脱水少女
エカテリーナと連は職員室で教頭先生と話をしていた。
「2人目の部員が見つかったんです。部活動としてはまだ認めてもらえないけど、アイヌ資料室を活動の場として使わせてください。」
「しかし、まだ2人しかいないし、顧問も決まっていない。資料室には教育委員会の備品も多い。備品を壊したりしたら、誰も責任は取れないからなあ・・・。悪いがまだ資料室を使う許可は出せないんだ。」
「そんな・・・」
職員室を出たあと、蓮とエカテリーナは校舎の中庭で足を止めた。春先の風が、まだ少しだけ冷たい。
「あと、三人か・・・」
蓮がつぶやくと、エカテリーナは笑って肩を叩いた。
「ね、試してみたいことがあるの。『アイヌ文化体験ミニ講座』ってどう思う?」
「講座?」
「うん。放課後、多目的教室を借りて、刺繍とか、木彫りとか、ユーカラの朗読とか… 興味を持ってくれる子がいるかもしれないし!」
アイディアはすぐに行動になった。
数日後、ふたりは校内に手書きのポスターを掲示した。
《ようこそ!アイヌ文化体験ミニ講座》ムックリを体験しよう!伝統刺繍をやってみよう! アイヌの子守唄を聞いてみよう! 参加自由!どなたでも!
初回の放課後。教室には椅子が10脚並べられていたが、誰も来なかった。
でも、エカテリーナは笑って言った。
「初日はこんなもんだよ、きっと。」
その翌日――椅子のひとつに同じクラスの女の子が静かに座っていた。
彼女は、水無月 澪。入学してすぐに行う学力診断テストで1位だった。
彼女は、中学受験に失敗し、公立中学校である極北中にやむなく入学した。受験を失敗した心の傷をまだひきずっているのか、友人を作ることもなく、授業が終わるとすぐ帰宅していた。
澪はエカテリーナに向かって言った。「部活なんてやっている暇はないんだけどね。高校受験に有利になるよう内申点を稼ぐために入ろうかと思って。」
「参加してくれてありがとう。何がしたい?ムックリ?刺繍?子守歌?」
「何もしたくない。」澪は中学受験を失敗してから、「なにかになりたいが、なににもなりたくない」そんな答えの見つからない感情の迷路に迷っていた。
連が強い口調で言う。「じゃ何しに来たんだよ」
「ちょっと連、もう少し優しく。」
「さっきも言ったじゃない。高校受験で内申点を上げるため。ただそれだけ。」
澪はかばんから教科書を取り出して勉強を始めた。
「おい・・・」憤る連をエカテリーナは止めた。
「これで3人目よ。」
「しかし、幽霊部員でいいのか?」
「まあまあ、これからゆっくり伝えていけばいいのよ。アイヌ文化の魅力をね。」
澪は教科書を開きながら、勉強を続けた。しかし、ふとエカテリーナの鞄につけてある、刺繍が入ったキーホルダーが目に入った。 見慣れない模様、手法、でも“意味がある形”に彼女は惹かれた。澪は「別に興味はないけど、そのキーホルダーの刺繍って何?」ぶっきらぼうにエカテリーナに聞いてきた。
「これは…“アイウシ”っていう刺繍。悪いものを跳ね返すって意味らしいよ。私のお守りなの。」
エカテリーナのやわらかな声に、澪は思わず「へー・・・悪いものを跳ね返すか・・・ねえ、それって受験の合格祈願のお守りみたいなもの?」と聞いてきた。
「うーん・・・まあ、似てると言えば似てるかも?」
「それなら私も作りたい!」
エカテリーナはどや顔で連を振り返った。
「アイウシで高校合格祈願って、無理があるんじゃないの?」連はため息をついた。
エカテリーナは澪に丁寧に刺繍のやり方を伝えた。澪にとって、糸のひとすじが、他人との距離だった。でもその糸を誰かと一緒に縫うことで“孤独の輪郭”が少しだけ崩れていった。
「もしかしたら・・・なりたいものが見つかるかも」
澪は勉強ばかりの生活で、心が乾いていた。中学受験の失敗が、さらに心を乾かした。心が潤されることのない「脱水少女」、それが澪だった。
そんな澪にとって、エカテリーナから刺繍を教わる時間は乾いた心に染み渡る一滴の水、まさに銀の滴だった。
「まあ、そのうち幽霊からレベルアップできるかもな。」連はエカテリーナと笑いながら刺繍をする澪を見て思った。