第一話:宦官見習い、毒殺現場に立つ
後宮・華陽院
「おい、おまえ、顔を上げるな。女官様のお通りだ」
しなるような竹の棒で背中を叩かれ、緋燕は無言のまま膝をついた。
ここは、華陽妃の住まう離宮。
宦官見習いである緋燕の役目は、炊事場の手伝いと掃除、そして妃の衣の管理。
「……ちっ、女の世界ってやつは、息が詰まるわ」
誰にも聞こえないように小声で呟き、緋燕は立ち上がる。
腰には細い筆と、墨壺。実はそれこそが、彼女に与えられた“真の任務”だった。
──後宮内で起きる“不自然な死”や“密書の流通”を、調査・報告せよ。──
主命に背いた盗賊は、捕まれば死。
緋燕に選べた道は、ただ一つ。**「宦官になりすまし、内偵として仕える」**ことだった。
その夜。
「……毒殺だ」
その声は、宮中にあるまじき冷たさを帯びていた。
華陽妃が、今朝方就寝中に亡くなったという報が届いたのは、ほんの数刻前。
表向きには「心臓発作」。
だが、緋燕は密かに寝所に潜り込み、彼女の寝具や湯盆、香炉を調べていた。
「これは“藤花毒”。皮膚から吸収する気脈封じ毒。……あんた、どこで手に入れたの?」
毒の痕跡は、枕の刺繍糸に潜んでいた。
淡い藤色。わずかに香る花油。見抜ける者など、この後宮にどれだけいるか。
「これを知ってるってことは、毒師か、元盗賊、あるいは──宮廷の誰か、か」
緋燕は小さく筆を走らせ、“調査報告”を書簡に記した。
【案件:華陽妃死亡事案】
・死因:藤花毒
・媒介:枕の縫糸
・使用者:内部犯行の可能性濃厚
・容疑対象:縫女、香調係、侍女(詳細別送)
報告を終えた直後だった。
「宦官。何をしている」
振り返ると、そこに立っていたのは**禁軍司令官・蒼璟**だった。
身の丈六尺、凍りつくような視線。
そして、腰に佩くのは後宮では異例の【真剣】。
「夜更けに寝所へ忍び込み、なぜ香炉を嗅いでいた? 返答によっては打ち首だ」
緋燕は、ほんの僅かに口角を上げた。
この男が危険な存在であることは最初から知っていた。
だが彼女は、宦官らしい“平坦で陰のある声”で答えた。
「……妃様の衣を取りに参りました。香の確認は、異臭がしたため。誠に、何も知りませぬ」
「嘘だな」
蒼璟は一歩近づき、緋燕の顔を見つめた。
その眼差しは、まるで“仮面の下”を暴こうとするようだった。
「……その目。まるで“獲物を測る盗人”のようだ」
緋燕は、心の中で舌を打った。
(こいつ、勘が鋭すぎる……)
「名は?」
「瑠山です。宦官見習い、下の者」
「……覚えた。二度と目の前に現れるな」
蒼璟はそれだけ言って、去っていった。
だが緋燕には分かっていた。
――この男は、“何かに気づきかけている”。
その夜、緋燕は筆を取り、密書を書き上げた。
【報告:後宮内、毒殺により1名死亡。使用毒は藤花。犯人はおそらく――】
【次の標的が、すでに動いている気配あり】
そして、筆を止める前に小さく、独り言のように呟く。
「……ねぇ、兄さん。あの時、どうしてあんたは後宮で死んだの?」
緋燕が“夜鶯”としてここに来た、本当の理由。
それは、兄の死の真相を突き止めることでもあった。
後宮に仕掛けられた“毒と密書と死”。
そのすべての糸が、静かに緋燕を絡めとっていく。