一章‐歪な朝‐
夢を見た。
優しく微笑む両親の姿、用意された温かな夕食。
並べられている食事は全て私の好きなものばかりで、思わず涎が垂れる。
椅子には、女友達が笑いながら座っていて、私を手招きする。
待ってよ、今行くからさ。
私も笑いながらそれに駆け寄る。
幸せな、平凡な、良くある光景。
手を伸ばす。
待って、待って。
行かないで、私が行くまで待っててよ。お願い。ねえ、どこに行くの?
私を置いて、どこに行ってしまうの……?
「~~っ!」
目が覚める。冷める。醒める。
そこは、小汚い穴だらけのシーツが石の上に並べられただけの、ベット。
いや、ベットといってしまうのは誤解が生まれてしまうかもしれない。
ただの、場所。「寝る場所」だ。
ぽたりぽたりと雫が垂れ落ちる音が空しく響く。
目の前には、金属製の檻。
上を見上げると、そこには立派過ぎる蜘蛛の巣が張っていた。
起き上がる。
腰が痛い。足も腕も何もかも体中が痛い。
ちゃんと眠ったはずなのに、疲労も溜まっているように感じる。
こんな場所で眠ったのだ、眠ったという内には入らないのかもしれない。
動こうとすると、響く金属音。
手首と足首につながれた、長い長い鎖。
全てを拘束する、冷酷な鎖。
「あ、おはよ、紗希。どう? 良く眠れた?」
にっこりと優しげに、まるで紳士のように微笑む青年。
癖のある長めの柔らかな黒髪と、穏やかな漆黒の瞳。
長身で、ほっそりとした体に程よくついた筋肉。
スーツでびしっと決めたその姿は、仕事の良くできる真面目な会社員、と言った感じだ。
紗希は、その男を見て、くっと唇を噛んだ。
「……劣悪なこの環境で眠れる人がおかしいわ」
そう吐き捨てると、男は更に優しげに微笑む。
「だよねぇ。ま、でも結構慣れてきたんじゃない? いい子いい子。
じゃ、ほら、餌の時間だよ。適当に食べといて、ま、死なない程度に」
そう言って差し出される、小さなクロワッサン。隣にはコップ半分のミルク。
私はそれに手を伸ばし、ゆっくりと口に入れていく。
その光景は、さぞ滑稽で、さぞ惨めなのだろう。
しかし私にもう、プライドなど存在しない。無駄の誇りなど捨ててしまった。
あるのは生き残りたいという本能と、復讐がしたいという憎悪のみ。
私を突き動かすのは、それだけ。
「やっと食べてくれるようになったんだね~、そういえば。
最初はさ、俺見ただけで隅っこ行ってたのに。信用してくれたって事なのかなあ?」
男の言葉などに耳を貸さない。
ただひたすら、生きるための糧を口に入れては飲み込むという行為を繰り返す。
すると男はつまらなさそうに溜息をつくと、近くに置いてある椅子に腰を掛けた。
そして、足を組み新聞を広げる。
「わわ、俺のことまだ報道してるし。もう二年だっていうのに、こいつらもよくやるなぁ……。
って言うか、二年も経つのにまだ俺が犯人って事も分かってないのか。
警察も堕ちたって言うか何て言うか……幸か不幸か、いや幸か。
なーにが市民の味方だぁ。ねえ、紗希? あ、ゴメン餌の時間中に。
難航中……まあ好きにしてくれたらいいわけだケド。
ん~、これなら別に外に出ても大丈夫……いや、でも手は抜けれないなぁ……。
ま、いっか。あ、食べ終わった? なら、ほら、お仕事の時間」
そう言われ、檻が開かれる。
鎖を引かれ、歩かされる冷たい床。
裸の足が、床の冷気全てを吸い込んできて、思わず体が震える。
薄暗い廊下。あるのは今時珍しい石油のランプ。ただそれだけ。
金属の擦れ合う空しい音のみが、そんな空虚感溢れる廊下に響く。
ここが一体どこなのか。この男が一体何者で、何を考えているのか。
全く、私は知らされていない。知らない。知らなくていい。
知ったところで世界は変わらない。
知らなかったところで私の復讐は終わらない。
この世の中、そんなものだ。知らぬが仏、など、愚かな言葉でしかない。
知らなくったって、知っていたって、世界は回る。
たとえ苦しんでいようが、悲しんでいようが、世界は止まらない。
「はーい、お仕事スタートでーす。
今日はちょっと短めにするから、ま、安心して」
男はそう言って微笑む。
たかが仮面の、微笑みを。
鎖から解き放たれ、背中を押される。そして入れられた場所は――競技場。
並べられた武器の数々、そして檻の向こう、息を荒げるは囚人たち。
さあ、始まるよ。
歪な朝の、始まりだ。