第十話:間者の微笑
夜――薄明かりの中、緋燕は、ある決断を胸に鴇英を呼び出した。
場所は、かつて兄がよく通ったとされる南苑の石橋。
「この前、鏡の裏に隠された名簿を見つけたわ。その中に、あなたの名があった」
鴇英は一瞬だけ表情を止める。そしてすぐ、いつもの涼しげな笑みを浮かべた。
「……見つけちゃったのね。そう、私は“間者”。でも、あなたを裏切ったわけじゃない」
「なら、誰に仕えてるの? 蒼璟? それとも、“夜鶯”の残党?」
「どちらでもないわ。私は“書庫の主”の命で動いてるの。後宮の記録と、言葉を守るために」
“書庫の主”――後宮最大の記録館を管理する者。
その存在は公には語られず、文官すら名前を知らない。
「私は、あなたの兄――“影鶯”と共に働いていた。彼は、ある記録を“鏡の中”に封じて消されたの」
緋燕は黙ったまま、鴇英の目を見据える。
「なら、兄が追っていた“後宮の闇”とは……?」
「“影の筆”よ。皇帝にすら届かない、裏の命令帳。そこには暗殺、消去、記録抹消まで書かれてる。華陽妃の死も、花妃の沈黙も、全部……その筆が動いた結果」
緋燕は震える拳を握りしめた。
「兄は、その筆を奪おうとした……?」
「ええ。そして失敗した」
鴇英は微笑を崩さず、だがどこか悲しげに呟いた。
「だから、あなたには“次の筆”になってほしいの。記録し、裁き、筆を執る者に」
緋燕は静かに答える。
「その筆で、私は闇を書く気はない。“光”を書く。暴いて、記して、裁く」




