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人を喰らう天使の住処。天獄。
この天獄の奥深くにある、傷ついた天使を治療するための場所。通称、生命の泉と呼ばれる場所に、一匹の怒れる天使が沈められていた。
「これがその?」
「ええ。虫の息だったそうですが、なかなかどうしてしぶといものです」
その天使の傷は深く、この天獄へと転移して戻ってこれただけでも奇跡としか言い用がない。
例え治療したとしても、直に命の炎を消し、大いなる神の元へとその魂を還元するだろうと思われていた。
だがこの天使は誰の予想をも裏切り、今もこうして生きていた。
「ふむ。何やら夢を見ているようだな」
「水面に映し出しますか?」
「頼む」
そして、その天使を見つめる、背に大きな白い翼を四対持つ影が二つ。
影の片方が何事かを呟くと、傷ついた天使が沈められた泉の水面に、その天使の思考が映しだされる。
「……ほほう。実に興味深い」
そう言って影の片方が楽しそうに笑う。
水面に映っているのは、黒い鎧を全身にまとった謎の戦士。
そして、泉から染み出すように漏れるのは、傷ついた天使の怨嗟の声。
「……何者でしょうこの戦士。新たな魔族でしょうか?」
笑う影にもう一つの影が疑問を投げかける。
すると、笑っていた影はその声をぴたりと止め、質問に答えるでもなく、心から幸せそうな顔をし口を開いた。
「貴様も来ていたのか……37番。いや、シャドウメタルよ……。カカッ……カカカカカカカカカカカッ!!」
影の漏らす狂ったような嘲笑を聞きながら、水の中の天使は口からごぽりと泡を吐く。
まるで、シャドウメタルという名に呼応するかのように。
「このようなものしかご用意できず、申し訳ございません……」
「いや、充分だ」
女が食事を作り終えるまでの間、俺は自分の出した答えが当たっている可能性を考え続けていた。
ここが地球ではないという可能性。
そしてそれは、かなり高い確率で当たっていると結論付けられた。
女がいない間、俺は自分の着ている服や調度品、家の外壁や大気など、様々な物に対して分析を行った。
思えば、ここに来て最初に行なっていればこうして混乱することもなかったのだが、それは今更考えてもしかたがないと割り切り、分析結果に目を走らせた。
結果は、身の回りの様々な物が現代の地球にあるものより品質的にどれも低く、その上で使い込まれており、それなりに年月を経ていた、というもの。
つまり、映画のセットのようだと感じていたこの古い西洋のような家屋は俺が来る以前より実際に使われており、だからこそ住んでいた者の生活の匂いを色濃く残していたのだ。
更には、大気の解析結果では驚くべき事実が判明した。
大気中に含まれる、異常とも言えるエーテルの量。
本来、エーテルとは地球上の大気中には極わずかにしか含まれておらず、故にドクター・ヘドロによってその存在を確認されるまで誰一人としてその存在に気付けもしなかった。
改造手術によって改造人間とされた俺の体内にはエーテルが多く流れているが、それも、ドクター・ヘドロによって作られた、俺の体内に埋め込まれているエーテル回路によって生み出されているものであり、大気中から吸収してどうにかなるようなものではない。
それなのに、この場所の大気には信じられないほどにエーテルが多く含まれている。
もちろん、それだけでここが地球ではないと断言できるものではない。地球上をくまなく探せば、大気中にエーテルが多く含まれる場所も存在するのかもしれない。だが、これまでの違和感をそこに足し、弾き出された結果を考察し当てはめていくと、ここが地球だと言われるよりも、ここが地球ではないという方がしっくりきてしまうのだ。
そんな事を考えながら、用意された食事を摂るために食器に視線を移す。
用意された食事は、お世辞にも豪華とはいえないもの。
見た所、野菜が数種入った簡素なスープにライ麦パンのようなものとのセットのようだ。
普通の現代人からすれば文句の一つも出るかもしれない献立だが、生憎俺は普通の現代人ではない。改造手術の途中で逃げ出すことができたシャイニングマンと違い、完全なる改造人間として作られた俺は食べ物の味など元から感じないし、栄養さえあればどうだっていい。女には美味い飯を頼むと言いはしたが、あれだって女の緊張をほぐすための方便で言っただけ。
腹が減ったとは感じる。鼻から入るスープの匂いだって感じる。
だが、味覚が無いのであればどれも似たり寄ったりのものでしかない。
ただ栄養を摂取するための行為。それが俺にとっての食事。
そんな非生産的な考えの元、この行為をさっさと済ましてしまおうと食器に手を伸ばす。
(木の器にスプーンか……)
また一つ、自分の予測を裏付けるような時代錯誤の品に小さく嘆息した所で、女の分の食事がないことに気付いた。
「お前は食べないのか?」
食事は決して多くはない。だがそれは二人分として考えた場合のこと。
一人分の食事にしてはやや多すぎるそれを前に、女はただじっと座るだけで手を伸ばそうとしない。
「い、いえ、私などが同じテーブルでお食事など恐れ多くて。第一、私はもう食事は済ませましたので」
そう言って笑う女。
(嘘だな)
そんな嘘は俺には通用しない。
女の状態は既にスキャン済みで、血色などから栄養状態が良くないことや、胃や腸の状態から空腹であることはわかっている。
こんな状態で俺だけに食事をさせる理由として真っ先に浮かんだのは、食事の中に毒物を混入させているというものだが、これも既に用意された品に毒物の類が入っていないことは確認済みだ。
(となれば、理由は……俺に対する遠慮……か。馬鹿らしい)
呆れるほどの自己犠牲の精神に口の端を少し歪め、自分の前にある食器を女の方へとわずかに押しやる。
「あ、あの?」
「食え。俺はこのパンだけで構わん」
慌てる女を尻目に、パンに手を伸ばす。
「い、いけません! これは魔神様の為にご用意した……」
「貴様が食わないのであれば俺も食わん。いいから食え」
パンに伸ばしかけた手を引っ込め、腕を組んでそう言う俺に、女は困った顔で何事かを言おうとし。
『ぐぅ』
大きな腹の音を鳴らした。
「こ、これはそのっ! ち、違うんです! 違うんです!!」
真っ赤な顔で腹を抑えながら、悲鳴のように弁解の言葉を口にする女。
「もう一度だけ言うぞ? いいから食え。わかったか?」
「ひっ!?」
こうしていても埒が明かなそうなので、僅かに凄みをきかせながら言うと、女は小動物のように飛び跳ねた。
(これでは脅迫しているようなものだな……)
こんなやり方しか浮かばない自分が少し情けなくなる。
シャイニングマンであればもう少し他にやり用があるのだろうか? などと考えていると、女が席を立った。
「どこへ行く?」
「あの、あの……スープを取り分ける器をご用意します。ですので、どうか魔神様も……」
自分だけ食べる訳にはいかない。かと言ってこのままでは俺も何も食べない。
故に、このスープを分けあって食べる。それが女の出した妥協案なのだろう。
「わかった」
「ありがとうございます!」
俺が言うやいなや、女は再度台所へとパタパタ走っていった。
(まるで犬だな)
走る女の後ろ姿を見ながら、俺はそんな事を考えていた。
「お待たせしました」
「ああ」
スープが入っているものより一回り小さな器を2つ用意した女は、スープを取り分けた後に胸に下げたペンダントを握り、何かに祈るような仕草をしていた。
(この女、やはり修道女か何かなのだろうか)
魔神だ何だとよくわからないことを言うが、女の姿格好は地球のそれと酷似しているし、きっと何らかの宗教に属しているのだろうなどと考えながら、宗教などとは何の接点もない俺は木のスプーンでスープをすくい口の中に入れた。
その瞬間、俺に衝撃が走る。
「こ、これはっ!?」
「ひゃっ!?」
祈るために目をつぶっていた女が、俺の声に驚き小さな悲鳴を上げる。
だが俺にとってはそんなことどうでもいい。それよりも、もっと重要なことがある。
「申し訳ございません! お口に合わなかったのですね! ああ、私は何て事を! お許し下さい!」
違う。そんな事じゃない。
俺は女の言葉を否定するため首を横に数度振り、震える口で自分に起きたことをどうにか言葉にする。
「味が……」
「……え?」
「味が……するんだ……」
改造手術により失われた俺の味覚。
それが今、どういった訳か蘇っており、俺の舌は野菜のスープに付けられた薄い塩味を感じていた。
「え? その、味が濃すぎたのでしょうか?」
俺が何を言っているのかわからないという表情の女が見当違いのことを言う。
しかし俺はそれを否定することも出来ず、十数年忘れていたものを感じ、震えていた。
「魔神様!? いかがされたのですか!? あの、やはりお口に合わなかったのでは!?」
「……美味い」
「はい?」
俺は、ぽかんと口を開き、呆然とする女の目を見ながらもう一度はっきりと伝えた。
「美味い。こんな美味いものを食ったのは久しぶりだ。……感謝する」
小さく感謝の言葉を述べたあと、再度スープへとスプーンを差し込み、僅かに冷えてしまったそれをまるで宝物のように口の中に入れた。
そんな俺を女は目をぱちぱちと数度瞬かせた後、嬉しそうに微笑み、自分の分のスープを口にしたのだった。
俺にとって今後忘れることのできないであろう食事を終えた頃にはすっかり陽が落ちて辺りは暗くなっており、室内には女の用意した火のついた蝋燭の小さな灯りが揺れている。
普通の人間にとっては薄暗いだろうが、改造人間である俺にははっきりと見える部屋の中、食後にと用意された茶を飲みながら、俺は蝋燭の火を見つめていた。
食器を片づけ一息ついた女が席へと付いたのを確認し、俺はゆっくりと頭を下げる。
「先程も言ったが感謝する。美味かった」
「頭をお上げ下さい魔神様! 私などに勿体ないです!」
女の慌てた声を聞きながら頭を上げた俺は、有耶無耶になってしまっていた食事前の話を再開させるため口を開いた。
「すまないが、食前にも言った通り俺は魔神などではない。シャドウメタル……そして、人としての名を樹という。それが俺の本当の名だ」
「イツキ……様……」
女の言葉に反応するかの如く、蝋燭の炎がゆらりと揺れる。
普段の俺であれば、この誰ともしれぬ女に自分の名を明かすなど決してしなかっただろう。
だが食事が終わった今、俺はどこか入りすぎていた力を抜いていた。
俺の名を口にするこの女。こいつが誰なのかはわからない。だが、相手だってそうなのだ。
例え自分を助けたとは言え、俺のようなものにベッドを与え、食事を与えてくれた。
だから俺は一歩、自分から歩み寄ることを決めた。
「ああ。今度からそう呼んでくれ。それと別に様付けも必要ないんだが」
「いえ! それだけはお許し下さいイツキ様! しかし、イツキ様が魔神様でないと言うのは一体……?」
必死に懇願した後、質問してきた女の疑問に答える前に、俺は聞いておきたいことがあった為、そちらを先に聞いておこうと考える。
「まあ、お前がいいというならば構わんさ。それと、お前の質問の前に聞いておきたいことがあるんだが……」
「はい、なんでしょうか?」
「お前の名はなんだ?」
そう。俺はこの女の名をまだ一度も聞いていない。
別に無理やり聞き出すつもりはないが、知っていた方が質問もしやすく、今後のためにもなるだろう。
そんな簡単な考えだったのだが。
「―ーーーーーーーーーっ!!」
声にならない叫びというものを初めて聞いた俺は、どうしていいかわからずに尋ねた時に開いていた口を開けたまま女を見ていることしか出来なかった。
女は暫くバタバタと頭を下げたり目に涙を浮かべたり立ち上がったり座ったりとひとしきり暴れた後、凄い勢いでテーブルに頭を叩きつけるように下げ、叫ぶように言った。
「申し訳ございません! 自分の名前も出さず、イツキ様に促されてようやく気付くなど許されることではありません! この罰、いかようなものでもお受けいたします!」
「い、いや。それは別に構わんのだが。あー……それで、お前の名前は教えてもらえるんだろうか?」
俺の返事にテーブルに頭を付けたままの女は肩をビクリと震わせた後、蚊の鳴くような声で何かを呟いた。
「……ルと……」
「ると? ルトというのがお前の名か?」
俺が確認すると、頭は下げたまま首を横に振る。
そして、額をテーブルにこするようなその仕草にこの女の額は大丈夫なのかと少し心配に思っていると、今度ははっきりと口にした。
「ヘルと申します」
「ヘル。それがお前の名前なんだな?」
今度は頭を下げたまま、僅かに縦に動いたのがわかった。器用なものだ。
「……頭を上げてくれ、ヘル」
「…………」
俺の言葉にようやく顔を上げたヘルは、目にいっぱいの涙をたたえていた。
このままでは情報のやり取りに支障が出ると判断した俺は、先にヘルを安心させようと考える。
(とは言え、どうすればいい?)
戦闘ならば数多のパターンから最善手を選び取る自信はある。だが、こういった事態となると、何をどうしたらいいのか全く思い浮かばない。
必要のない情報を得ようとしなかった過去の自分を恨むが、後悔先に立たずとは正にこのこと。
しかし、このまま何もしないというのが悪手であることは流石の俺でも分かる。
ならばどうすればいい? 何をすればヘルを安心させられる?
「……はぁ」
「っ!」
行き詰まった思考に思わずため息を吐いてしまったのをヘルは敏感に察知し、突如席を立ち、俺に背を向けた。
「待て」
「ひうっ!?」
おそらく、俺が呆れているとでも思い逃げ出そうとでもしたんだろう。
走り出そうとしたヘルを捕まえた俺は、少しばかり考えた後、口を開いた。
「お前は一つ勘違いをしている」
結局、俺には正直に思っていることを相手に伝えることぐらいしか出来ない。
握ったヘルの震える手を離さないまま、考えていることをそのまま伝える。
「俺はお前に感謝している」
ヘル震えは止まらない。
俺はそんなヘルの震えを感じ、ようやく理解した。
彼女が何に怯え、震えているのかを。
「お前は……ヘルは俺が怖いか? あの天使とかいう奴らを殺した俺が怖いか?」
「そんなことっ! そんな事……ありません……」
ヘルは尻すぼみの反論を述べるが、目は俺の方を見ていない。
彼女の俺に対する一種の信奉のようなものは嘘ではないだろう。だがそれはとても歪なものに感じる。
恐らく彼女に自覚など無かったのだろう。
化け物に食われかけ、俺という訳のわからないものに助けられた。
彼女は恐らく、これまで戦いなどとは無縁の人間だったのだろう。そして、彼女にとって、あの状態は精神を極限まですり減らしたのだろう。
そんな状態で差し伸べられた俺の手を掴んだものの、その後の俺を見て彼女は感じたはずだ。
「正直に答えて構わん。俺は、お前が思うように、あの天使と変わりない化け物だ」
「違うっ! あっ……違い……ます……。 イツキ様は……イツキ様は私を助けてくださいました! 恐ろしい天使から守ってくださいました! イツキ様は……決して化け物などでは……そうです! やはりあなた様は魔神様なのです! きっと! きっと……!!」
化け物。
改造人間である俺は、苦しめてきた人々に幾度となくこの言葉を投げかけられた。
ふと、大地の顔を思い出す。
レギオンの行なった作戦の中に、シャイニングマンの信用を失わせるというものがあった。
その作戦において、レギオンの工作員の甘言に乗せられた人々に化け物と罵られ、疎まれ、蔑まれたシャイニングマン。
それでも人々のため立ち上がり、レギオンに立ち向かったあいつの強さはどれほどのものだったのか。
以前の俺ならば化け物と言われても何も感じなかった。鼻で笑い、「そうだ、化け物だ。それがどうした?」と返したこともある。
だが今の俺は、この知らない世界の中でようやく得ることのできた、人の温かみというものを失うのがとても怖い。
ヘルに気付かれないよう、ぎちりと奥歯を噛む。
俺の中の弱い心が囁く。
『怖がらせておけばいいじゃないか。怯えさせておけばいいじゃないか』
甘い蜂蜜のような言葉で心を侵す。
『俺は魔神だと言えばいい。なぁに、今ならまだ間に合う。そうすればこの女は、ずっとお前を慕うだろう?』
それは、お互いに恐怖し怯える俺と彼女にとって、なんと優しい嘘なのか。
だが。
「ヘル、お前に見て欲しいものがある」
「私……に?」
俺は自分の罪から逃げない。そう決めている。