第二話:筆の影、仮面の下
月の光が射し込む廊下の隅、緋燕は息を殺して立ち尽くしていた。
夜の後宮は静寂に包まれている。だがその沈黙は、決して安らぎではない。耳を澄ませば、どこか遠くで水が滴る音、風に揺れる簾の軋み、そして――足音。
(――来た)
緋燕は、袖の中から巻紙を取り出した。それは彼女が命懸けで書いた密書。華陽妃の毒殺と、用いられた“藤花毒”の詳細、そして容疑者の候補を書き記したものだ。
向かうのは、後宮の北端にある古びた石灯籠。筆を象った飾りが頂部に施されたそれは、かつて文官たちの「投書口」として使われていたという。
現在は誰も見向きもしない、影の文の投下場所――“筆の影”と呼ばれる秘密の報告口だ。
緋燕は周囲に目を配り、誰もいないことを確認すると、素早く石灯籠の裏側へ身を滑らせる。そこには小さな隙間が空いていた。
巻紙を差し込み、確実に内部に落ちたことを確認したそのとき――
「……待て」
背後から声がかかった。
緋燕は一瞬で体を翻し、懐に短匕を滑り込ませる。
だが現れたのは、見慣れない宦官風の少年――いや、よく見ればあまりに整いすぎた顔立ちに、声にはどこか違和感がある。
(女……?)
「見かけない顔だな。何をしていた?」
「香炉を掃除していた。……命じられていたのでな」
緋燕もまた、男のように低い声で応じる。
二人の視線が交錯する。互いに“何かを隠している”と即座に悟ったのは、経験のなせる技だ。
「……名は?」
「瑠山」
「……」
相手はしばらく黙ったあと、ゆっくりと引いた。
「この道は夜に歩くものではない。……気をつけろ、宦官殿」
言い捨てて、彼女は背を向けた。
緋燕は目を細めながら、その後ろ姿を見送る。
(あれは……“同類”だ)
偽りの性、偽りの身分。
後宮は、仮面をかぶった者たちの巣窟。
だが、自分と同じく“本当に男ではない宦官”に出会うとは思わなかった。
闇の中、互いの仮面を察しながら、二人の“夜鶯”がすれ違った。