魔王消失編 第2話
◇ WORLD・EYES ◇
それは不思議な旅人たちだった。
猫を抱えた幼女が先を歩き、旅装の女騎士がその後を付き従う。
フラフラと行ったり来たり。何かを確かめるように留まった翌朝には、駆ける。
ニオ、ウイ、ジステアである。
彼女たちは探索者だった。巡礼者だった。競争者だった。
探し物は1人の最愛の人。
巡るのは彼の生きた道程。
競う相手は時間、争うのは彼の存亡。
1つの予感が彼女たちを……より正確には、ニオ・ヨエンラを突き動かす。
彼女の身に宿る近親殺しの呪力、即ち『魔炎』。
では、その炎は何をもって彼女との距離を測るのだ?
生物種としての近似ではない。それでは多様な来歴をもつ魔将を総じて殺せない。
生命を虚空に投じられた試みの一投に例えよう。
産まれた瞬間から死に向かって放物線を描く、生き物たちの一生。
それら無数の軌跡は、1つ1つが無限の可能性を秘めた物語だ。
互いに遠いもの、近いもの、交差するもの……ぶつかるものすらある。
人はその距離感を様々に表現する。
運命。糸。縁。絆。偶然のような必然のそれら。
『魔炎』とは、その距離に反応する。
ぶつかるものは勿論、交差するもの、近いものですら叩き落とす。
運命に作用する絶対死の力。それこそが『魔炎』なのだ。
ゆえに、彼女は感知する。
運命を測るその奇跡の力で、彼を、誰よりも遠くで流星のように滑空する彼を。
それが感じられるうちに、働きかけなければならない。
彼が別世界へ消え去ってしまう前に、呼びかけなければ!
滅ぼしの力を、この炎を、彼という存在を導く灯台とするのだ!
彼女を動かす衝動は、その方法までは教えてくれない。
しかし動き続けないではいられない。止まればきっと死ぬだろう。
それほどまでの衝動なのだ。魂の疾走だ。
やがて彼女らは「塵の森」へと至った。
無謀である。龍王が墜落し、魔王が軍をもって踏破した土地だ。
それでも止まらない。行く。予感のままに。
程なく襲い来るは、紫鱗猪鬼。
この森にのみ生息する凶悪な亜種で、蜥蜴人や大熊猪鬼の天敵だ。
5匹、10匹と毒汁を滴らせて包囲してくる捕食者たち。
遠い。ニオからは縁遠い者たちだ。
しかし、近い。今彼女が思いを届けようとする彼に比べれば、極めて近い。
この世界の有象無象など、今の彼女には至近に等しい。
魔炎。
黒い火だった。
投擲でも放射でもなく、神秘の角度をもって、その火を点ける。
突如として内側から燃焼し、黒い火の残滓を覗かせながら、死あるのみ。
事切れた者たちに目もくれず、先へ。奥へ。
遮る者たちには死を。
回避不能、防御不能、忍耐不能の黒い炎を。
距離も鎧も何もかもが無効の、絶対死を。
ああ……しかし、魔炎よ。
その奇跡の力は確実に彼女を蝕んでいるではないか!
小さき手が撫でさするその猫は、明らかな衰弱を示している。
届くのか?
既に森に入って幾日もが経ち、襲撃はその回数を増している。
小さき手が水を飲ませ、大きな手が僅かな食料を食ませる。
届くのか? 彼女は確実に衰弱していく。
遠い目標がそれを忘れさせているが……
本来ならばやはり遠いのだ、彼女が焼殺している敵たちは。
命を削り、命を途絶させる旅。
この世界で最も危険な魔境を行くその旅には、しかし意味はあるのだ。
見よ、今やニオ・ヨエンラは猫でも人でも、魔将本来の姿でもない。
小さき手に抱えられているのは、魔炎そのものだ!
暗黒の炎の中に、僅かに豹の緑なる瞳が浮かぶ。
それは確かに彼女だ。魔炎と化したのだ。魔炎以外の全てを捨てて。
黒い炎は小さき手を焼かない。
炎のように見えるだけで、それは尋常な炎とは違うのだから。
かといって、抱えるのは勇気だ。小さき者は勇気を持つ。間違いない。
そして、その日が来た。
轟音と地響きとが迫る。
森の植生を踏み潰し、魔物すら蹴散らして、1匹の巨獣が迫り来る。
当時の魔王軍が犠牲を払って避けた敵だ。8本脚の凶悪なる姿。
地這亜竜。
この化物にも、果たして効くか、魔炎が。
この化物なら、果たして耐えられるか、魔炎を。
緊張の対峙を裏切る、1つの素っ頓狂な声。
「アンタ、誰かと思えばジステアじゃないの! どーしたの、こんなとこで?」
化物は背に人を乗せていた。
冷たい眼差しの女性魔術師と、大きな帽子を被った少年である。
後者はともかく、前者は一行と久々の再会であった。
「ら、ランベラ殿! 貴方こそこんな所にいたとは……!」
カルパチア皇室付き魔術師筆頭、ランベラ。
魔王への従属を断って姿を消した、ヒューム最強の魔術師たる彼女であった。
◆ ランベラEYES ◆
人生何が起こるかわからないものよね。
どんな研究も誰にも理解されないで、人の軋轢の中で死ぬのかと思えば。
今、私は伝説中の伝説を目にしてるわよ。
魔炎。
あらゆる呪詛がお遊びに思えちゃうほどの、別格の極みにある呪い。
魔呪伝説の中に伝説と語られる「運命を断つ黒い火」、それが目の前に。
もう大概のことじゃ驚かないと思ってたけど、これは無理よ。驚きよ。
「……というわけで、私たちは魔王城から旅してきたのです」
「ふーん。魔王復活を目論む御一行というわけね?」
「はい。魔王様のためならばこの命など惜しくありません」
「そ、そう。アンタも強くなったわよね……まぁ、いいけど」
ざっと聞いただけでも、平原の情勢は激変してるしね。
何か色々苦労してたのが馬鹿馬鹿しくなるわ。帝国滅んで光国とか何それ?
あの子はあの子で楽しく過ごしてるみたいだし……これはこれで幸運かもね。
「ランベラ殿は何をされていたのですか?」
「んー、まぁ、話すと長いけど……一言で言うと家探し?」
「大魔導師の住居ですね」
「そ。本人不在らしくてね。アイツに言わせると」
ここしばらくの同伴者を示す。
シディーソっていう、何というか出身のわからない名前のガキ。
間違いなく、見た目通りの年齢じゃないけどね。人間でも魔将でもない。
何やら真剣な顔で「魔炎」と見つめあっている。
濃密な魔力のやり取りが感じられる……アイツも伝説側の存在なんでしょうね。
慣れてはきたわ。自分がちっぽけなヒュームに過ぎないっていう感覚にも。
「……何者なのですか?」
「さあて、ねぇ……大魔導師の知り合いらしいけど。実力的には魔王級?」
「なっ、そ、それは本当ですか!?」
「少なくとも、魔王のものらしい《施鍵》は解いたわ。要は人外ってことよ」
精神魔法の使い手として、とんでもない高みにいるのは確かね。
魔王はきっと精神魔法苦手でしょうけど……それでも私では解けなかった。
アイツに出会わなければ、私は入り口を見てお終いだったわけだ。
ふと、これまでのことを思い出してみる。
あの日。
魔王城から飛び出した私は、東へ向かったわ。
当初の計画通り、とにかく大魔導師の住居を目指すためよ。
他にどうしようもなかったしね。ちょっと動揺もしてたし、初志貫徹ってわけ。
聞きしに勝る「塵の森」。
はっきり言って、私1人だったら3日と生き延びられないわね。
運が悪ければ半日で食べられてお終い。
けど、私には笛があった。
「地竜笛」……カルパチアの始祖が大魔導師から渡されたという魔法アイテム。
この魔境を越えていくための必要だという伝承。
まさか、この化物を使役するための笛だったとはね……!
地這亜竜って言ったら、一国を賭けて討伐するような化物よ。
それを森の中限定とはいえ、乗り物として利用できるなんて……
大魔導師の実力を垣間見る思いだわ。畏るべき者。魔王とどっちが凄いかしら?
流石の「塵の森」も、この化物の踏破力を止めることはできない。
私は一気に大魔導師の住居まで到着して……そこで、どうにもならなくなった。
とてつもない魔力強度によって施された魔法の鍵。扉が開かない。
「亜竜で来るとか仰天。その癖、その魔力。説明希望」
唐突な言葉。
さっきまでは確かに誰もいなかったそこに、瞬きの間に、居る。
外見は子供でも、見た目で判断できるわけもなし。
大魔導師かと問えば違うと言うし、今もって正体不明よ。何なのよ。
シディーソと共に降りた……というか、連れて行って貰った地下迷宮。
「塵の森」の地下だけあって、漂う妖気だけで目の眩むような恐ろしの世界。
しかしそこは「攻略済」だった。そこかしこに魔物の残骸が転がる。
何者かが、下から攻略した。
そうとしか思えない跡が随所に見受けられた。
大魔導師本人のはずはない。そんな間抜けな住居、聞いたことがない。
ならば、誰が? もしかすると魔王? それを連想させる魔術痕はあった。
何にせよ、地下60階に降り立った時は感動したものよ。
そこはそのまま住み着きたくなるほどに「研究施設」だった。
転居後って感じだったけどね。それでも、私には魅力的だったわ。
図書室の蔵書と格闘するだけでも50年は籠れるわね。垂涎ものよ!
シディーソの奴は何やら頻りに《魔力看破》を使っていた。
他にも感知・探査系の精神魔法を駆使して、何かを調べていた。
書斎では特に念入りに調査していたわね。大魔導師と敵対でもしているのかしら?
私としては地下61階以降の調査もしたかったけど、何故か止められたのよね。
「個人の趣味嗜好の暴露は自重。あの人の激怒は妹の破滅」とか何とか。
敵対……というか、妹の身柄を握られてる? よくわかんないわー。
とにかく、シディーソが引き揚げるって言うから私も諦めた。
下手に物色し過ぎて大魔導師を敵にしたくないしね。身の程は弁えたわ。
で。
笛を一吹き、一路安全なる外世界へ……と思いきや、こうだものね。
人生、ホント、何がどうなるかわからないものだわー。
だって魔炎よ、魔炎。何でも殺せちゃう呪いなんだから。
「委細承知」
おっと、突然シディーソが立ち上がったわよ。
やっぱり会話してたのね、その魔炎と。伝説や神話の風景よね。
「まずは森を脱出、そこからは空路」
「え、ちょっと、それどういうこと?」
「急用」
「ひとっつも情報来ないけど、要は私とはお別れってことね?」
「肯定。空路は生身に危険。後はお任せ」
何を任せろってことだか。
つまりは魔炎とアンタだけで飛んでいくってことよね。
ならジステアとマーマルの子も置いていくつもり? よっぽど急ぎの用よね。
「はいはい、それじゃ森の外までは私が任されたわよ。それでいいんでしょ?」
「感謝」
笛を吹く。
たちまち立ち上がり、私たちを運んで走り出す地這亜竜。
こんなものよね、結局。
ヒュームの中で最強最高の魔術師でも、所詮はこんなもの。
世界は広いわ。本当に広い。私なんてちっぽけな芥子粒ね。
だけど見てらっしゃい。強者が勝者とは限らないんだから!
◇ WORLD・EYES ◇
光都。
アルフヘイム光国の首都である。
他民族融和を目指したその街並みは、未だ殆どが建築途上だ。
魔法で植物を繁茂させた地区。地下工事のために掘り返している地区。
工房。製材所。解体された様々な資材の置き場。炊き出し場。
希望に満ちていたはずの新たな街づくりは、どこか勢いがない。
エルフとドワーフの間にも何か隙間風が吹いている。
黄金天使の国旗すら、吹かぬ風に萎んでいるかのようだ。
都民が我知らず見つめる先に、城がある。
旧帝国城を下層階に残し、白亜の城を上層へ建築していく構想だ。
尖塔などは未だ姿を見せていないが、核となる部分は真っ先に工事された。
それは理想の象徴となるべき建築物なのだから。希望の形なのだから。
神話国家の復活。
その現人神となるべき尊い人は、今日も姿を現さない。
人々は噂する。
魔王を討伐したというのは、嘘なのでは?
光主は魔王に敗北したのでは? 重傷を負ったのでは?
おかしいではないか。
凱旋もなく、マーマルの帰参もなく、荒野の接収もない。
魔王の遺物を持ち帰るとして派遣された部隊は、1兵たりとて戻らない。
追加で派遣された部隊すら、そのまま荒野へと消えた。どういうことだ?
魔王軍に殺されたのか? それとも……寝返ったのか?
軍からは1人、また1人と東へ消えていく者たちが後を断たない。
ドワーフ軍にその名を知られた武将、ガンドレットすら魔王軍へ走った。
あの話は本当なのか?
光主と魔王との対決にまつわる、あの話……光主の愚挙。
それが本当だから、軍が乱れているのか? 今日も名の知れた者が去る。
光主アルテイシア……どうして姿を隠すのか。
貴方さえ光を放つならば、誰も迷いはしないというのに。
人々の思いは視線に込められて、今日も方々から、城を刺す。
それらに怯えて篭ったか、光主よ。否。
彼女は確かに怯えていたが、そもそも眼中にないものを怯えるはずもない。
省みない者にとって、当たり前のモノは透明だ。
賛美者、肯定者、協力者、追従者、そして彼女よりも弱き者。
それらは彼女にとって世界の大多数を占めている「当然」だったのだ。
だから彼女は見ない。それどころではない。
見えなくなったものと、見えてしまったものとが問題だ。
見えなくなったもの……自分への加護と祝福。
見えてしまったもの……自分への悪意と拒絶。
彼女の「世界」は壊れた。壊されてしまった。あの……魔王によって!
風が笑い光が慰撫する日常は戻ってこない。
沸き起こる魔力も枯渇した。今の自分では竜幻魔法など使えるわけもない。
明るかった世界に影が差し、暗い冷気が足元にまとわりつく。
ああ……また来た。死だ。死の予感。
震え出す身体を必死に掻き抱く。
魔王という形をした暗い世界の侵略だ。恐怖。魂を鷲掴み、引き裂く。
嫌悪、憎悪、殺意、憤怒……自分を否定する様々が突き立てられる。
壊れる。いや、既に壊れている。心はもう元に戻れない……不可逆だ。
彼女は知ってしまったから。
「知る」とは「変わる」ということだ。
本当の「知る」は人を変えずにおかない。
世界は明るいばかりではないのだ。明暗をもって世界は廻る。
そんな当たり前が、彼女を完膚なきまでに叩きのめしている。
転んだことも無い彼女は、立ち上がる術もまた知らないのだ。
嗚咽。苦悶。自傷。逃避。
彼女は寝室という名の殻の内側で、徐々に腐りつつあった。
「随分と見苦しくなったものですね、アルテイシアさん」
弾かれたように顔を上げる。この声。
なけなしの、それでも十分に人並みはずれた魔力で施した結界を破って。
「魔王を滅ぼしたこと、まずはおめでとうと言っておきます」
「は、母上様……」
エルフ・パルミュラ王権の女王、エスメラルダである。
重さを感じさせない有様は、彼女が星気構成体であるからか。
玲瓏とした美貌は表情もない。氷像を幻灯に投影したかのような印象だ。
「失ったものも大きいようですが、母が来たからには安心なさい」
「あ……?」
何という抱擁だろうか。
諸手だけではない。女王を構成する霊妙な気が光主を包み込む。
朧げに光り、緩やかに対流するその様は、まるで魔力の揺り篭だ。
「眠りなさい、アルテイシアさん。母が苦しみを取り除いてあげます」
「あ、ああ……」
あの日以来、固着していた眉根が解けた。
安らかに瞳を閉じ、力なく口元を緩め、その身体は胎児のように丸まっていく。
おお、正にそれは胎児だ。そこは子宮だ。何という抱擁か!
女王は母であった。
例え錬金術をもって生じた命といえど、光主は女王の娘なのだ。
光主アルテイシアだけは、愛し慈しまれているのだ。
見方を変えれば、それは……
兄を殺そうとし、殺されかけ、生き残った妹への母の愛撫。
そして母は唱えるのだ。次なる凄惨な何かを予感させる、その魔法を。
「《結合憑依》」
その日、光主アルテイシアは公に登場した。
新たな力、新たな表情、新たな方針とをもって。




