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今日は、歯が磨けた

作者: 柑橘系蜜柑

 朝8時。

 スマートフォンのアラームが、いつもの電子音を繰り返している。

 止めようとは思わない。布団の中から、その小さな四角を、ただぼんやりと眺めていた。


 カーテン越しの光はやわらかく、騒音のない部屋は、時間が止まったように静かだった。

 今日が何曜日か、すぐには思い出せない。けれど、たぶん関係ない。昨日も、一昨日も、何もなかったから。


 やがてスマホが自動的に音をやめる。

 静寂が戻ったのに、それでも起き上がる気にはなれなかった。


 ──時間の感覚はあいまいだった。

 気づけば、時計の短針は10を指していた。


 部屋の空気が、じっとりと肌に張りつく。

 寝汗か。シャツが気持ち悪い。でも、着替える気力はなかった。


「あぁ……何か食べないと」


 ぽつりと呟いた声が、自分のものに思えなかった。

 喉の奥が乾き、胃の底が鈍く痛む。空腹なんだろう。それくらいはわかる。


 ゆっくりと、両手で布団を押して、上半身を起こす。

 それだけで、視界が揺れた。


 動けない。

 脚が鉛のように重く、腰のあたりに力が入らない。

 何もしていないのに、息が上がりそうだった。


 それでも、ほんの少し前傾した自分の影が、カーテンに映っている。

 ああ、生きてるんだな。──それだけを、ぼんやりと確認する。


 脚の感覚は鈍く、立ち上がるまでに何度も息を整えた。

 目眩はない。けれど、目の前がかすむのは疲労か、睡眠不足か、それとも単なる栄養不足か。


 壁に手をつきながら、キッチンまでに三度立ち止まった。

 途中、床に落ちているレシートの切れ端を踏む。それすら拾う気にもなれない。


 冷蔵庫を開ける。中には、数本の高カロリードリンクと、常温でも食べられるゼリーがいくつか。

 それだけは切らさないようにしていた。栄養を取らなければ死ぬことは知っていたし、死ぬのは──まだ早いと、どこかで思っていた。


 ガイアは、一本のパックを取り出し、冷えたままのそれを無言で開けた。

 甘ったるい液体が喉を通るたび、胃が鈍く重くなる。だが、少しだけ楽になった気もした。


 続けて、ゼリーをひとつ。

 食事というより、燃料投下。

「食べた」という事実が欲しいだけ。


 小さなため息が漏れる。

 空になったパックとゼリーの容器を、流しに置く音が、やけに大きく響いた。


 食後のルーチンのように、洗面所へ向かう。

 蛇口をひねると、しばらくのあいだ水が出ず、空気がふっと押し出される音がした。

 ようやく流れ出した水を手ですくい、口をゆすぐ。


 鏡の中の自分は、髪がぼさぼさで、頬が少しこけていた。

 それを見ても、驚きもしない。毎日じゃない。毎週でもない。──たまに、自分の顔を確認したときだけ気づく。


 歯ブラシに、残っていた歯磨き粉を絞り出し、磨く。

 口の中がすっきりするのは、数日ぶりだ。

 この感覚だけは、少しだけ「生きてる」と思える。


 磨き終えたあと、ふと洗面台の上に置きっぱなしだった通帳に目が留まった。

 無意識に手に取り、ページを開く。


 ──静かに減っていく残高。


 数ヶ月前までは、まだ少し余裕があった。

 今は、家賃と光熱費を払えばほとんど残らない。


 働ける状態じゃないことは、自分が一番よく知っている。

 頭も身体も、動かない。理由は言えない。言ったところで、誰も聞かない。


「あと……どれくらいだろう」


 声に出したところで、誰も答えはくれない。

 けれど、通帳は黙って事実だけを突きつけてきた。

 あと数ヶ月。いや、もっと早く詰むかもしれない。


 指先でページの端をなぞりながら、ガイアはゆっくりとベッドに戻った。


 通帳を閉じ、乱雑な枕元に放る。

 静かに沈み込むようにベッドに座り込み、そのまま後ろに倒れた。


 天井を見ていたはずが、いつのまにか視線は窓へ向かっていた。

 カーテンは閉め切っていたが、隙間からわずかに外の光が漏れている。


 腕を伸ばして、重いカーテンを少しだけ引く。

 窓の外には、特別なものはなかった。

 くすんだアパートの外壁、駐輪場、風に揺れる洗濯物、遠くで鳴る車の音。


 どれも、自分とは関係ない。

 ──けれど、それでも目を逸らせなかった。


「いいな、動いてて」


 そう呟いたのか、思っただけなのか、自分でもよくわからなかった。


 外の景色は、変わらず生きていた。

 自分が取り残されたままでも、空は、風は、光は、誰にも止められずに流れていく。


 目を細め、わずかに空の青さを確かめたあと、またカーテンを閉じた。


 暗がりに戻った部屋が、なぜか少し安心できた。

 窓を開けたわけでもないのに、どこか肌寒く感じて、ガイアは布団を引き寄せた。


 足元に置いていたスリッパを、つま先でぐいと履く。

 布団のぬくもりが急速に失われ、かわりに床の冷たさが指先に伝わる。

 ガイアは一度だけ小さく息をついた。深呼吸というより、気合いという言葉に近い。


 玄関の扉を開けると、外の空気が薄く漂い込む。

 そこまで寒くはない。けれど、思ったよりも世界は明るくて、少しだけ目を細めた。


 ポストは、アパートの一階にある集合型のもの。

 無造作に名前の札が剥がれた投函口に、自分の部屋番号がかすれて残っている。

 鍵はもう壊れていて、軽く押すだけで開いた。


 中には、色とりどりのチラシや封筒が、押し込まれるように詰まっていた。

 ──一ヶ月ぶり、いや、もっとかもしれない。

 指先を突っ込んで、中身を無造作にかき出す。


 スーパーの特売、怪しい不動産、インターネットの乗り換え案内。

 封筒の形をしていても、中身は保険かローンの勧誘だ。

「誰かからの手紙」なんて、もう何年も受け取っていない。


 一枚一枚、確認することなく近くのゴミ箱へ放り込む。

 パンパンに膨れた紙袋の隙間に、それらは音もなく吸い込まれていった。

 最後に、何も入っていないポストの中をもう一度のぞく。

 空っぽだった。初めから何もなかったかのように、きれいだった。


「うん……知ってた」


 小さく呟いて、ポストをそっと閉める。

 何かを期待していたつもりはない。

 ──でも、ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ、心が沈む音がした。


 二階の隣室、薄い壁一枚隔てた先から、笑い声が漏れてきた。

 テレビだろうか。それとも来客か。

 はっきりとは聞き取れないが、複数の声が交錯する音。


 何かが焼ける匂いが風に乗って届き、ガイアは思わず顔をそむけた。

 誰かの生活の匂い。温かい日常の残り香。

 それが、どうしようもなく不快だった。


 部屋に戻るなり、ガイアはカーテンを引き、玄関の鍵を閉め、布団に潜り込んだ。

 腹はまだ重く、身体は少し冷えている。

 けれど、考えるのも、動くのも、疲れていた。


 耳に残る笑い声が、いつまでも頭の奥で反響していた。

 うるさい。黙れ。

 ──そんな言葉すら声にできず、背を向けるように丸まった。


 眠れるかどうかはわからない。

 ただ、目を閉じて音を遮るしかなかった。


 布団のなかで、小さく呟く。


「……今日は、歯を磨けたから……いい」


 それだけを心の支えに、ガイアはまぶたを閉じた。

※本作は長編『クイーンズサーヴァント』の登場人物・ガイアの過去を描いた短編です。

本編を知らなくても読めますが、彼をもっと知りたい方はこちらからどうぞ。

▼本編はこちら(URLをコピーしてお使いください)

https://ncode.syosetu.com/n5359jg/

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