第1話 始まる前の、始まり
夕陽に染められた教室の中に、彼女の姿はあった。
何処か物憂げな表情で沈み行く太陽を見つめる、金髪碧眼の少女。僅かに開いた窓から吹き込む風が、彼女のポニーテールを柔らかく靡かせる。
誰よりも憧れる――それこそ心底から恋い焦がれる大切な先輩の佇みは、まるで絵画から飛び出してきたかのように美しい情景を演出していた
彼女の名は、八神亜莉子。生まれも育ちも国籍も日本であるが、その血統は英国からの流れを汲んでいるらしい。
――と、亜莉子がこちらに気付く。
約束通り亜莉子はきちんと待っていてくれた。その事実だけでも、どうしようもなく胸が弾んでしまう。
お膳立ては整えられた。
後は勝負に出るだけだ。小細工は必要ない。真正面から、一本を取りに行く。
膨れ上がる緊張が臨界を迎えた時――、好きです、という言葉は自然に零れた。先輩のことが誰よりも好きなんです、と。
震える心と共に、しかし打ち明けることができた思いの丈。恥ずかし過ぎて死にたくなる気分だが、此処で逃げてしまっては答えを聞くことができない。逃げ出さなかったことが、残された最後の勇気の結晶だった。
思いの丈を打ち明けられた亜莉子は、一瞬だけ驚いた顔をした。
驚いた顔をして、そして――困ったように笑った。
この恋は実らない。それが解ってしまった瞬間だった。
† † †
――ぶっちゃけ、未だ心臓は早鐘を打ち続けていた。
「うわぁ……告白されちゃってたよ、わたし……」
予想外に思われることかもしれないが、その美貌から受ける印象に反して、八神亜莉子は恋愛に対する免疫が弱い。
おそらくは金髪碧眼という西洋的な雰囲気が、知らずと相手に壁を築かせてしまっているのだろう。小学生の頃はよく〝ガイジン〟と囃し立てられたもので、要するに浮いていた。精神的な成熟に伴って目に見えるような差別は減っていったものだが、ようやく三年間が終わろうとしている中学校生活においても、初対面の相手に物珍しい目で見られてしまうことは少なくなかった。
ましてや、告白をされることなど論外である。
「……はぁ」
「なに黄昏れてんだ? アリコ」
昇降口で靴を履き替えていると、古くからの渾名を呼び掛けられた。
振り向くと、やはり予想通りの顔が待ち受けている。今となっては、この名で彼女を呼ぶ者は彼しか残っていない。
「あー、レントン」
気の置けない相手であるだけに、亜莉子の応えはぞんざいだった。
「どうしたんだよ、面白い顔して」
そう言って人好きのする笑顔を浮かべた少年は、馳川蓮人。思えば物心が付いた頃からの付き合いだ。
だから自然と、打ち合わせもなく一緒に帰る流れになってしまっている。むしろ今は、このこなれた日常の気配が心地良かった。
「面白い顔言うな。別に……何でもないわよ」
「何でもないってことは無いね。オレがどんだけアリコの顔を見慣れてると思ってんのさ」
夕陽に染められていようとも、やはり赤くなった顔は誤魔化しきれないらしい。こういうところには目聡くて、本当に頼りになる友人だ。
「甚だ不本意な台詞だわ。あなたなんて、幼馴染じゃなくて腐れ縁よ。腐れ縁で充分よ」
「そりゃ光栄」
大して気にした様子もなく蓮人は笑う。
「で、告白されて断ってきた、って感じでオーケイ?」
「……オーケイ。剣道部の後輩に、ちょっとね」
ふぅん、と蓮人は頷きつつも笑う。ようやくアリコにも春が来たんだねぇ、と。
その幼子を見守るような表情が、どうにも釈然としない。しかし悔しいながらも、彼女の横を歩く少年はそれなりにモテるのだ。現実とはかくにも不愉快なものである。
「てゆうかさ、何で断ったこと前提になってるの?」
「付き合うんなら、もっと嬉しそうな顔してるはずだろ。それに――」
不意に少年の目元が引き締まる。今までの軟派な様子とは打って変わった真剣な表情だ。
「オレが思うに、アリコの好きな人は――」
「う…ううう、煩い! 何も言うな! ワタシ日本語解リマセーン!」
「いや、アリコ、日本人じゃん」
「渾身のギャグよ! いつか使おうと思ってたの!」
これは密かな本音だったりする。
しかし蓮人はというと、引きつった笑顔を浮かべるばかりだった。
「……いや、ウケないよ。むしろ胸が痛くなるよ」
「麗しい友情をどうもありがとう」
返す言葉は棒読みになった。そうか、滑ったか――真実はいつも残酷だ。
亜莉子の漏らした嘆息に、だが蓮人のそれもまた重なった。
「いつか区切りは、付けないといけないと思うんだよ」
「…………」
その言葉が先ほどの話の続きだと解らないほどに亜莉子とて鈍くない。
彼は彼女の無二の友人として、彼女を緩やかに詰っていた――彼女は過去に囚われていると。
「別に悪いとまでは言わないさ。あいつの帰りを待ってるのは、オレだって同じだ。
だけど――だからって〝現在〟を犠牲にする生き方はよくないと思う」
「解ってる……わたしだって、そんなつもりは無いわよ。
今はただ、他に見つけられないだけ――彼を待つよりも、素敵な夢が」
路上を朱く染める太陽の断末魔。
それが血の色に見えてしまうのは、趣味の悪い小説の読み過ぎだろうか。
◇ ◇ ◇
亜莉子たちはかつて、二人ではなく三人だった。彼女と彼と、もう一人の少年――それが彼らの思い描く〝幼馴染〟の姿。
その少年と最後に言葉を交わしたのは、小学六年生の夏だったか。彼は大陸方面に家族旅行に赴いて――そして、消息を絶った。
何らかの事故に巻き込まれたと聞いている。
事故の詳しい内容もその原因も、どういった事情があるのか亜莉子たちには明かされていない。しかしそれは彼女たちにとっては些末な問題に過ぎなかった。重大なのは、少年とその家族の安否だ。
――結果として、少年の生存は確認された。
けれども素直に喜べない事情もまた、同時に明らかにされていた。
少年の家族は――彼の父、母、姉は帰らぬ人となっていたのだ。思えばこれが、亜莉子たちとって最初に身近にした人の死だった。
だがこれは悩みの種に過ぎず、更なる謎が芽吹いたのは間もなくのことだった。
確かに彼らの幼馴染が生きていることは確認されていた。
彼は確かに生きているのだが、しかしどうしたことなのか、それ以後の音沙汰が皆無なのだ。
生きているのに、なぜ連絡を寄越さないのか。或いは連絡を寄越せない特殊な事情でもあるのか。
とはいえ、何を推察したところで想像の域を出ない。
無力な少年たちに残された手段は、ただ帰らぬ人を待ち続けることばかりだった。
いつか彼が帰ってきたその時――「お帰り」と言うために、「ただいま」と言わせるために。
◇ ◇ ◇
蓮人と別れた後、亜莉子は自宅には直帰せずに、近所の公園へと足を伸ばしていた。三人で数多くの時間を共に過ごした、想い出の場所だ。
特に用もないのに立ち寄ったのは、蓮人と交わした会話の中で不意に懐かしさを覚えたからだ。普段は余計なことを考えてしまうのであまり立ち寄りたがらないのだが、どうしてか今日は素直に来たいと思うことができた。愛の告白をされたという非日常が、程良く亜莉子の心持ちを狂わせてくれたのだろうか。
「懐かしい……か」
その言葉は胸を暖かくさせてくれる一方で、かの少年の存在をより遠くさせてしまうようで不安にもさせられる。
今となっては随分と視界が低くなってしまったブランコに腰掛けながら、闇の中に浮かび上がる公園の姿を眺める。
昼間の喧噪から解き放たれた夜の静寂は、まるで聖域のような厳粛さを公園に演出していた。
かつては亜莉子たちが冠を頂いていたこの王国――はてさて今上の王座は誰のものであるのやら。
しかし昼間の王国ならばいざ知らず、月に見下ろされるこの夜の王国には、その玉座に君臨する者の姿は無い。
――無かった、はずだった。
嵐の到来を、しかし少女は予見できなかった。
生気に満ち溢れた昼間を統治するのは明君であるが、死気を滲み出させる夜を支配するのは暴君だ。
そう――それは暴虐の化身と呼ぶに相応しき、絶対の悪夢だった。
「やはっ! 見ィつけた~♪」
鈴を転がしたような、軽やかな声が響き渡る。
はっとして亜莉子が顔を上げると、いつからその場所にいたのか、一人の少女が公園の中央に降り立っていた。
美しい娘だ、と目を瞠る。亜莉子よりもやや年の若い、痩身矮躯の少女。
腰丈まで届く髪は、月光を溶かし込んだかのような蒼銀。
吊り上がった大きな切れ長の瞳は、鉛の弾丸を思わせるような鈍色。
美しくはあるが――それは硝子細工のような繊細さと冷厳さを纏ってもいた。
「ねぇ、そこのキサマ――」
否、という言葉に亜莉子の脳裏が埋め尽くされる。
これは硝子細工などと綺麗なものではない。硝子細工ほどに生易しい冷たさではない。
語弊を覚悟して、敢えて断言しよう――これは人の心が解らない鋼色の獣だ。
「アリス、に間違いねえわよね?」
逃げろ、と本能が雄叫びを上げる。
関わってはならない。関わってはならない。関わってはならない。
脆弱な人の身が、鋼に鎧われた獣を打ち殺すことなど絶対に叶わない。
「……っ…」
しかし緊張に強張った筋肉は、亜莉子の意志に反して体をその場に縫い止める。
なぜ動こうとしないのか。体が脳の命令を聞かない。本当に動かないのか。これは動けないということの間違いではないのか。
声を上げたい。喉の奥からの迸ろうとする絶叫を解き放ちたい。声を上げれば、筋肉が弛緩して硬直も解けるはずだから。
少女の声なき暗闘を余所に、獣は苛立った様子で秀眉を顰める。無言の彫像と化する亜莉子を、唾を吐きかけながら睨め付ける。
「〝はい〟か〝いいえ〟か、はっきりと答えなさいよ。
……ああ、成る程、動けなくしちゃってるのか」
その言葉と共に、どういう理屈なのか、全身を戒める金縛りが解けた。
瞬間、弾かれたように亜莉子は駆け出す。現状から最速で離脱せよ、と本能が命じるままに。或いは更に深奥――魂が導くままに。
けれども、有り得ないことが起きた。
「どこ行くのよ、ボケ」
ゆらりとした――余裕すらも感じさせる態度で、獣の姫君が視界に割り込んでくる。そして無造作に繰り出された拳が、亜莉子の鳩尾を抉った。
体の自由が利かない浮遊感を覚えたのも束の間、正面と背後、怪物じみた膂力で発せられた拳撃と地面に落下した衝撃とが一斉に襲いかかってくる。
「っ…ぅ!?」
そして呻く間も与えられずに、胸元を踏みつけられる。
その子供じみた痩身矮躯の何処から、これほどの脚力を繰り出しているのか。
少女は亜莉子の重心を押さえるのではなく、込める力の重さだけで彼女を地面に縫い付けていた。
ぎちぎちと鳴る胸元は、肋骨に罅を入れられている音か。
「……で、キサマはアリスなの? あ、これ質問じゃなくて確認ね。嘘吐くと許さねえよ?」
薔薇のような紅唇から吐き出される呪詛は、不快なほどに玲瓏な響きで謳われていた。
押し込まれた足の強さに、ごほっと亜莉子は咳き込んだ。口の周りが、吐き出された鮮血に彩られる。
「とりあえずキサマは〝はい〟か〝いいえ〟を答えるだけでいいから。他には何も言わなくていいから」
しかし少女の発言も相当な暴言であった。胸元を抑え込む重石は肺をも圧迫し、亜莉子は声を出すどころか呼吸すらもままならない状態なのである。
それを知ってか知らずか、人の皮を被った獣はただ嗤う。苦しげに喘ぐ獲物の姿が心底愉快でならないと言わんばかりに。
「あー、もういいや。ワタシはこう見えて気が短ェのよ。だから待つのは、あと三秒だけよ」
ちなみに沈黙は肯定と見なすから、と言い置いて少女はカウントを開始する。
「トゥリー、ドゥヴァー、アヂーン、……ノーリ」
最後は興醒めしたかのような様子で言い終えると、ひょいと足を翻す。
飛来した爪先が顎を抉り、そのまま再び亜莉子の体を宙に浮かす。だが今度は浮遊感を覚える間もなく、蹴撃が腹を貫く。
「――――――ッ」
もはや悲鳴を上げる余裕すらもなく、嗄れた喉が啾々と哭いた。
銀髪の野獣は、まるでサッカーボールをそう扱うかのように、亜莉子を片足で蹴り上げると共に蹴り飛ばしたのだ。
停滞感すら覚え始めた脳裏にて、心底から思いが浮かび上がる――どれほど桁外れな脚力であるのかと。一体何が、この悉く常識を否定してくる魔技を可能とするのか。
しかし予想していた地面に叩き付けられる衝撃は訪れず、代わりに首に食い込む指の感触が出迎えてきた。
「へぇ、まだ死んでねえんだ。手加減はしたとはいえ、予想外に頑丈なのね、キサマ」
やべぇ、わくわくしてくるじゃねえか――耳元で囁かれる、嬉々とした悪魔の笑い声。くつくつと獣が喉の奥を鳴らす。
「キサマ……今までのアリスとは違ェよ。もしかして、今度こそ本物なの!?」
落下地点に先回りして亜莉子を受け止めたのだという事実には、もはや驚くほどでもなくなっていた。
自然、絶望が彼女の心の中を這いずり回り始める。
どう足掻いても逃れられない。必ずこの〝死〟は追いついてくる。――諦観が脳裏を埋め尽くしてゆく。
無明の闇が意識を呑み込もうとした、その瞬間。
「そこまでにするのです、第十五位」
声が染み渡った。
童女のように高らかで、淑女のように透き通って、老婆のように嗄れた、無欠なる女声。
声高に響かせるわけでもなく、怒声を轟かせるわけでもない。しかし一分の隙間すらも掻い潜って届く、逆らえぬ意志の発露。
どさり、という音がしたかと思えば、自分の体が地面に落ちていた。のろのろと視線を動かせば、最初に見えたのは獣の貌。たけなわに水を差されて、酷く不満げな様子だ。しかしあの獣姫が、大人しく爪牙を収めているという事実に今更ながら驚く。
そして獣が見据える先に焦点を合わせてみれば――獣をも上回る権威が、威風堂々と君臨していた。
しかしその姿は、獣姫よりもなお幼く、そして人形然とした佇まいであった。
計算されているかのように精緻過ぎる造作を、闇を凝り固めたかのような黒衣が覆う。それはさながら闇の化身でありつつ、闇よりもなおも奥深い深層からの稀人。
「何の真似よ、ヴェス」
「その娘は、我が主が捜し求めるアリスに他ならないのです。ゆえにこのヴェストリーめには、その娘を保護する義務があるのです」
「…………」
なおも不満げな様子を隠さない獣姫。獅子をも居竦ませそうな睥睨を、しかしヴェストリーと名乗る少女は涼しい顔で受け流す。
「譲らねえのね」
「譲らないのです」
それから数瞬ほど視線がぶつかり合ったかと思えば、鋼色の獣姫は纏う殺気を霧散させた。興醒めだ、と小さく吐き捨てる声が聞こえた。
「最後に一つだけ聞くわ。そいつが〝本物〟ってことは、この先、もっと強くなるってことか?」
「おそらくは。少なくとも資質は図抜けているのです」
ヴェストリーの物言いは傲りもしなければ遜りもしない。ただ事実を事実として伝えている――そのような雰囲気だ。
なら、と鋼色の獣は口端から犬歯を覗かせる。
「おい雌豚。キサマがよく肥えた頃に、また殺りに来てやるよ」
一方的に言い残して、彼女は踵を返した。汗と涙に歪んだ視界では、すぐにその姿を闇に紛れさせてしまった。
そして公園に残されたのは、亜莉子とヴェストリーの二人だった。
この黒衣の少女が敵意を抱いていないことだけは、何となく亜莉子にも理解できる。しかしそれ以上には、既に頭が回らなくなっていた。敵か味方か――解りやすく塗り分けられる世界の構図は、しかし獣の理屈ではないだろうかと、己れの物騒さを斟酌する余裕もなく。
その内心を悟ったのかヴェストリーは口を開いた。
「然もありなんことなのです。初めて遭遇する〝こちら側〟の人種として、アレはあまりにも規格外過ぎた」
ヴェストリーは横たわったままの亜莉子――もう体を持ち上げる気力も無い――の前に膝を突くと、小さく何事かを唱えた。
途端、体の中に流れ込んでくる何かを感覚する。しかしそれに不快な異物感は無く、むしろ羊水に抱かれているかのような安心感を与えてくる。
その柔らかな抱擁が過ぎ去っていった頃に、ヴェストリーが言った。
「これで一通り治せたのです。服は元より、体の方も一晩安静にしていれば何事もなかったかのように元通りになるのです」
「……え?」
ふと気付けば、口の中を満たしていた鉄の味は失せていた。慌てて起き上がってみれば、確かに制服も身体も傷はおろか泥の一滴すらも付いていない。そして遅れながらに、体が軽快に動いていることに気付く。
「あ、あなたは……?」
「ヴェストリーめはヴェストリーめなのです、――八神亜莉子」
不意に名前を呼ばれて、亜莉子ははっとする。
思えば銀髪の魔獣と黒衣の少女は、明らかに亜莉子を中心に置いた話をしていた。まるで彼女を、何かしらの事情に巻き込まんとばかりに。
身構える亜莉子に、人形然とした少女の仮面のような無表情が初めて形を歪ませる。
にぃ、と彼女は嗤った。
「八神亜莉子――あなたには、魔法少女になって貰いたいのです」
あらすじで興味を持ってこの小説を読んで下さった方、申し訳ありません。
サブタイトルの通りです。『始まる前の、始まり』です。
本編が開幕するまで、もう数話ばかりお待ち下さい<(_ _)>