亜莉子自身の意志がそれを了承する。
雷光と共に側方へと跳躍する少女。疾うの昔にその肉体は限界を迎えているにもかかわらず、溢れ出る戦意が倒れることを許さない。
天と地に区別がないこの空間。であれば地を駆けることと空を翔ることに何の違いがあろうか。
少女の跳躍は斬撃の軌道上から逃れるだけに留まらず、空に墜ちる地を蹴る。狙うは左の肩口。紫電を纏う拳を勢い良く叩き付ける。
「……っ!?」
甲冑を打ち貫く確かな手応え。だが同時に、その向こうに待っていた厚い筋肉の壁に押し返される。瞬時に切り替えた防御体勢が間に合わなければ、お返しとばかりに打ち込まれた肘鉄に全身の骨を砕かれていたことだろう。
着地したまま姿勢を整える暇もなく、剣影が亜莉子の頭上から落ちる。咄嗟に横に転がって回避するが、剣圧が吹き荒ばせる颶風の打撃を喰らう。
全身打撲に悶えるのも束の間、脳内で沸騰するアドレナリンに任せて痛覚を忘れ去る。
身体中が熱いが、反比例するように頭は冷めてゆく。
(…………)
違う、という確信めいた囁きの幻聴。
これは聖遺物を御する者の振る舞いではない。締められた手綱を信頼しなければ、その不安が暴れ馬にも伝播する。
(言葉は通じる。理解もできる。――私は、私の聖遺物を信頼するっ!)
それは利害の一致から始まる関係に過ぎないだろう。
聖遺物の御者が魔法少女であるならば、魔法少女の宿命が咒を討つことであるのは、討ち取った咒の魂を聖遺物に喰わせるためだ。
魔法少女は咒を討つために聖遺物を執る。
聖遺物は咒の魂を喰らうために魔法少女に力を貸す。
単純な理屈だ。だからこそ裏切りようもない。――充分に、信頼に値する。
だからこの身を聖遺物に委ねよう。御者ですらなかった彼女の身を、聖遺物が守り通したように。
しかし御者は腐っても御者だ。聖遺物を身に委ねさせなければならない。主従の在り方は覆してはならない絶対原則。
人馬一体――この身は聖遺物に等しく、聖遺物はこの身に等しく。
するとどうだろう、視界が開けてくる。聴覚が拡大する。嗅覚が、触覚が、果ては味覚までもがその知覚範囲を更に上回らせてゆく。
(これが……聖遺物の視ている世界)
成る程、人の身では決して辿り着けない領域だ。亜莉子の身を抉ろうとする逆袈裟の斬影を、はっきりとこの眼で見て取ることができる。
そして、まるで後ろにも眼が付いているかのようだ。迫っていた地平線上を蹴って、その勢いのままに放った跳び蹴りが籠手に大穴を開ける。今度ばかりは、巨人もほんの一瞬だけ怯んだ。その隙を突いて突き刺さった足を引き抜き、腹を掠めた追撃に産毛が逆立ちながらも九死一生を得る。
『ドウシテモ……届カルナイ!!』
爛々と燃える紅の双眸が、瞋恚に輝きを強くする。途端、その周囲を覆い包む霊圧が重みを増した。
「……ぐッ!?」
触れられてもいないのに、全身が万力で押し潰されそうになる重圧感。
『亜莉子……亜莉子ッ、亜莉子――ッ!!』
元は亜莉子と並び立つことを渇望して堕ちた咒だ。彼女と対峙することでパラメータを増幅させるような特性でも帯びているのかもしれない。
何とも相性の悪い相手だ、と亜莉子は微苦笑を滲ませる。これほどに人から好かれてしまうのも、ある意味では困ったものだと場違いにも失笑する。
しかし暢気に笑ってなどいられないということが、率直な状況判断の結果だ。
元より、決定打に欠けているのだ。
殴れば、蹴れば、その威力を咒に及ぼすことができる。しかし、それだけでしかない。攻撃が通用するというだけで、到底、この強敵を打ち斃すには程遠い。
手数を重ねれば或いはということもあるだろうが、しかし持久戦に陥ればどちらが不利であるのかは一目瞭然だ。既に亜莉子の身体は、満身創痍という言葉すら生温い。今は自身の気力と聖遺物の魔力によって無理遣り動かしているが、限界を迎えてしまうこともそう遠くはないだろう。よしんば咒を斃せたとしても、亜莉子もまた頽れる相討ちという結末になってしまいかねない。
(どうすれば――?)
繰り出される剣撃に、体力を温存しようと最低限の動作で回避する亜莉子。時には剣圧の巻き起こす暴風すらも利用して、その身を巨人の間合いから遠ざけてゆく。
(何が足りないの……どうすれば闘えるの?)
――と、つと胸奥で聖遺物が鼓動した。
打つ手に窮した主を見かねたのか、殊更にその存在を強調する。
「……聖遺物? ……―――――っ!!」
そうか、とようやく得心がいった。
体内で荒れ狂うこの暴威は、聖遺物なのだ。無形の概念ではなく、有形の器物であるのだ。
ならばその本領は、在るべき姿であってこそ発揮されるもの。
「……すぅ……、……はぁ――」
深呼吸と共に、強い確信に沸く興奮を抑え込む。
まずは瞼を閉じた。――視覚が閉ざされる。
次いで耳を塞ぐ。――聴覚が閉ざされる。
そして嗅覚を、味覚を、触覚を――巨人の重圧を間近に感じ取りながらも、ありとあらゆる外界への感覚を閉ざして内界へと意識を集中させる。
それを探り出す方法は自然と体得している――胸奥で鼓動するイメージを伝手にして、身体の内側へと潜り込めばいい。
荒れ狂う暴威に、確かな形容を与える。剣は剣に、杯は杯に、盤は盤に、杖は杖に――さあ、在るべき姿を示し現せ。
(…………)
――それは強大な暴威だ。思えば不思議な在り方だとは思う。
信仰の質が好ければ、聖遺物は穏やかな性状を帯びる。反対に質が悪ければ、荒々しい剣呑さを振り撒くようになる。
その点において、この聖遺物は両極の特性を有している。当初こそ暴れ馬のように手が付けられなかったが、主従を明確にした途端、調教された軍馬のように主の意によく応える。
この特異な在り方に、しかし亜莉子は慣れ親しんだ概念を幻視する。
(――武器)
敵軍からは忌み嫌われ、自軍からは深い信頼を寄せられる、その両極端である在り方。
亜莉子がその手にたこを作るほどに振り続けていた竹刀もまた、広くは〝武器〟の一種である。日本刀を模倣した、人を殺めない〝力〟の象徴。
〝暴力〟ではない。〝力〟だ。
傷付けるだけでなく、守るためにも揮うことができるもの。その匙加減は使い手の意志次第だという、自らの使命を選べない絶対の従者。
ならば亜莉子は誓おう。
(私はあなたを、――大切なものを守るためだけに揮う)
それは同時に、魔法少女の在り方としても志す誓い。
たった今守るべきは、彼女の大切な後輩の尊厳。
魔法少女として、彼女は咒を討つ。
しかし八神亜莉子として、彼女は向日葵を討つ。
他ならぬ亜莉子だからこそ、向日を人として終わらせることができる。その死に様を、人として見届ける覚悟がある。
(――……視えた)
ありがとう、と頭を垂れる。
込められた信仰を、亜莉子に預けてくれたことに。
(武器――これは剣、西洋の刀剣か。日本刀じゃないのが少し残念だけれど――、……っ!?)
魂に刻み込まれるその威名は、あまりにも勇猛にして凄烈なる伝説の具現。海を越えてその武勇伝を轟かせる至上の雷名。
思えばこの聖遺物を亜莉子に埋め込んだのはヴェストリーの仕業であったが、彼女もまた随分な業物を寄越してくれたものだ。
胸の奥――魂の深奥で見つけた確かな感触。その手応えと共に亜莉子は、かっと刮目する。
微動だにしなかった亜莉子の頭上、万全の体勢から繰り出される巨刃の一閃。
逃れ得ぬ死の襲来をはっきりと自覚しながら。
――亜莉子はその懐から、携帯端末を取り出していた。
「魔を導く使徒は宣告する
其は叛逆の御業、我はまつろわぬ神の死を請い願う
――Mihi vindicta, ego retribuam.」
それは定められた祝詞。
御者に謳い上げられることによって、馬に締められる手綱はその真価を露わにする。
手綱の名を――〝テスタメント〟。化外の理を操らんとする、叛逆の秘法。
振り下ろされた巨刃は、しかし少女の命を奪うことはなかった。
巨刃は停まっていた。――否、食い止められていたのだ。
刃を毀れさせられた巨刀を受け止めたのは、雷光を纏う白銀の聖剣。
聖剣を執る少女の装束もまた白銀。ノースリーブの上衣には軽装の胸甲を鎧い、下衣はミニスカートとニーソックス、そしてブーツという取り合わせ。
それは戦士にあるまじき盛装とも写りかねない、異形の戦装束。
然れど少女の纏う神気の何たる荘厳さか。
たかが常人如きの次元で、擬神の有り様を語るな――ただ存在するだけで振り撒かれる圧倒的な神威が、その隔絶を何よりも雄弁に物語る。
これが少女か。これが齢十五年ほどしか数えぬ人間の至れる境地か。
然もありなん――八神亜莉子は、既に非力な少女にではなかった。
それは聖遺物を武装化する化外の術理〝テスタメント〟を操る少女に他ならぬ。
大アルカナ第十九位――《太陽》の銘を持つ魔法少女。
此処にまた一人、神を殺す叛徒が誕生したのだった。
「ごめんね、向日」
身に帯びる剣呑な気配とは裏腹に、亜莉子の発する声は優しげだった。
「後輩相手だからって、お情けで勝ちを譲るわけにはいかないの」
なぜにヴェストリーがこの力を亜莉子に託したのか、まだ彼女には解らない。
ただ唯一はっきりとしていることは、咒を打ち斃すという魔法少女の宿命に、亜莉子もまた異存はないということ。
「あなたは私の、初めての宿敵。
でもあなたを殺せるのが私で、本当に良かったと思う。
だってあなたは――私の、大切な後輩なんだから」
だから誰にも譲らない.誰にも譲らせない。
向日葵を殺す――その事実を誰よりも重く受け止められるのは、八神亜莉子ただ一人なのだから。
剣を掲げて巨刀を食い止めた体勢のまま、亜莉子は体内を駆け巡る魔力を放出する。
――轟ッ、と重大な鋼が弾け飛ぶ。
無形の魔力が白銀の雷刃へと姿を変えて、巨人の得物を粉々に撃ち砕いたのだ。
予想だにしていなかったのだろう攻撃に戦く巨人の前に、亜莉子は高らかに跳躍する。
「行くよ――《エクスカリバー》っ!」
生まれたての魔法少女は、何処か誇らしげな様子で、与えられた得物の名を呼ぶ。
そして脳裏を走り抜ける勝利の凱歌を、大切な後輩への鎮魂歌としても謳い上げる。
「Certa mittimus dum incerta petimus.」
鳴り響く雷鳴。弾ける雷光。白銀の光条が、鎧武者の巨躯を垂直に斬り下ろす。
それはただ神威を打ち下ろすに過ぎないという未熟な技芸ではあったけれども。
光が喪われようとする紅い瞳は、心なしか穏やかに微笑っていたように見えた。
◇ ◇ ◇
朱い空が、少女を見下ろしていた。
隔てられた天と地は、まるで永遠に寄り添えない恋人たちのように思えて。
――そして、自分が現実世界に帰還したのだということを理解できた。
いつから屋上の地面に寝転がっているのかは覚えていない。けれども何となく、まだ起き上がる気にはなれなかった。
全身がさぞや満身創痍となっていることだろう――と思いきや、軽く視線を這わせた限りでは、掠り傷一つ見当たらなかった。
(……そういえば)
ふと思い出すのは、魔法少女とやらへ変身するその瞬間。まるで身体が内側から作り替えられるような感触を覚えたが、どういう理屈か、その時に併せて傷も治癒されたようだ。
そして亜莉子は、いつの間に取り出していたのか、手にしていた携帯端末を顔の前へと持ってくる。
起動中になっていたのは、携帯アプリ《魔法少女のすゝめ》。
今は待機状態であるのか、一枚の絵が画面に表示されている。
金色に輝く太陽と、意匠のように添えられた〝№XIX〟という序数。
どうやらこのアプリを使わなければ魔法少女への変身はできないらしく、つまりは携帯を忘れたり紛失しただけで魔法少女としての権能が殆ど封じられてしまうということだ。
高度情報化社会も、此処まで来ると天晴れといった感じである。
そう考えて少し気分が和んだところで、――亜莉子は覚悟を決めて起き上がった。
屋上を夕風が吹き抜ける。
肌寒さを覚えるそよ風が靡かせたのは、亜莉子の金髪と、亜莉子の制服。そして、一筋の涙。
――向日葵の姿は、何処にも存在していなかった。
これが末路なのだ。咒に堕ちてしまった者は、二度と人間には戻れない。そして人間ではないから、人として死体を遺すこともまた無い。
彼女は想いは尊かった。少なくとも、罪と謗られるようなことはなかったはずだ。
たとえそれが、実りのない恋であったとしても、禁じられた恋であったとしても。
溺れるほどの恋をした少女の在り方を、決して亜莉子は否定しない。
(大丈夫……忘れないよ)
瞼を閉じて、胸に手を当てれば――そこに聖遺物の存在を感じる。そして喰らわれた魂の温もりも。
――向日葵の魂は、確かに此処に在った。
彼女の想いに応えることはできないけれども、その魂と共に生きていくことはできる。
そしてそれは亜莉子と共に闘争の旅路を征くということを意味するけれども。
(願わくば、日頃は安らかな眠りが訪れますように――)
前話では「あと1話で序章は終わる」と発言しましたが……実はまだ、もう1話あります^^;
プロット上では1話分にまとめられていたのですが、いざ書いてみると、ちょっと分割しないといけない長さになっちゃいまして……。
とりあえず根気強く付き合ってくださる方々にはこの場に代えてお礼を言わせて貰います!