6
地球という惑星の、日本という小さな島国で言うところの草木も眠る丑三つ時、王都ジュデッカの王城に一つの知らせが舞い込んだ。
「天使だと? 間違いないのか?」
知らせを聞いて飛び起きた人狼の王は、寝室から執務室へと場所を変え、深く椅子へ座り直した後、深夜にもかかわらず眠気の一つも感じさせない様子で大きく裂けた口を歪めた。
「間違いありません。尚、宮廷術師団によると、アモン村上空にて発生したと思われる空壊の時間は昼ごろとのこと。その時間に、百を越える天使が堕ちてきたと予想されます」
「なんと……」
「よもやこのようなことが……」
王の疑念に答えたのは、黒い金属で作られた鎧をまとう、騎士姿をした白い毛で全身を覆われた人狼。
狭い執務室にいる王と同じように叩き起こされた国の重鎮数名が呻く中、騎士の言葉を聞き、王は灰色の毛に埋もれた眉間に深いしわを寄せる。
「アモン村への救援は間に合いそうか?」
「無理でしょう。おそらく全滅しているものかと」
「……そうか」
情報を得るまでに半日。仕方のない事とは言えあまりにも遅すぎる。
わかりきった事であったが、騎士の言葉に深い悲しみを王は抱く。
王にとって民とはかけがえの無い隣人であり、また友でもある。
例え種族が違えどその思いは変わることはなく、故に王の胸中には幾つもの後悔ばかりが泡のように浮かんでは消えていく。
「俺はまた民を失ったのか。……つくづく失ってばかりだ」
「王よ! このままで良いのですか!」
「天の使い許すまじ!」
「穢らわしき天使どもに鉄槌を!」
「…………」
騒ぎ立てる重鎮たちと、無言で虚空をじっと見据える騎士。
己の仕える王が、勇猛であると同時に心優しいことを知っている騎士は何も語らない。
ただ唇を噛み、拳を強く握り締めるだけ。
騎士もまた心優しき人狼であり、王と同じく深い悲しみを抱き、同時に強い怒りを感じていた。
だからこそ、起きた事のみを語る以外、何一つ口にしようとはしない。
もし語ろうとすれば、それは業火のように身を焼き、例え王の前であったとしても、一度口から漏れてしまえばこの部屋全てを壊し尽くしてしまいかねなかったからだ。
だからこそ騎士は待つ。王の命を。限界まで引き絞られた弓につがえられた矢のように。
「ウィル」
「はっ!」
ウィルと呼ばれた黒鎧を纏う騎士が直立のまま王の次の言葉を待つ。
「行ってこい。人数はお前に任せる。んで、もし天使がいた場合は……」
人狼の王は格式を尊ばない。相手が民であろうと、騎士であろうと、他国の王であろうと全て平等に扱う。頭を垂れる必要もないと豪語する。
しかし、人狼の王は決して侮られることはない。何故ならば。
「ぶち殺せ」
人狼の王は強者なのだから。
己に刃を向けるのであれば、相手が民であろうと、騎士であろうと、他国の王であろうと全て平等に扱う。全てを喰らい、暴虐の限りを尽くす。
それが人狼の王。ジュデッカの魔狼と呼ばれ、王位に即位してから540年経た今も、大陸中の尊厳と畏怖を集める獣の王。
ネブカドネザル・ド・ヴォーヴェル、その人であった。
「はっ! 王命、しかと承りました!」
そして、魔狼の命を受け、姿勢を正しながらも獰猛な笑みを浮かべるウィルという名の黒鎧の騎士もまた、気高さと凶暴さを併せ持つ狂戦士なのだった。
天使の襲撃により、一目見ただけでは廃村のようになってしまったアモン村。
襲撃から一夜明けたこの村の中、イツキは何度目かもわからない刃を振るう手を不意に止め、遠くの空を見つめた。
一夜明けたといってもまだ陽は登り切っておらず、周囲は薄暗い。
ヘルはまだ眠っているのか、イツキのセンサーで得られる情報によると、熱源反応は動いている様子はない。
実はイツキは昨夜のヘルの様子について、センサーなどにより殆ど知っていた。
彼女の心中まではわからないまでも、過ごしていた村を壊され、知人を食われたのだから無理もないと思い、気付きながらもそっとしていたのだ。
なので、イツキとしては、ヘルを時間の許す限り休ませておこうと考えていた。そして、彼女が昼過ぎにでも起きてきたらこの世界のことでもゆっくり教えてもらおう、と。
しかし今、空を見つめるイツキの目には、そんな余裕は微塵もなかった。
イツキの頬を訓練で出たものとは違う汗が一筋流れる。
(なんだこの気配は?)
それは、ちりちりと焼けるような、燃え盛る怒りを伴った気配。
「チィッ! これほど近付かれてようやく気付くとは!」
毒づくと同時、イツキは駆け出し、ヘルの眠る家へと飛び込んだ。
「ヘル! 起きろ!」
「ふぇっ!? い、イツキ様!? どうしたのですか一体!?」
血相を変えたままのイツキは、慌てて飛び起きた着の身着のままの彼女の肩を掴む。
「え? あ、あの? イツキ様?」
「ヘル、この村にどこか隠れれそうな場所はあるか?」
「隠れる場所……ですか?」
戸惑ってはいたが、イツキの様子からして何かが起きているのだと判断したヘルは、まだ起きて間もない為にはっきりしない頭を必死に回転させた。
だが、アモン村は元々が狭い村で、しかも天使に襲撃されるまではこれといって脅威も無く、万が一にもどこか隠し部屋があるような家屋があったとしても、これまで普通に村で暮らしていたヘルには想像もつかない。
なので、ヘルは考え方を変え、この村以外の場所へと目を向けた。
「申し訳ありませんイツキ様、この村の中ということであれば、ご期待に添える場所を思いつけません。ですが、裏山の方でしたら森も深いため、逃げるだけなら何とかなるやもしれません」
アモン村は元々、これといって目立った特産品などがある訳ではなく、畑で育てた麦や、山で採れる山菜や獣の肉や皮といった物を村の皆で分けたり、旅の商人に売るなどして生計を立ててきた。
ヘルもこの村に配属されたシスターという立場ではあったが、天使が現れた時のように普段からよく山菜や薬草を採るために入っており、地形なども把握している。
「裏山というと、この家の裏にある山か?」
「はい。ところでその、なぜ隠れなければ……?」
「急いでその裏山に行け。いいな?」
「は、はぁ。あの……?」
言いたいことだけを告げたイツキは、入ってきたドアの所まで移動した所で、未だ呆然としているヘルに、急がなければならない理由を短く告げた。
「何者かがこの村に向かっている」
「えっ!? ま、まさかまた天使が!?」
「わからん。だが、敵意だけは感じる。急げ」
これ以上は喋る時間も惜しいとばかりにイツキは部屋を去ろうとした。その背は、己にはまだやる事があると雄弁に語っている。
それを悟ったヘルが、イツキが何をしようとしているのか理解し、慌てて駆け寄っていく。
「い、イツキ様! 私も、私も残ります!」
しかし、イツキは静かな声でそれを諌めた。最も有効的な言葉で。
「足手まといだ。行け」
最早言葉は必要ないと部屋を出て行くイツキ。
ヘルは部屋を出るイツキを大きく広げた目で見つめながら、差し出していた手を下ろし、膝を崩してぺたりと部屋に座り込むのだった。
彼女のためとはいえ、おそらくは深く傷つけてしまった。
だが、ああでも言わなければ納得しなかっただろう。今の俺では、自分はまだしも誰かを背に戦うのは難しい。
それに、それに、それに――。
(言い訳だな)
己の行為を正当化しようとする弱い心が先程から暴れまわっている。
情けない。何がシャドウメタルだ。何が無敵の改造人間だ。
あれほど憎んだ力がなくなった今、まともに一人の女を守ることも出来やしない。
「クソッ!」
人の身になってから弱まってしまったセンサーにも、今やはっきりと何者かの姿は映しだされている。
ショックからかヘルはしばらく動かなかったが、どうにか立ち直ったのか、何者かが来る位置とは正反対の山へと向かっているようだ。
これならば、しばらく時間稼ぎをすればヘルは逃げきれるだろう。俺自身も、ヘルが逃げ切った後ならばどうとでもなる。
(逃げ切れるだろうか、本当に)
まただ。また弱い心が鎌首をもたげてきた。
シャドウメタルとしての姿も、力も失ったお前が逃げきれるというのか?
今すぐにでもどこかへ逃げるべきじゃないのか?
今ならまだ間に合うんじゃないのか?
弱い心が、幾つもの案を差し出してくる。しかし。
「ちょっとばかり遅かったみたいだがな」
視線の先の映像を拡大すると、こちらへ向かってくる何者かの姿がはっきりとわかった。
「天使の次は狼男か」
俺の目に見えたのは、30体ほどの狼の頭を持つ者たちの姿。
満月の光によって人の姿から狼の姿へと化身するという、物語の中の化け物。
そんな化け物が西洋鎧を着込んで、巨大な羽の生えたトカゲにまたがりこちらを目指している。
(ドラゴンにまたがる狼男など、誰かに話したら笑われるどころか、病院の紹介をされそうだ)
冗談にしても笑えないような話だが、事実なのだからしょうがない。
(ヤツにも俺が見えているのか)
弱くなったとはいえ、数キロ先すら拡大し補足することが可能な俺の目。その目でもようやく補足できた距離だというのに、視線の先に見える一匹の狼男は俺が視界に捉えるよりも早く俺のことを補足していたようだ。
その狼男は他の者よりも一回りほど大きく、更に他の者とは違い、シャドウメタルとしての俺が身にまとう外殻と同じ色をした黒く輝く鎧をまとっている。
そして、鎧とは対照的に白い毛で覆われた瞳には、隠す気など最初から無かったとしか思えない怒りと憎悪が込められており、俺の身を視線だけで焼き尽くさんとしているかのような炎が灯っているのがここからでもわかる。
『警告。現在の状態では退けられないレベルの脅威が迫っています』
何の感情も感じられない無機質な合成音が、スキャンの結果による分かり切った予測を告げる。
「だからどうした」
この程度の脅威、シャドウメタルであった頃にも幾度と無く味わった。死線をくぐり抜けたことなど一度や二度ではない。
その度に同じ事をこの合成音は告げたが、俺は今こうして生きている。
所詮は予測。確実な未来など誰にもわからない。
「来るがいい化け物ども! 俺はここに居る!」
さあ、さっさと終わらせて、ヘルを迎えに行こうじゃないか。
「来るがいい化け物ども! 俺はここに居る!」
謎の人物の発した、遠くにあっても聞こえるほどの怒声が、王都ジュデッカより飛竜を駆り、一晩掛けてアモン村へとやって来たウィル達黒狼騎士団の面々にはっきりと届いた。
王国の騎士に対して命が惜しくないとしか思えない化け物などという侮蔑の言葉に、騎士たちから殺気にも似た魔力が立ち上る。
「団長、何者でしょうあれは?」
「何者かは知らぬが、命知らずには違いないだろう。だがお前たち、相手は一人とはいえ油断するでないぞ!」
「「「「はっ!」」」」
若いなれど、将来有望と見られている騎士の一人の疑問に答えつつ檄を飛ばすウィル。
王の命にてアモン村へと急いだウィルと、精鋭のみで構成された30の人狼の騎士。
速度を重視し、城内の飛竜30体全てを使いやってきた彼らの先にいたのは、見た目は人間としか思えない者ただ一人。
天使との交戦を想定していた騎士たちからすれば拍子抜けにも思うだろう。だが。
(あの濃密な魔力、只者ではない)
一見、一般人と変わらないか、若干多い程度の魔力を持つ人間にも見える。しかし、歴戦をくぐり抜けてきたウィルの目には、まるで薄皮の下に隠されているような膨大な魔力がはっきりと映っていた。
(己の力を隠している? いやこれはむしろ封印されている? ……何にせよ、警戒するに越したことはない)
もし隠しているにせよ、自分たちは元々天使という脅威に対して編成された者達なのだし、封印されているとすればむしろ脅威が減って好都合。
(どちらにせよ、捕え、知っていることを吐き出させればいい)
ウィルはそう考え、ぎちりと奥歯を噛み締めた。
この時、ウィルは冷静ではなかった。なぜなら、アモン村の惨状を目にしてしまったからだ。
村はあちこちが破壊され、焼け跡なども幾つも見える。そして、離れていても人狼の鋭敏な鼻にねっとりと絡みつく、鉄の錆びたような臭い。
それは戦場で嗅ぐような、あまりにも多すぎる血の香り。
その臭いが普段は冷静沈着と言われるウィルの脳内を支配し、怒りの感情ばかりが溢れ出ていた。
「おのれ天使……っ!」
ウィルの口から漏れた小さな怨嗟の声に賛同するかのように、周りの騎士たちからも怒りの気配が立ち上る。
彼らもまた、ウィルと同じように国を愛し、民を愛する騎士故に。
ばさりと30いる飛竜の半数が翼をはためかせ着地し、背に乗った騎士たちが剣や槍を手に地へ足をつく。
残る半数の飛竜の上には、弓をつがえる騎士達の姿が見える。
今にも弓を放ちそうな騎乗の騎士に、地に降りていた黒鎧姿の人狼が手だけで弓を放たないよう指示した。
「フン、犬が犬に指図するとは驚きだ」
「貴様っ!」
騎士に囲まれるように立つ青年が、嘲笑と共に口にした挑発の言葉に、黒鎧姿の人狼の隣にいた若い人狼が槍を手に怒りの声を張り上げた。
「静まれ!」
黒鎧姿の人狼の鋭い一括。それは地を震わせ響き渡る。
若い人狼が、びくりと震え動きを止めたのを見て、青年はヒュウと口笛を鳴らした。
「我は黒狼騎士団団長、ウィル・ド・ヴォーヴェル」
「騎士団だと……?」
ウィルと名乗った人狼の言葉に、青年はぴくりと表情を変えた。
「貴様が誰かは知らぬ。だが、天使と無関係とも思えぬ。我と我の部下を侮辱した罪、命までは取らぬが、少々痛い目を見てもらおうか」
「……貴様達は天使がこの村を襲ったのを知っているのか?」
怒りの色を含んだ青年の顔を見て、ここまで無表情だったウィルは、僅かに思慮した後、鋭い歯を覗かせながらニヤリと笑う。
「やはり貴様は天使と何らかの関係があるのか」
笑いながら言うウィルとは対照的に、表情を消す青年。
「……ある、と言えばどうする?」
「知れたこと。叩き伏せた後に聞き出すまでよ」
「……なるほどな。実にわかりやすい。では、俺が貴様を叩き伏せ、天使のことを聴きだしたとしても文句はあるまい?」
「ほう……」
青年の挑発的な言葉に、ウィルが笑みを濃くする。
同時に周囲の騎士も色めき立つが、ウィルはこれを手で制し、背中に背負っていた巨大な両手剣を握り、腰を落とし構える。
「もう一度告げよう。我が名はウィル・ド・ヴォーヴェル。魔狼の名を継ぎし者だ」
父であり、王である偉大なる魔狼の名を、生まれではなく実力にて受け継いだ魔狼の息子に対し、青年は不敵な笑みを作り、己の名を告げた。
「俺の名はイツキ。貴様を倒す者の名だ」
地球から遠く離れた世界。この何もかもが地球とはかけ離れた世界で、力を失った黒い戦士は黒の騎士とぶつかり合うのだった。