アイヌ人の少年
風間蓮は、エカテリーナのまっすぐな瞳から目を逸らした。
彼女の「入ってほしい」という言葉が、まるで雪のように心に降り積もる。
「おれには、無理だ。やっても、どうせ笑われる。また差別され、いやな気分になる。」
小さな声だったが、エカテリーナにははっきりと聞こえた。 蓮の中には、幼い頃に浴びた冷たい視線や、教室の片隅で感じた疎外感がまだ色濃く残っていた。
「わたしは、あなたがうらやましいと思ったの。 あなたの中に流れてる歴史や、物語や、誇りを感じたの。それはアイヌ人だけが持つことを許された素晴らしいものだわ。どうしてそれを否定するの?」
エカテリーナの声は、静かだけど確かな熱をもっていた。 彼女の鞄からは、折りたたまれた紙が出てきた。それは、彼女が手作りした「アイヌ文化研究会 創立計画書」だった。
「誰もいなくても、わたしはやるよ。でも、風間君と一緒なら・・・もっと、アイヌ文化の素晴らしさを伝えられると思ったの。」
蓮は何も言わなかった。けれど、彼女の言葉が胸の奥で徐々に熱を帯び、連のわだかまりがゆっくりほどけていくのを感じていた。
そしてその日、彼は家に帰って父の作った木彫りの親子熊像をじっと見つめた。小熊と親熊が一緒に木に身を委ねている姿だった。
幼い頃、親熊に父を、小熊には自分を重ね、安らかな気持ちになっていたことを思い出していた。忘れようとしていたアイヌ人としての誇りがが、少しずつ動き出していた
連の父は、アイヌ民芸店で働く木彫り彫刻家だった。木彫りの熊やニポポ人形を作って、アイヌ記念館に併設された民芸店で販売していた。
父の作る熊の表情は、芸術的な価値を帯び、中国からの爆買い旅行ブームの時は高値で取引されていたが、そのブームも終わり、父は旭川市で職をなくした。父は仕事を求め、釧路市阿寒町の土産物屋へ行ったが、やがて音信不通となっていた。
連は祖父、祖母、母の三人で暮らしていた。母はアイヌ記念館で働いて、祖父と祖母のささやかな年金と、母の稼ぎで生活していた。
母は、古式舞踊の師範であり、アイヌ記念館で踊りを披露したり、公民館で踊りを教えたりしていた。
そんなとき、ある国会議員がアイヌ衣装を着た女性を「コスプレ」と揶揄したニュースが流れた。
連は同級生から「コスプレおばさんの息子」とからかわれた。それ以来、連はアイヌ文化を遠ざけるようになっていた。
しかし、エカテリーナの「じゃ、そんな情報は見なかったことにしなさいよ。何も困る事なんてないわ。」という言葉に強く心を動かされていた。
日曜の午後、風間蓮は叔父が館長のアイヌ記念館を訪れた。 アイヌ記念館は木の香りと懐かしい展示物の温もりに包まれていて、心が安らぐ場所であり、連はたまに訪れていた。
いつも出迎えてくれるのは、記念館の館長であり、父の弟で蓮の伯父である風間誠。太い眉と笑いジワの深い目元は、どこか蓮と似ている。
「よく来たな、蓮。中学に入ってからは、初めてじゃないか?」
蓮は照れくさそうにうなずいた。 すると誠はふと目を細めて、こんなことを言った。
「おまえ、エカテリーナって子、知っているだろう。 あの子、すごいぞ。ここにほぼ毎日通ってきてさ、熱心に古式舞踊の踊りを習っている。今じゃもう、若手の子より上手いぐらいだ。」
「毎日・・・マジで?」
思わず出た蓮の言葉に、伯父はにやりと笑う。
「今度、稽古を見に来い。あの子の踊り、誰より“魂”が入っている。あれを見ると、自分の中のアイヌの血が・・・騒ぐぞ。」
その言葉に、蓮の胸の奥がかすかに震えた。 あのまっすぐな視線の理由が、少しだけ分かった気がした。
その夜、蓮は祖母の遺したアイヌ神謡集を机に広げた。「銀のしずく、降る降るまわりに・・・」知里幸恵の書いたアイヌ神謡集だった。
埃をかぶっていたそのページの文字が、不思議と今は優しく心に響いていた。
連は静かに本を閉じた。
放課後、風間蓮は再びアイヌ記念館を訪れた。 展示ホールの隣、板張りの広間では、太鼓の低い響きと、かすかな鈴の音が空気を揺らしていた。そこにいたのは、エカテリーナだった。
彼女は白と赤のアイヌ模様が施されたチカップ(衣装)をまとい、静かに手を広げていた。 長い銀髪が踊りのたびに風を切り、足元のステップがリズムよく床を打つ。 その姿は、まるでユーカラ(叙事詩)に登場する霧の精霊のようだった。
蓮は思わず息をのんだ。エカテリーナが踊ったのは、「アランペリムセ」という「霧よ晴れてください、子供を守ってください」と神に祈る踊りだった。
「神への祈りが・・・伝わってくるようだ。こんなにも上手いのか。」
彼女の動きには一切の迷いがなく、ひとつひとつが意味を持っていた。
それは単なる踊りではなく、神への祈りだった。稽古が終わり、彼女は気づいて小さく笑った。
「あ、見ていたんだ。…どうだった?」
蓮は何も言えず、ただうなずいた。 その胸に浮かんでいたのは、嫉妬でもなく、羨望でもなく——感謝だった。
「エカテリーナ……本気だったんだな。」
エカテリーナはにっこりと笑って、「うん。わたしは外から来たからこそ、他の文化を大切にしたいと思ったの。相手の文化を理解して受け入れること、それが未来を託された私たちの役目だと思わない?」
その言葉に、蓮の中で何かがカチリと音を立ててはまった。 彼の目の奥に、今まで閉じ込めていた火が、静かにともりはじめる。
夜の静寂のなかで、風間蓮は初めて自分の“アイヌ”という存在と向き合った。 これまでは「恥」として押し込めてきた記憶が、エカテリーナの舞とともにゆっくり解けていく。
「アイヌ文化を恥じることはない。本当に怖いものは自分がアイヌ人としての誇りを失うことだ。逃げるのはもう終わりにしよう。」
翌朝、蓮は登校するなり、エカテリーナを探した。エカテリーナはまだ登校していなかった。やがて教室のドアが開き、エカテリーナが入ってきた。連はエカテリーナをまっすぐ見つめ、近寄った。そして「…「俺、入るよ。アイヌ文化研究会に。よろしくな。」と言った。
エカテリーナは一瞬目を見開き、そして太陽みたいに笑った。
「待ってたよ、風間君。」
春の風が優しくエカテリーナの銀髪を揺らした。