夢幻抱擁
バサリ……
一冊の本がタイルの上に落ちた。
たくさんの足がセカセカと現れては消え。佇んでは消え。
足音のないことを不思議に思い、彼は自らがイヤホンをしていると気が付いた。
音が溢れていた。
夜の駅だ。副都心線池袋駅の、人工灯に照らされた地下ホーム。
誰もが疲れた顔だ。多くは家を目指している。帰ろうとしている。
目的地では有り得ないのだ、ここは。
行き交う人々が留まることもないこの場所で、彼は長い時を過ごしていた。
電車に乗ることもなく。改札を出ることもなく。音を断ち、視界を断ち。
まるで世界の外側にでもいるように、じっと、座っていたのだ。
本を拾う。
そのタイトルはオカルト辞典。
そっと表紙の埃を払うと、鞄にしまって、立ち上がった。
ベンチから離れ、彼は下りの電車を待ち始めた。
コートのポケットから、カプセルタイプの駄菓子を取り出して、口へ。
目を閉じて、ゆっくりと噛みしめる。深く遠い何かを反芻するかのように。
110円のそれは110円分の味しかしまい。しかし、味わう。
電車に揺られる。
ドアに寄りかかるようにして立つ彼が、窓に反射して映っている。
地下鉄に風景はない。暗い暗い、洞窟のようなものだけが続く。
錯覚……だろうか?
暗闇に浮かびあがるように映る彼は、どこかが彼ではない。
連続する蛍光灯の光の狭間で……彼は炎に包まれてさえ見える。黒い炎に。
やがて彼は降りた。
随分とゆっくりした歩調で、エスカレーターの列に並ぶ。
誰かがふと彼を見た。1人ではない。誰に興味もない人々たちが、チラと見る。
そして一様に、不思議そうな顔で首を傾げるのだ。何故気になったのか、と。
冬の夜空は透き通るように高い。
彼は星を見ていた。星もまた彼を見ている。
その歩みは何かが神聖だ。一歩一歩が星空と彼とを近づけている。
家に、帰り着いたようだ。
ドアに手をかけたままに、外で、しばらく目を閉じ立ち尽くす。
泣いて……いるのだろうか? それとも笑っているのだろうか?
「ただいま」
迎えに出るものもいない。
静かな、そしてどこか寂れた玄関。廊下。
リビングではテレビが明滅している。ソファでは誰かが転寝していた。
「風邪ひくよ。自分で食べるし、洗い物もやっとくから、もう寝なよ」
どこか反応の鈍い女性を、自らの母親を、寝室へと送り出す。
身支度をし、歯を磨き始めた音を後ろにして、味噌汁を温めなおす。
茶碗を取ろうとして、肘がグラスに触れた。落ちる。
割れなかった。
彼の影から、何か細い手のようなものが伸び、グラスを受け止めたのだ。
静かに床に置かれたグラス。彼は拾って水を注いだ。
テーブルの上の皿を見て、クスリと笑った。
焼き魚がラップに包まれて置いてある。別段、おかしな所はない。
何を思い出したものか。とても嬉しそうに、魚の身をほぐしていく。
ゆっくりと、しっかりと食べ終える。
静かな夜に洗い物の水音だけが響く。
その水音にも、彼はどこか懐かしげに微笑んでいた。
何を思ったか、一度水気を拭きとった手で、再び水を受ける。
手を受け皿のようにして、流水をそこに溜めた。
「おみずあそび」
そっと呟くなり、水が独りでに形を変えていく!
キラキラと躍動するそれは、小さく人の形にまとまっていった。
「おみずかたまる」
彼の手の上には、1体の、ガラス細工のような人形が立っていた。
3歳くらいの少女で、元気良く楽しそうに駆けている、そんな様子の人形だ。
優しい優しい眼差しがそれに向けられている。彼が微笑んでいる。
階段を登っていく。彼の部屋は2階にあるようだ。
扉を開けて入ったのは、しかし、彼の部屋ではあるまい。
赤いランドセルの置かれた、いかにも女の子といった風の内装だ。
「入るよ、千晴」
誰もいない部屋に入った。片付いていて清々しい。
家のどこよりも綺麗な空間だ。花瓶の花も瑞々しい。
唯一、カレンダーだけが古い。去年のものだ、それは。
「お土産があるんだ。きっと喜んでくれると思う」
時間割の張られた学習机の上に、先ほどの人形を置く。
その横には潜水艦……いや、宇宙船か何かのプラモデルが先住していた。
見れば、机の本棚は小説や漫画ばかりだ。男の子向けが大半だ。
「今夜は……いつもとは違う物語を話そうと思う」
床に座り、ベッドを背もたれにして、彼は穏やかに話し始めた。
彼しか居ないこの部屋で、静かに、大事な誰かに囁きかけるように。
「もう知っている物語かもしれないけどな。今回も、俺たちは兄妹でさ?」
日課なのだ、これは。
妹のために始めたことなのか、彼自身のために始めたことなのか。
物語が大好きだった妹へ、とりとめもない空想を物語る時間。
昨年交通事故で亡くなった妹を偲び、在りし日を思い出しつつ、言葉を紡ぐ。
思い出すことが最高の供養であると、口では言い。
その死を受け止められないままに過ごす日々の、拠り所として。
彼の心は死んでいったのだ。潰れていったのだ。そして……落ちていったのだ。
だが、今は。
今の彼は違うようだ。そう自ら言ったではないか。
何かが違う。決定的に。どこが違うのだろう?
「怪物の森の奥。地下の深い所。水に浸かって、青い髪の少女が眠っている……」
ああ……そうか、そこが違うのか。
彼は幸せなのだ。以前までの、辛く眉根を寄せ、歯軋りするような顔ではない。
妹の亡きことを怒り、嘆き、陰に篭るような表情ではない。微笑んでいる。
寛いでいる。
物語るにつれて、不思議な光が彼を取り巻きはじめた。
薄く目を閉じた彼は気付いていない。
しかし、ああ……それは部屋中に満ちていく……淡い幻光が満ちていく。
森が見える。
トカゲの兵隊が列を成す。8本足の恐竜が地響きを立てる。
草原が見える。
赤地に黒鳥の旗を掲げて、騎士団が勇壮な行軍を見せている。
山脈が見える。
エルフが、ドワーフが、黄金の髪の姫が、皆で協力して植林をしている。
不思議な城が見える。
子らがクルクルと遊びまわり、獣人たちが和やかに耕している。
賢しそうな少年が現れた。フフフと笑い、彼の荷物の本を指差した。
髭の老騎士が現れた。胸を張り、実に大仰な礼をした。
猫耳の美しい女性が現れた。彼に抱きつき、愛しげに頭を撫でた。
次々と、次々と。
誰かが現れては消え、現れては消えていく。
その誰もが彼に微笑みかけ、手を差し伸べる。楽しげで、誇らしげだ。
何という……何という光景なのだろうか。
この光の中は慈しみに満ち満ちている。
彼は愛の輝きの中に憩い、奇跡にその身を委ねきっている。
彼が語るのは、時として陰惨な、時として滑稽な、時として荘厳な物語。
ずっと留まって、寄り添い、耳を傾けている少女がいる。
一生懸命に相槌をうち、驚き、笑い、夢中になって物語を聞いている。
その顔立ちは不思議だ。異国の少女のようで、それでいて彼に似ていて。
仲の良い……とても仲の良い、兄と妹のひと時。
「……今夜はここまで。続きは明日にしよう」
彼がその眼を開いた時、もう奇跡の光は消え去っていた。
ありふれた、小学生の女の子の……主なき部屋。
「おやすみ……マグ」
廊下へ出るその背中を、青く透明な少女が、手を振って見送っていた。
◆ アルバキンEYES ◆
結論から言おうか?
俺は戻ってきた。この平成の日本に。
ここは東京の外れ。
宅地と畑とが混在する街の、俺の家の、俺の部屋。
テレビがあるのは贅沢か。アンテナつないでないからゲーム専用だ。
気分的にはアレだな、RPGとかはしばらくいいや。
第六天魔王の野望系もやめとこう。政治の能力値高い奴に全委任したくなる。
ロボットだ。ロボットアクションでミサイル撃とう。ビームは怖いが。
いや、勉強するけどね?
高校受験生だからね。受験生の冬だからね、今。
中3で内申ボロボロになったから、当日勝負だぜ。
時間は十分にある。
さて、と。
勉強を始めるその前に。
俺は鞄からオカルト辞典を取り出して、机に開いた。
「おいおい……いらんお世話だぞ、お前」
そのページにぎっしりと書き込まれているのは……数学の予想問題。
避けるようにページをめくると、また同じ問題。逃がさないつもりか。
本屋の前を通っただけでコレ……先が思いやられる。
いいさ、面白い。
やってやろうじゃないか。
俺を誰だと思ってる?
まぁ……何だ……苦戦したけどね?
い、因数分解は得意なんだ。因数分解は。
ただ……ちょっと……2次方程式の文章問題がね?
……よし。
暗くした部屋で、独り静かに、心を研ぎ澄ます。
降りる。コツはわかってる。そう……全ては内側にあるんだ。
ゆっくりと、ゆっくりと……内面を降りよう。
俺の中にある階を。高い側から低い側へと。
沈むように。眠るように。
暗い闇の黒い影なる最底へ。
降り立ったならば、そこには。
まるで鏡に映る自分のように……俺を待つのは、ニノザ。
「やあ、どうだった? 神話を越えて帰り着いた、我が家の様子は」
いつも通りだったよ。いつも通りに沈んでた。
俺の使命は、まず何といっても、その再建だと思ったよ。
「うん、そうだね……今の君なら安心だ」
ああ、安心して見ていてくれ。
任せた仕事のついでに、な?
「ははは、仕事ね。まさか僕が何かの役にたてるなんてねぇ……」
2人して見やる。
星空に満たされたモノを……『深淵』を。
無空に代わって管理してもらってるんだ。
俺の全てを知り、俺の意図を最も推察できる存在……ニノザに。
「君、ちょっと欲張りじゃないかい? こっちも捨てずに在るだなんて」
無欲を悟ったつもりもないさ。
ついでに言うとな、諦めも悪いんだ。産まれてからこっち、ずーっとな。
「あはは、知ってる」
先へ行くことは止めない。
止めたら俺は、アルバキンでなくなってしまう。
だからといって、後を消し去ってしまう気もない。全部受け止めて行くさ。
歩いていくんだ。生きることの、その先へ。
不明の解明こそが俺の人生。この世はわからないことだらけ。生き甲斐だぜ。
諦めないぞ。
いつか……いつかは「解無し」を受容する時が来るのかもしれない。
でもそれは俺が死ぬ時だ。充分に足掻くさ。笑って死ぬ、その日まで。
「戻るのかい?」
ああ、また来る。
独り静かな時間を得たその時に、俺はここへ来れる。これからも何度でも。
「またね」
ああ……またな!
◆ 転生エルフ血風伝 END ◇




