104 トレイン
ライオンのような野生の猛獣は、満腹の時は獲物が近くにいても無視するものらしい。
かと思えば、キタキツネのように、地面に獲物を埋めて貯蓄したりする奴もいる。
俺の目の前に現れた弱い方の魔物が、どっちのタイプかは分からない。
分かるのは、野生の動物が本能のまま人に害をなしたりしない、と言うことだ。
特に人間は強い。人間との無駄な争いは、死にも直結する。動物も飢えてなければ人間と関わりたくない。
実は西洋で狼が家畜を襲うのは、放牧のせいで森の獲物が少なくなくなったせいでもあるという。
だったら、あいつらが俺を襲わない可能性だって、どこかにあるんじゃなかろうか。
そういう半端な知識に頼って、俺は目の前の類人猿もどきが俺を襲わない確率を計算してみた。
……いや、無理だって。絶対腹減ってるよ、こいつら。
気がつくと、見知らぬ魔物の影は樹氷のあちこちに現れていた。
ちょっとヤバい気がする。
だが、絶体絶命、というほどではない。
なぜなら、今の俺の手には飛竜のツメがある。
魔物との戦闘は未経験だが、この包囲網なら、ダッシュで逃げることも可能だろう。
襲われる前に、戦略的撤退だ。
あの数に襲われたら、とてもじゃないが生きていられる気がしない。
俺は、連中とは反対方向に飛竜のツメの先端を向け、雪原をダッシュした。
一目散だった。
あんなキモイ怪物なんて、触れるのもごめんだ。
類人猿もどきが、ぶっとい骨みたいな武器を空高く掲げた。
この世界はじめてだよ~って人?
などと言ったのかは分からない、唇を剥いて、牙をむき出しにして吠えまくる。
四つん這いになって駆けてくると、速い。めちゃくちゃ速い。
樹氷の林の中なら、地の利はこちらにある……気がする。
俺はなるべく連中の動きを阻害するため、樹氷の狭まっている場所を選んで通っていった。
しかし、類人猿もどきは樹氷に道を阻まれても、苦にすら感じずに追いすがってくる。
骨みたいな武器を横薙ぎに振り抜くと、樹氷が真っ二つに切れた。
切った。
どうやら、剣の心得まであるみたいだ。
1対1でやり合ったら俺は絶対に負けている。
ネトゲじゃマップ上で敵に追いかけられているときは、逃げに徹するのが肝心だ。
間違えないように、慎重に道を選んで行きさえすれば、大抵は追いつかれない。
林を抜けて、雪原に出た。
前方に100メートルほどの余裕があるのを見た俺は、ジャンプを使った。
【ジャンプ】
念じると、矢になって俺は飛んでいった。
両脚が雪山の天辺を削って、中の凍った岩みたいなものを露出させた。
岩じゃない、凍結したサイみたいな怪物の死骸だった。
振り向くと、類人猿の数は、いつの間にかとてつもない数にまで膨れあがっていた。
さらに別種の鼻が凍り付いた狼みたいなのまでついてきている。
鼻から氷柱が伸びて、一角獣みたいになっている。
一緒に俺を追ってきている所を見ると、猟犬みたいなもんなのか。
そのまま地下に通じる大穴の近くまでやってきたが、いや、待てと思いとどまる。
今の俺は完璧なトレインさんだ。
このまま地下に降りて行ったら、迷惑行為もいいところじゃないか。
焦らない、ネトゲ紳士は、焦らない。
あいつらをどこかで振り切ってから、もう一度ここに戻ってこよう。
相手もネトゲのモブじゃない、途中で疲れてしまえば、追跡を諦めるだろう。
ときおり気まぐれに風が強くなって、雪風に視界が遮られたりするが、俺のダッシュが切れることはない、焦る必要は無い。
ちくしょう、もう勇者クレゾールの捜索どころじゃなくなったな。
そう考えて、俺は地下への入り口の前を通過していった。
真っ白い雪原に、俺の革靴が2本の溝を掘っていく。
なるべく引きつけるために、ツメを上の方に傾け、少し速度を緩める。
猟犬と類人猿の群れは、俺が疲れたと見たか、さらに先を急ぐように俺を追いかけてくる。
勢いを増した連中を引き離すように、俺は再び全力ダッシュを再開した。
再び樹氷の林の中に入って、真っ直ぐに突き抜けると、猟犬と類人猿の群れは俺を諦めるどころか、他の小さなグループも合わさり、ますます数を膨らませていった。
凄まじい地響きが、背後から追いかけてくるのを聞きながら、俺はちらりと、5体のビヒーモスの影を見上げた。
こっちを見ている。
まずい。2000人規模には遠いかも知れないが、これだけ騒ぎが大きいと、さすがに気になり始めたか。
などと思ってひやひやしていた。
振り返ると、類人猿の群れは、樹氷の林を抜けてくる所だった。
俺はその中の1匹が、樹氷の枝を肩に担いで、投擲の構えを見せているのを見ていた。
あっ、こいつ、投げる。
そう頭で理解していながらも、俺の体はすぐに動かなかった。
正確無比なコントロールで、俺に迫ってきた樹氷の枝は、ごっという鈍い音を立てて俺の頭に直撃した。
俺はダッシュの勢いのまま、雪原を転がった。
5メートルほど、鮮血が点々と雪の上に模様を作っていった。
二転、三転して、上下が分からなくなったが、飛竜のツメを落とすようなヘマだけは、どうにかせずにすんだ。
何があってもコントローラを手放す事だけは出来ない。その事は、俺の手も本能で理解している。
しかし、膝が笑っている。後悔と不安がもつれ合って、背中を駆け巡る。
ライフゲージが全部真っ赤に染まって見える。
目に血が入っているのだ。周囲の状況を正確に確認する事すらままならない。
とにかく姿勢をなんとか整えて、同じ方向にダッシュし続けなければならなかった。
駆け寄ってくる獣の足音を聞きながら、ゆるゆると駆けだした俺の背中に、手がかけられた。
誰だ。
類人猿もどきの巨大な手じゃなかった。
小さな手が俺を抱えて、凄まじい速度で雪原を疾走した。
凍結したサイみたいな怪物の死骸を蹴って、再び洞窟の前にたどり着く。
「……手間かけさせてんじゃねぇよ、バカ野郎」
そいつは憎まれ口を叩いて、類人猿もどきの居る方に向かって駆けだしていった。
「勇者……」
俺は塞がった片目で、そいつの行方を追った。
けれど、その姿はもう見えなかった。直後に風が強くなって、雪が巻き上がっていた。
なにも見えない。
脱色したような金髪も、魔物の群れも、そこには見えない。
俺がトレインしてきた大量の魔物の群れを引きつけて、そいつは風のように去っていった。
……マジでか。
こんな所に、こんなタイミングで現れる勇者なんて、他に考えられなかった。
あいつしか考えられない。
俺は小さく震えて、肩で息をしていた。
俺に見えたのは、遠景のビヒーモスの大きく振り上げた片足が、地面にゆっくりと下ろされる所だった。
ズシャァァァン
足踏みの音が、虚空に広がって、ここまで聞こえてきた。
周囲に破壊の波紋が広がっていく。
雪の壁が立ち上がり、樹氷や類人猿もどきを空高く吹き上げていくのが見えた。
ぞっとするような光景だった。
俺は立ち上がると、すぐさま真上に向かってジャンプした。
ビヒーモスの衝撃波の仕組みは、地下と変わらない、岩山に遮られていない限り、どこまでも広がってゆくはずだった。
雪崩のような物が凍てついたサイを覆い隠し、破壊の波が雪を空高く吹き上げた。
50メートル近くまで吹き上がってくる波を跳び越えると、そこには類人猿もどきや狼の死骸がごろごろと転がっていた。
足踏み一発で、そこは核爆弾でも落としたようになっている。
巨神兵かよ。
つくづく、パワーバランスの狂った世界である。
その雪原の中に、俺は人影を捜した。
近くにいればいるほど、回避が困難になる。
……もし勇者クレゾールなら、あの程度で死ぬはずはないと思っていた。
「……勇者クレゾールッ!」
第一段階のビヒーモスが次の足踏みをするまで、まだ時間がある。
あるいは、うるさいハエを叩き潰したので、もう余計な破壊はしないだろう。
あいつも腹が減っているのだ。余計な消耗はしたくないはず。
……なんていう楽観的な『希望』に対して、この世界は容赦が無い。
ビヒーモスがゆっくり足を上げ、次の足踏みをした。
それにあわせて、空に飛び上がる人影のようなものが見えた。
俺は立ち止まり、その人影を観察する。
しかし、今度は先ほどよりも高い、100メートル近くの雪の壁が吹き上がった。
……間に合わない。
一瞬だけ見えた人影は、雪の煙に飲まれ、そのまま消えてしまった。




