盗作者の鏡
盗作者の鏡
大学のカフェテリアは、昼休みの喧騒に包まれていた。
プラスチックのカップに入ったアイスコーヒーのストローを弄りながら、僕は目の前に座る同期の女子大生――美咲の感嘆の声を浴びていた。
「すごいね、直樹くん。昨日公開されたばかりのあの映画、そんな見方ができるなんて思わなかった。単なる恋愛ものじゃなくて、現代社会の閉塞感のメタファーになってるなんて……」
「まあね。映像の美しさに誤魔化されがちだけど、監督の過去作の文脈から読み解けば、あのラストシーンがどれだけ残酷な暗喩を含んでいるか分かるはずだよ」
僕は足を組み直し、少しだけ顎を引いて、知的な笑みを浮かべてみせた。
「表層的なストーリーだけ追って『感動した』で終わらせるのは、もったいないよ。映画はもっと、深層のメッセージを汲み取らないと」
「ふふっ、直樹くんって本当に視点が鋭いよね。なんか、プロの映画評論家みたい」
美咲が熱を帯びた瞳で僕を見つめてくる。僕はその視線を心地よく受け止めながら、テーブルの下でスマートフォンの画面をそっとスワイプした。
画面に映っているのは、チャンネル登録者数五十万人を超える有名な映画評論系YouTuberの動画の書き起こしサイトだ。僕が今さっき美咲に向けて語った「現代社会の閉塞感」も「ラストシーンの残酷な暗喩」も、一言一句違わず、そのページに書かれている。
だが、そんなことは関係ない。ネットの海に漂う無数の情報から「正解」を拾い上げ、絶妙なタイミングで自分の言葉として発信する。これも一つの才能だ。他人の知恵を拝借して優越感に浸るのは、僕にとってたまらなく甘美な麻薬だった。
「――直樹は本当に、『インプットしたものを自分の形にする』のが上手いよな」
突然、横から投げかけられた声に、僕は心臓が跳ね上がった。
隣の席に座り、それまで黙ってサンドイッチを食べていた真司が、目を細めて僕を見ていた。
「まるで『あらかじめ完成された台本』があるみたいに、完璧な感想だ」
「……どういう意味だよ」
僕はスマートフォンの画面を咄嗟に伏せながら、不機嫌な声を出した。
真司は幼稚園からの幼馴染であり、僕の「親友」を自称する男だ。昔からスポーツも勉強もそつなくこなし、顔立ちも整っていて、誰とでもすぐに打ち解ける。僕が何十時間もかけて理解するものを五分で理解し、僕が必死に練習してもレギュラーになれなかったサッカー部であっさりとエースストライカーになった。
「いや、褒めてるんだよ。直樹の言葉って、いつも寸分の狂いもなく綺麗だからさ。俺にはそういう言語化能力がないから、羨ましいよ」
真司は無邪気な笑みを浮かべてコーヒーを飲んだ。
その笑顔の奥に何か見透かすような冷たさを感じた気がしたが、美咲が「真司くんもそう思うよね!」と同意したことで、僕は「単なる嫉妬と称賛」として受け取ることにした。
何でも持っている真司でも、僕の「知的な思考力」には勝てないのだ。
――もちろん、それがハリボテの知性であることは、僕自身が一番よく分かっている。
僕の心の奥底には、常に真司に対するドロドロとしたタールのような劣等感が沈殿していた。だからこそ、僕には「本当の自分の才能」を証明できる領域が必要だった。
それが、小説の執筆だった。
高校に入学した直後から、僕は密かに小説を書き始めた。誰にも――とりわけ、真司にだけは絶対に秘密にして。いつか大きな新人賞を獲って、「実は俺、小説家デビューすることになったんだ」と真司を見下ろす。それが僕の最大のモチベーションだった。
だが現実は甘くない。投稿を始めてから三年。僕の作品は、ただの一度も一次選考を通過したことがなかった。
「あ、美咲ちゃん。次の講義、教室移動しなきゃだね」
「本当だ。じゃあ直樹くん、真司くん、またね」
美咲が去り、カフェテリアのテーブルには僕と真司だけが残された。
僕は伏せていたスマートフォンをポケットにしまい、立ち上がろうとした。その時だ。
「直樹。実はお前に、読んでほしいものがあるんだ」
真司が鞄から銀色のUSBメモリを取り出して、テーブルの上に置いた。
「何これ。卒論のデータ?」
「いや……実は俺、最近小説を書いてみたんだよ」
空調の音が、ひどく遠く聞こえた。
真司が、小説を?
「今度、有名な新人賞に応募してみようかと思ってさ。直樹、昔から本よく読んでただろ?」
真司は悪びれもなく続けた。
「お前ってさ、昔からノートびっしりに書くくらい勉強熱心だろ? お前なら、的を射た批評してくれると思ってね」
背筋に冷たい汗が伝った。それは人目を盗んで僕が書いていた設定ノートだ。まさか真司兒見られていたとは思わなかった。自分の才能のなさに絶望して、家のゴミ箱に丸めて捨ててしまった。中身は知られているのだろうか。いや、ただノートに向かっている姿を見られていただけだろう。
「……別に、たいしたことは書いてないよ。ただの落書きだ」
僕は平静を装いながらUSBメモリを受け取った。手の中で、それは氷のように冷たく感じられた。
「わかった。素人の僕でよければ読んでみるよ。あんまり期待しないでくれよな」
「ありがとう! 時間のある時でいいからさ!」
屈託のない笑顔を見て、僕は吐き気にも似た感情を飲み込んだ。
大丈夫だ、と僕は自分に言い聞かせた。小説はそんなに甘いものじゃない。いくら何でも器用にこなす真司とはいえ、文章力や物語の機微を一朝一夕で身につけられるはずがない。どうせ、どこかのラノベをツギハギしたような、薄っぺらい模倣だろう。
しかしその夜。自分のアパートに帰り、ノートパソコンにUSBメモリを挿し込んだ僕は、数時間後、絶望の淵に立たされていた。
――面白い。
圧倒的に、残酷なまでに、面白かった。
冒頭の一行から物語の世界に引きずり込まれた。無駄のない美しい情景描写、息遣いまで聞こえてきそうな魅力的なキャラクター、そして何より、僕が三年かけても到達できなかった「読者の心を揺さぶる感情のうねり」が、そのテキストファイルには完全に表現されていた。
そして、何より僕を打ちのめしたのは、その物語から感じる「奇妙な一体感」だった。
まるで僕の脳髄を直接覗き込まれ、僕が「本当はこう書きたかった」と無意識に願っていた理想の物語を、寸分違わず言語化されたような心地よさ。僕の未熟な頭脳では形にできなかった思考の破片が、完璧な彫刻としてそこにある。
だからこそ、死ぬほど悔しかった。
読み終えた時、僕の顔は涙と冷や汗でぐしゃぐしゃになっていた。
感動したからではない。僕が血を吐くような思いで積み上げてきた三年間は、真司の暇つぶしにも満たなかったという事実を突きつけられたからだ。
僕の最後の聖域すら、あいつは一瞬で奪っていくのか。
パソコンの画面に映る『白夜の残響』というタイトルのその傑作を睨みつけながら、僕の中で、どす黒い感情が理性を食い破っていくのを感じた。
翌日。僕は再び真司とカフェで向かい合っていた。
「もう読んでくれたのか。……やっぱり、素人がいきなり書いたものじゃダメだった?」
不安そうに僕を見つめる真司。
その顔を見た瞬間、僕の口から、氷のように冷たい言葉がスラスラとこぼれ落ちた。
「率直に言っていいか?」
「う、うん」
「手垢のついた、ありきたりな内容だったよ」
真司の肩がビクッと跳ねた。僕は構わず続けた。
「設定もどこかで見たようなものばかりだし、何よりキャラクターの心理描写が浅い。ただストーリーをなぞっているだけで、人間が描けていないんだ。まあ、初めて書いたにしては文章はまとまってると思うけど、新人賞に応募するレベルには到底達してない。審査員に読まれる前に、下読みの段階で撥ねられるよ」
自分でも驚くほど、流暢な嘘だった。
僕の言葉を聞くたび、真司の表情から光が失われていく。その様を見るのは、麻薬のような甘い優越感を僕に与えてくれた。
「……そっか。やっぱり、そう思う?」
「厳しいことを言って悪いな。でも、お前のためを思って言うんだ」
「ううん、謝らないで。変に自信を持って応募して、落選して落ち込むよりずっといいよ。……そうだな。賞に出すのはやめておくよ」
真司は寂しそうに笑うと、僕が返したUSBメモリを手に取った。
勝った。あの完璧な真司に、僕の得意分野で引導を渡してやったのだ。僕の聖域は守られた。
そう思った直後、真司がふと顔を上げた。
「なあ、直樹」
「ん?」
「この設定、直樹が代わりに使ってみないか?」
「……は?」
「俺には才能がないって分かった。でも、このキャラクターたちには愛着があるんだ。このままパソコンのゴミ箱に入れるのは可哀想でさ」
真司は、すがるような目で僕を見た。
「直樹はいつも、他人の意見や情報を、すごく綺麗に『自分の言葉』にできるだろ? 俺の不完全なアイデアも、直樹のセンスなら、きっと面白い作品にできる。好きに改変していいから、俺の代わりにこいつらを活躍させてやってくれないか?」
心臓が、大きく一つ鳴った。
真司は、自ら僕に「権利」を譲ると言ったのだ。
僕の脳内で、いつもの悪癖が鎌首をもたげた。映画のレビューを自分のものにしたように、あいつの不完全なアイデアを、僕の圧倒的な筆力で「完璧な僕の作品」に昇華させてやればいい。僕がいなければ世に出ない物語なのだ。これは盗作じゃない。僕というフィルターを通した、正当なブラッシュアップだ。
「……まあ、気が向いたらな」
僕は、必死に口角が上がるのを抑えながら、そう答えた。
その日から、僕は憑かれたように真司の原稿を弄り始めた。
一から自分の文章で書き直すつもりだった。しかし、いざWordを開いても、真司の書いた元の文章が完璧すぎて、直すべき箇所がどこにも見当たらないのだ。
結局、僕がやったことといえば、主人公の名前を少し変え、語尾のニュアンスを微調整し、表面的な体裁を整えることだけだった。
タイトルを『極夜の調べ』と変え、最後に「作者:吉野直樹」と打ち込む。
そして、その年の新人賞のWeb応募フォームから、送信ボタンを押した。
罪悪感はなかった。僕は、友人が見捨てたゴミの原石を拾い上げ、光を当ててやっただけなのだ。
数ヶ月後、秋になった。
大学のキャンパスで真司とすれ違った際、僕は探りを入れるように尋ねてみた。
「そういえば、あの小説のデータ、どうした?」
「ああ。直樹に言われて恥ずかしくなっちゃってさ。あんなの、すぐに消しちゃったよ。俺には向いてないや」
「そうか。まあ、人には向き不向きがあるからな」
完璧だ。証拠は完全に隠滅された。これで僕が受賞しても、真司がそれに気づく可能性はない。
そして今日。新人文学賞の最終選考結果の発表日。
僕は自室のパソコンの前に座り、心臓を早鐘のように打たせながら、賞の特設サイトを開いた。
一次選考、二次選考、そして最終選考と、僕(というより真司)の作品は順調に通過していた。選評でも「圧倒的な筆力」と絶賛されていた。
今日、僕は小説家になる。真司を見下ろすことができる側の人間になるのだ。
更新ボタンを押す。
画面が切り替わり、『第42回 新人文学賞 受賞作発表』の大きな文字が目に飛び込んできた。
僕は息を呑み、画面をスクロールした。
【大賞】
『模倣者のパレット』
作者:秋山 真司
思考が、停止した。
秋山真司。間違いなく、親友の名前だ。
しかし、タイトルが違う。僕が応募した『極夜の調べ』でもなければ、真司が名付けた『白夜の残響』でもない。
いや、そもそも、どうして真司の名前が大賞の欄にある?
震える手で、僕はその『模倣者のパレット』のあらすじと、審査員による選評に目を落とした。
『――他人の言葉を「自分の意見」として語ることに快感を覚える悪癖を持った青年。彼は、友人が書いた原稿を「ありきたりだ」と酷評して諦めさせ、あろうことか自分の作品として新人賞に応募する。本作は、そんな剽窃者の醜悪で滑稽な自己正当化の過程を、恐ろしいほどの解像度で描き出したサイコ・スリラーである。人間の抱える矮小なプライドと、狂気に至るまでの緻密な心理描写は圧巻――』
画面の文字が、ぐにゃりと歪んだ。
なんだこれ。
肺から酸素が抜けていくような錯覚に陥り、僕は椅子から転げ落ちた。
『他人の言葉を自分の意見として語る』
選評のその一文が、警報のように脳内でリフレインする。
……最初から、見透かされていた?
僕がネットの意見を盗み読みして語っていたことも。それを指摘せず、知らん顔で笑っていたことも。
あいつが僕に見せたあの原稿は。
『俺の代わりに使ってくれないか』と、優しく権利を譲ってくれたあの言葉は。
全部、僕をこの盤上に引きずり出すための――。
胃の内容物が込み上げてきて、僕は床に這いつくばってえずいた。
僕の人生を、あいつは小説の「ネタ」にしたのだ。
スマートフォンが震えた。
画面を見ると、LINEの通知が一件。差出人は真司だった。
僕は震える指で画面をタップした。そこには、純粋な悪意よりも恐ろしい、無邪気な残酷さが綴られていた。
『直樹、サイト見た? 大賞獲れたよ!
直樹のことを見て、この主人公を思いついたんだよね』
……やっぱりだ。僕は真司の手のひらの上で踊らされていたのだ。
だが、絶望はそこで終わっていなかった。
次の吹き出しを読んだ瞬間、僕の視界は完全に暗転した。
『あ、そうそう。俺が見せた『白夜の残響』だけど、あれ、お前の小説だよ』
「は?」
乾いた声が、誰もいない部屋に落ちた。
僕の小説? どういう意味だ。あれは真司が書いたものだろう。僕が嫉妬で気が狂いそうになった、あの完璧な――。
『まさか気付かずにそのまま盗作するとはね。まぁそのおかげで小説書けたんだけど』
呼吸が、止まった。
頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、ひび割れた音を立てて組み合わさっていく。
(お前ってさ、昔からノートびっしりに書くくらい勉強熱心だろ?)
真司の言葉がフラッシュバックする。
僕が最初に小説の設定や世界観を書き殴り、自分の才能のなさに絶望して、ゴミ箱に丸めて捨てたあのノート。
まさか。あいつ、あれを拾って。
僕は、真司の原稿を初めて読んだ夜のことを思い出した。
『まるで僕の脳髄を直接覗き込まれ、無意識に願っていた理想の物語を、寸分違わず言語化されたような心地よさ』
――当然だ。
あれは他の誰でもない、僕自身が産み落とした物語の骨格だったのだから。
真司は、僕が捨てた原石を拾い上げ、ただ表面の泥を払い、文章を少しだけ綺麗に整えて僕の前に置いただけだったのだ。
僕は、他人の名前(真司)が冠されているというだけで、自分自身の生み出した物語を「手垢のついたありきたりな内容だ」と酷評し、嘲笑したのだ。
そして挙句の果てに、自分の作品を「他人のもの」だと思い込んだまま、泥棒のようにコソコソと盗み出した。
ああ、なんという――なんという滑稽で、醜悪なピエロだろうか。
「な、なんだよぉ、こいつぅ……」
スマートフォンの画面に水滴が落ちた。
喉の奥から、獣のような、ひゅるりとした悲鳴が漏れた。
僕は、真司から才能を奪ったのではない。
僕は、僕自身から物語を盗み、そして自分の手でそれを永遠に日の目を見ることのない汚物へと変えてしまったのだ。
画面の向こうで、真司がにやにやと笑っているのが見えた。
もはやどちらが真の盗作者なのかすら分からないまま、僕の精神は深い暗夜の底へと沈んでいった。
ぴこん。
無機質な通知音が、静まり返った部屋に響いた。
震える指の先に、真司からの「最後の言葉」が浮かび上がる。
『全てを理解した主人公は、涙を流しながら親友に「おめでとう」ってメッセージを送るんだよね』
ボロボロと溢れる涙で霞む視界の中。
僕は促されるままにメッセージアプリの入力欄をタップし、まるで操り人形のように、冷たい画面へと指を落とした。
『お』




