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第1話「春の夜会の泥人形〜『土いじりしか能がない女』と笑われて〜」

 春の訪れを祝うオルコット侯爵家の夜会は、シャンデリアの煌めきと甘美な香水の匂いで満ちていた。

 その華やかな広間の中心で、私――フィーネ・ヴァルハイトは、婚約者であるセドリック・オルコット侯爵令息から、冷酷な宣告を突きつけられていた。


「フィーネ・ヴァルハイト! 今この瞬間をもって、貴様との婚約を破棄する!」


 音楽がピタリと止み、着飾った貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さる。

 セドリック様の隣には、私の異母妹であるミリアムが、勝ち誇ったような微笑みを浮かべて寄り添っていた。淡い桃色のドレスを纏ったミリアムの手には、彼女が魔力で今しがた咲かせたばかりの大輪の真紅の薔薇が握られている。


「セドリック様……どうかお鎮まりください。突然、婚約破棄だなんて、いったいどういうご事情でしょうか」


 私が努めて冷静に問いかけると、セドリック様は鼻で笑い、私の手元を指差した。


「事情だと? 自分のその手を見てみろ! 手袋の下はいつも土の匂いが染みつき、爪は短く切り揃えられ、指先には農夫のような硬いマメができている。貴様は伯爵令嬢でありながら、社交界の華となる努力もせず、来る日も来る日も畑の泥をこね回しているだけではないか!」


 周囲からクスクスと嘲笑が漏れた。

 確かに、私の指先には小さなマメがある。それは、ここ三年間、オルコット侯爵領の痩せた南部の農地を再生させるため、自ら現地へ赴いて土壌を調べ、農夫たちと一緒に堆肥を仕込み、排水路の設計図を引いてきた証だった。


 私が生まれつき授かった異能『土壌対話《ソイル・リーディング》』は、土に素手で触れることで、その土地の酸度や水分量、不足している養分、さらには土中に生きる小さな微生物たちの息吹までをも読み取る力だ。

 決して人前で派手な光を放つ力ではない。けれど、その力で作成した『オルコット領・五年周期輪作および土壌改良計画書』のおかげで、侯爵領の小麦の収穫量はここ三年で一・八倍にまで増えていたはずだった。


「セドリック様、私が畑に出ていたのは、すべてオルコット領の収穫を安定させるためです。本日お持ちした『オルコット領・五年周期輪作および土壌改良計画書』も、南部の連作障害を防ぐために不可欠なもので――」


「黙れ! 我が領地の豊作は、俺の優れた経営手腕と天候に恵まれた結果だ! 貴様が提出してくる泥臭い羊皮紙の束など、ただの自己満足に過ぎん!」


 セドリック様は私の手から、三ヶ月かけて書き上げた分厚い計画書を乱暴に奪い取った。

 そして、隣に立つミリアムの肩を優しく抱き寄せる。


「見ろ、ミリアムのこの美しく高貴な力を! 彼女は種に魔力を注ぐだけで、一瞬にしてこれほど見事な薔薇を咲かせることができる『花の乙女』だ。泥にまみれて何ヶ月も待つしか能がない貴様とは、生まれ持った格が違うのだよ!」


 ミリアムが困ったように眉を下げながら、私にだけ見える角度で嘲笑的な視線を送ってきた。


「お姉様、ごめんなさいね。でも、セドリック様の隣に立つ未来の侯爵夫人には、泥んこの長靴よりも、美しい花を咲かせる魔術の方がお似合いなのよ。お姉様の書いた小難しい農作業メモなんて、暖炉の焚き付けにしかならないわ」


 そう言って、セドリック様が私の計画書を広間の大暖炉へと放り投げようとした、その時だった。


「――そこまでにしてもらおうか。その羊皮紙を灰にするなら、俺が金貨百枚で買い取ろう」


 低く、それでいて広間の空気を瞬時に凍りつかせるような凛とした声が響き渡った。

 群衆が怯えたように左右へ割れ、そこから一人の長身の青年が歩み出てくる。

 夜の闇を溶かしたような黒髪に、氷河を思わせる鋭い氷碧《ひょうへき》の瞳。黒地に銀糸の刺繍が施された軍服風の礼装を纏ったその人物を見て、会場の貴族たちが息を呑んだ。


「グ、グレンツ辺境伯……!? なぜ『北の氷狼』がこのような場に……!」


 セドリック様の顔からサッと血の気が引いた。

 アシェル・フォン・グレンツ辺境伯。王国の北端、魔獣が跋扈し凍てつく風が吹き荒れる過酷な国境地帯を一手に守護する、王国最強の武人である。王都の夜会には滅多に顔を出さないはずの彼が、なぜ今ここにいるのか、私にも見当がつかなかった。


 アシェル様はセドリック様の手元から、驚くほど素早く、しかし紙を一切傷つけない丁寧な手つきで私の計画書を取り上げた。

 そして、パラパラとページをめくり、その氷碧の瞳に深い感嘆の色を浮かべた。


「酸性土壌の中和比率、マメ科植物を用いた休耕地の地力回復、それに暗渠排水の構造図……。やはり噂以上の精度だ。これほど緻密で実践的な農政書を『焚き付け』と呼ぶとは、オルコット侯爵家はよほど目が曇っていると見える」


「なっ……! 辺境伯閣下、それはただの土いじりの記録で――」


「黙れ。俺は貴様に話しかけていない」


 アシェル様の冷たい一瞥に、セドリック様は喉を詰まらせて後ずさった。

 そのままアシェル様はくるりと踵を返し、呆然と立ち尽くす私の前へと歩み寄った。そして、周囲の貴族たちが目を剥く中、なんとその場で片膝をつき、私の手袋を外した素手を――セドリック様が「農夫のようだ」と蔑んだその手を、両手で恭しく包み込んだのである。


「フィーネ・ヴァルハイト嬢。突然の非礼を許してほしい。俺は三年前、オルコット侯爵領の外れにある農村を視察した際、豪雨の中で泥だらけになりながら農民と共に用水路の堰《せき》を守っていた君の姿を見て以来、ずっと君の聡明さと誠実さに心を奪われていた」


「え……? あ、あの時の……」


 記憶の片隅が鮮やかに蘇る。三年前、冷たい雨の中で水路の補強をしていた私に、無言で自分の防水外套をかけて立ち去った黒髪の騎士がいた。あれが、アシェル様だったというのだろうか。


 アシェル様は私の指先にある小さなマメに、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと自身の額を寄せた。


「この手は、大地を愛し、人々の命を繋ぐために尽くしてきた、世界で最も美しく誇り高い手だ。オルコット侯爵家が君の価値を理解できないというのなら、どうか俺の元へ――グレンツ辺境伯領へ来てはくれないか。俺の妻として、そして我が領地を導く唯一の伴侶として、君を迎えたい」


 広間中が水を打ったように静まり返った。

 その時、群衆の後ろから私の父であるヴァルハイト伯爵が慌てて飛び出してきた。


「め、滅相もございません辺境伯閣下! このような泥臭い出来損ないの娘は、今夜限りで我が家からも勘当するところでございます! どうかお気になさらず、お好きに連れ去ってくださって構いません!」


 オルコット侯爵家の機嫌を損ねることを恐れた父は、あっさりと私を切り捨てた。

 ミリアムも「ええ! 寒くて貧しい北の果てなんて、泥まみれのお姉様にぴったりですわ!」と甲高い声で笑っている。


 けれど、今の私の心には、不思議と悲しみも絶望もなかった。

 代わりにあったのは、私の努力の結晶である計画書を大切に胸に抱き、私の手を温かい掌で包んでくれる目の前の青年の、真っ直ぐで誠実な瞳だけだった。


「アシェル様……。私には、夜会で華やかな花を咲かせる魔術はありません。ドレスよりも作業着の方が似合う、本当に土いじりしか取り柄のない女です。それでも、よろしいのですか?」


 私が尋ねると、冷徹と恐れられる『氷狼』の口元が、ほんのわずかに、雪解けのように柔らかく綻んだ。


「それこそが、俺が誰よりも望んだ君の姿だ。来てくれるか、フィーネ」


「……はい。喜んで、あなたと共に参ります」


 私が頷くと、アシェル様は力強く立ち上がり、私の肩に自身の銀刺繍の外套を羽織らせた。

 振り返ることなく広間を後にする私たちの背後で、セドリック様とミリアムが何かを叫んでいたが、彼らはまだ知る由もなかった。

 私が残してきた『今年度の土壌計画』なしに、ミリアムの略奪的な開花魔術を使い続ければ、オルコット侯爵領の肥沃な大地がどれほど恐ろしい末路を辿ることになるのかを。

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