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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編AI小説シリーズ

【AI小説】『彼女の世界に、僕だけがいる』

僕の部屋のカーテンは、今朝も開いていた。


閉めたはずなのに、いつのまにか、必ず。決まって毎朝。窓際に立って、僕はそれを見るたびに冷たい汗を背中に感じる。けれど、それ以上のことは考えないようにしている。日常は崩れてしまわない程度に、壊れかけのフリをして、ギリギリで均衡を保っている。


「おはよう、ユウくん」


彼女の声が、階段の下から響く。朝の空気に不釣り合いな、明るすぎるトーン。僕はゆっくりとドアを開け、できるだけ無表情で返す。


「……おはよう、沙月」


沙月──僕の幼なじみで、隣の家に住む女の子。いや、もしかするともう「女の子」なんて可愛らしい単語で呼ぶには相応しくないのかもしれない。僕が彼女に対して抱く感情は、昔のそれとは違って、理解不能な異物感と警戒心に満ちている。けれど、それを口に出してしまえば、何かが終わる。


彼女は朝食を作っていた。いや、正確には「僕の家のキッチンで」、勝手に。それが、もう何日続いているのかわからない。最初は「おすそわけ」の延長線だったかもしれない。でも今は、彼女の料理が当たり前のようにテーブルに並んでいる。


「今日もね、ユウくんの好きな卵焼きにしたの。甘いのと、しょっぱいの、どっちがいいか迷って、両方作っちゃった♡」

「……ありがとう」

「ありがとう、だけ? ねえ、もっと嬉しそうな顔してよ? 私、昨日遅くまでレシピ調べて、練習もしたんだから」

「うれしいよ。ほんとに」

「ふふ、そう。よかった♡」


沙月はとろけるような笑顔を浮かべる。その顔が、本当に嬉しそうで、だからこそ怖い。狂気はいつだって愛という名のベールに包まれてやってくるのだ。


食事中、彼女は僕の箸の動かし方や、咀嚼の回数、表情の微細な動きまですべて観察している。僕はそれを感じながら、なるべく普通に食べるようにする。何かが彼女の中で「不合格」になった瞬間、どうなるかわからない。もう二度と戻れないような崩壊が、僕たちの間に訪れる気がする。


「ねえ、ユウくん。最近、帰りが遅いよね? 誰かと一緒に帰ってるの?」

「いや、部活がちょっと長引いて……」

「そっか。じゃあ──その“部活”っていうのは、“女の子”と関係ないんだよね?」


彼女は笑顔を崩さずに言った。笑っているのに、目が笑っていない。笑顔の中にあるのは、硝子のような危うさ。僕は一瞬呼吸を止めて、すぐに答える。


「ないよ。誰とも喋ってないし」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「よかったぁ♡ ユウくんが嘘ついたら、私、どうなっちゃうかわからないもん」


僕は苦笑いを返すが、手が震えていた。彼女はそれに気づかないふりをして、食器を片づけ始めた。背後から聞こえる水の音。僕はそれをBGMに、冷えたコップの水を一口含んで、目を閉じる。


登校中も、彼女はぴったり横についてくる。彼女と僕の距離は、いつも指一本分も空いていない。電柱の影、通学路の段差、向かいから来る自転車。そのすべてに気を配りながら、彼女は僕を護るかのように歩いていた。でも、それは「護る」ではない。ただ「囲う」だけ。自由を奪い、逃げ場を奪い、僕を「彼女の檻」に閉じ込める動作に他ならない。


学校についた途端、彼女は僕の手を取って、耳元でささやいた。


「今日、もし他の女の子と喋ったら……ごめんね、私、きっと壊れちゃう」


ささやき声は甘く優しいのに、その意味は恐ろしく冷たい。僕はただ頷くしかなかった。


教室に入ると、空気は少し軽くなる。だけど、背中に視線を感じる。ドアの外、ガラス越しに、彼女がまだこちらを見ていた。ずっと、見ていた。まるでカメラのように。


そして昼休み。僕は一人でトイレに向かった。個室のドアを閉め、溜息をつく。やっと、唯一の“自由”だ──と思ったその時、ポケットの中でスマホが震える。


──《今、どこ?》

送信者:沙月


僕は返事をしなかった。返せなかった。けれど──30秒もたたないうちに、また震えた。


──《ユウくん、今、ドアの前にいるよ。開けて?♡》


ぞっとした。天井を見上げた。ドアを見た。誰もいない。けれど、息遣いがした。ドアのすぐ外から、誰かが、こちらを見ている気配がした。

僕はその日、午後の授業を全部欠席した。いや、保健室に逃げたのだ。沙月が来ない場所に。けれど、それも無駄だった。保健室のベッドの下に、小さな紙切れが落ちていた。


──《ユウくん、どこに逃げても無駄だよ♡ 私のこと、嫌いになったら、ユウくんの大事な人、いなくなっちゃうかも♡》


そこには、彼女の丸い、可愛らしい文字が並んでいた。

僕はその瞬間、悟ったのだ。もう、ここには自由などないのだと。日常など、とうの昔に壊されていたのだと。


◇────◇


午後のチャイムが鳴るよりも前に、僕は校門を抜けていた。歩いて、走って、逃げていた。逃げた先も、ただの住宅街の一角でしかなかった。だけど、そこに沙月はいなかった。それだけで、まるで別の世界に来たかのような錯覚を覚える。


人のいない公園のベンチに座って、僕はスマホを取り出す。LINEの通知が、数十件。すべて沙月から。すべて未読。ひとつも開く気になれなかった。


けれど、通知の中に一つだけ、別の名前を見つけた。


──《中村 結花》


クラスメート。それ以上でも以下でもない。ただ、いつかの清掃当番で少しだけ話したことがあった。その時、彼女は微笑みながら「話しやすいね」と言ってくれた。それだけのやりとり。でも、僕にはまるで救いのように思えた。


──《大丈夫? 今日顔色悪かったけど…何かあったら話してね》



短い文面。絵文字もない。けれど、そのシンプルな優しさに、僕は胸を打たれた。


「……返信、しようかな」


そう呟いて、文字を打ちかけた瞬間──スマホがフリーズした。

画面がブラックアウトしたかと思うと、次の瞬間、真っ赤な画面に変わった。そして、中央に白抜きの文字が浮かび上がった。


──《誰と話してるの?》


背筋が凍った。

指が震える。スマホを落としそうになる。でも、画面はそのまま、沈黙のまま赤く光り続けていた。


──《ユウくんは、私だけを見てればいいの♡》


再び文字が現れた。僕はスマホを思わず芝の上に投げた。


「なに……これ……どうして……」


アプリじゃない。こんなことできるのは──携帯をハッキングしてる? いや、そんな知識が、彼女に……あるわけが──


否、あるんだ。あの沙月なら。あの執着なら、手段を選ばずに、なんでもする。僕のすべてを掌握するために。もう“偶然”や“たまたま”の範疇じゃない。


その日の夜、僕は家の鍵を二重にかけた。窓も閉めた。スマホは電源を切って、電池も外した。ドアの前に椅子を置き、音がすればすぐ気づけるようにした。


そして、目を閉じた。


が、眠れるはずもなかった。


午前2時。玄関のドアが「コツン」と鳴った。


鳥肌が立った。心臓が耳の奥でうるさいほど響いている。


「ユウくん、起きてるんでしょ?」


沙月の声だった。なぜわかる。なぜここにいる。なぜ、ドアの鍵を試している。


「……鍵、変えたんだね。でもね、ユウくん」

「……」

「合鍵、持ってるの♡」


カチャ──ドアノブの音。チェーンロックがなければ、今頃、彼女は中にいた。


「今日は諦めてあげる。でも、明日は……絶対、一緒に登校しようね♡」


翌朝、僕は警察に相談する決意をした。家族はいない。親は海外勤務で不在。頼れる人間は、この町にはいない。だからこそ、警察しかなかった。

けれど、交番で話したところで、相手にされなかった。


「証拠がないとねぇ……あと、その子が“彼女”だって言ってたけど、つきあってるわけでは?」

「いえ、違います。でも……その……」

「んー、ただの“心配性の幼なじみ”って話に聞こえるよ? 家に来るのも、料理を持ってくるのも、通学も……ストーカーって言うにはちょっと」


そうして、無力のまま家に戻るしかなかった。結局、僕の“日常”を守る術はないのだ。

その夜、部屋に戻ると──ベッドの上に見慣れない箱が置かれていた。


「えっ……」


青いリボンが巻かれていた。添えられたメモには、彼女の字で書かれていた。


──《開けてね♡ ユウくんのために、がんばって作ったの♡》


僕は箱を開けるか、否かで手が止まった。

だが結局、恐怖と好奇心の混合に負け、蓋を開けた。


中には──無数の写真が詰まっていた。


僕の写真。寝ている時。食事中。制服のポケットに手を入れた瞬間。トイレの個室の中。

どれも、僕が知らないうちに撮られたもの。


その中に、一枚だけ──僕が小さな頃に描いた“家族の似顔絵”があった。


裏面には赤いペンでこう書かれていた。


──《ねぇ、もう本当の家族はいらないでしょ? 私が、代わりになるから♡》


血の気が引いた。


スマホの電源を入れた。通知が70件以上。

その中に、一本だけ動画があった。


再生すると、画面には僕の部屋が映っていた。ベッドの下、カーテンの隙間、風呂場の中。

次々に切り替わる映像。その全てが「いつの間にか撮られていた」日々だった。

最後に、彼女の顔が映った。


「ねえ、ユウくん。これが“日常”だよ? 私がいない日常なんて、壊れて当然でしょ?」


動画はそこで終わった。

僕はスマホを投げた。

この世界はすでに、彼女の支配下にある。

そして──僕が“逃げよう”としたその夜、家のブレーカーが落ちた。

真っ暗闇の中で、僕はベッドの上で震えながら、耳を澄ます。


そのとき、部屋のドアがゆっくり開く音がした。


ギィ……という金属の擦れる音が、部屋の中に沈んだ。ブレーカーが落ちて、あたりは闇。月明かりも遮断されて、何も見えない。ただ、ドアがゆっくりと軋んでいる音だけが、鼓膜にまとわりついて離れなかった。


僕は息を殺した。


物音ひとつ立てないように、身体を硬直させ、まるで死んだように横たわる。心臓が暴れている。ドクドクと、耳元で炸裂するような脈動。けれど、それすら彼女に「聞かれる」ような気がしてならない。


「……ユウくん?」


その声は、あまりにも優しく、甘く、柔らかかった。


「……いるんでしょ? ねえ、起きて」


明かりもつかず、彼女の姿は見えない。けれど、そこに“いる”のはわかる。音と気配と、狂気の匂いが、空間に染み渡っていた。


「……やっぱり、私がいないとダメだね」


カチリ。何かを落とす音。金属が、硬い床に触れたような音。


「ユウくんが他の誰かを見たら、私、どうしようもなくなるの。心臓がね、ぐちゃぐちゃに潰れるくらい痛くなるの」


彼女の声は、泣いているようでもあり、笑っているようでもある。


「でも、わかってる。全部、私が悪いの。だから──今夜、全部終わらせるね♡」


暗闇の中で何かが光った。月明かりがわずかに差し込んで、その手に握られている“それ”が映った。

包丁。キッチンで見慣れた、あの大きな刃物。


「怖がらないで……ね? ねぇ、これで刺すわけじゃないの。ただ、ちょっとだけ、試してみたくなっただけなの。どこまでが“本当の愛”なのかって」


僕は叫びたかった。逃げ出したかった。だが、身体が動かない。


「ほら、ユウくんが“私だけを見るように”なるまで、もう少しだけ……がんばろうね?」


刃が空を切る音がした。

次の瞬間、窓の外からパトカーのサイレンが聞こえた。

彼女の動きが止まった。


「……あら?」


遠くで誰かの声がした。警官の声だ。誰かが通報したのか。あるいは、昨日の交番の話が、遅れてでも通じたのか。


「ユウくん……誰かに言ったの?」


彼女の声が低く、冷たくなった。まるでスイッチが切り替わったかのように。


「誰かに、言ったのね? 私とのことを、秘密にできなかったの?」


包丁を握る音が変わった。手に力がこもっているのがわかる。

けれど、次の瞬間、家の外から「ドンッ」とドアを叩く音。警察が来たのだ。


「警察です!開けてください!」


沙月の手が一瞬、震えた。その隙に僕は立ち上がり、彼女の手首を掴んだ。


「やめてくれ……もう、やめてくれ!」


その瞬間、彼女の目が僕を見た。

涙を流しながら、笑っていた。


「ユウくん、そんなに震えて……でも、これが愛だよ?」

「違う……こんなの、愛じゃない!」


彼女は首をかしげ、包丁をゆっくり床に落とした。

そして静かに言った。


「じゃあ……“ユウくんが思う愛”を、教えて?」


次の瞬間、ドアが破られた。


警官が部屋になだれ込み、彼女の身体を押さえつけた。

叫ぶことも、暴れることもせず、沙月はただ静かに僕を見ていた。


「またね、ユウくん……次は、もっと深く、もっと近くで、愛し合おうね♡」


その笑顔が、網膜に焼き付いた。

彼女は連れて行かれた。

すべてが、終わったかのように見えた。

だけど──

翌朝、ポストに一通の手紙が届いていた。

消印はなかった。

封筒の中には、ただ一言だけが、真っ赤な口紅で書かれていた。


──《またすぐに、会えるね♡》


◇────◇

 

「再会」は、あまりにあっけなかった。

一週間後。学校帰りの帰路、スーパーの裏手にある誰も通らない細道を抜けていた僕の背後に、足音が忍び寄った。


振り返った時には、もう遅かった。甘い香水の匂いと、やわらかくも力強い腕が、僕の身体を抱きしめていた。


「ユウくん……やっぱり、私がいなきゃダメなんだね♡」


鼓膜が震えるほどの、やわらかい声。背筋に氷柱を突き立てられたような感覚。


「沙月……なんで……どうして、ここに……」

「退院したの。病院の先生たちもね、『落ち着いた』って言ってくれたの。もちろん……全部、嘘だけど♡」


僕の背中をなぞる指先が、静かに上下していた。さながら「私のもの」とでも刻みつけるかのように。


「どうして逃げたの? ひどいよ、ユウくん。私、あんなに尽くしたのに……」

「それは“愛”じゃない。あれは、狂ってたよ」

「じゃあ、今も狂ってるって、思ってるの?」

「……」


答えられなかった。彼女の目が、静かに僕の瞳を射抜いていた。まるで、本当の意味で“見透かす”かのように。


「ユウくん、私はね……あなたが他の女の子と話すことが、どうしても許せないの。だって、私以外の声なんて、必要ないはずだから」


そう言って、彼女は僕の首筋に唇を寄せた。


「でも、いいの。ちゃんと“私だけ”を見てくれれば、もう誰にも危害を加えたりしない。約束する。だから、逃げないで?」


その言葉には、異常なまでの誠実さがあった。

その夜、僕の家のインターホンが鳴った。出ると、そこにはスーパーの袋を持った沙月が立っていた。


「晩ごはん、一緒に食べよ♡」


断る余地など、最初からなかった。

彼女は何もかも、元通りにしていった。朝の食事、通学、昼のLINE、夕食、夜の観察。

いや、元通りではない。

“監視”の精度が、明らかに上がっていた。

スマホはすべて暗号化され、通話履歴はログ化された。家のWi-Fiが勝手に沙月のサーバーを経由していた。


「ねえ、ユウくん。スマホの画面、青白いの長く見ると、目に悪いんだよ?」

「……ごめん」

「だから、もうスマホは夜は渡してね。私が管理してあげる♡」


抵抗する気力はもうなかった。

部屋の家具の配置が変わっていた。冷蔵庫には僕の好物ばかりが並び、テレビは彼女の録画したドラマだけが延々と流れていた。

トイレにも、小型カメラが取り付けられていた。さすがに気づいて外したが、翌朝にはまたついていた。


「やめてくれ……頼む、普通に……普通に生活させてくれ……」

「普通って、なに?」


沙月は、にっこりと笑った。


「“私と一緒にいること”が、ユウくんにとっての普通でしょ?」


その笑顔は、決して狂っているようには見えなかった。むしろ、理性的で、論理的だった。

だけど、その論理は、異常だった。


◇────◇


──学校も変わった。


教室の席替えが、なぜか彼女の隣に「固定」された。担任が決めたことだったが、妙に不自然だった。

聞けば、沙月の親は教育委員会に強い影響力を持っていた。学校も、すでに彼女の支配下にあった。


「もう、逃げられないよ」

「……」

「だって、私が“ユウくんの世界”を作ってあげてるんだもん」


誰も僕の言葉を信じなかった。いや、誰も「沙月」には逆らえなかった。

中村結花──かつて僕にLINEをくれた唯一のクラスメート──も、学校を突然“自主退学”した。

誰もが「仕方ないよね」と言った。

だが僕は知っていた。


──その日の夜、結花の部屋のポストに、僕と彼女が話している写真が入っていたことを。


──彼女の飼っていた猫が、数日後に突然“いなくなった”ことを。


──そして、彼女の母親が事故に遭ったことを。


偶然にしては、できすぎている。


それでも、誰も真実を言おうとしない。


世界が、ゆっくりと彼女に飲み込まれていく。



日常が、少しずつ少しずつ、塗りつぶされていく。


僕は今、毎晩日記を書いている。

それだけが、まだ“僕”でいられる唯一の証明だからだ。


けれど、その日記の最後に、こう書き加えるしかなかった。


──《誰か、これを見つけて。お願い、誰でもいい。この檻から、僕を出して──》


◇────◇

 

日記は、見つかった。

けれど──それを見つけたのは、沙月だった。


ある晩、彼女は笑いながら僕に手帳を差し出した。僕がベッドの下に隠していた、黒い革表紙の、誰にも見せたことのない“最後の居場所”。


「ねぇ、これ、見つけちゃった♡ ユウくんってば、こんなにたくさん、私のこと考えてくれてたんだね」


彼女は日記を指先で撫でながら、ページをめくっていた。


「“檻から出して”って……そんなに、私のことが苦しかったんだ? ふふ、でも……うれしいよ。だってそれって、私がユウくんを“閉じ込めるくらいに愛してる”って、証明でしょ?」


僕は何も言えなかった。声が出なかった。


「だめだよ、隠し事。ユウくんは、全部、私に見せなきゃ」

「……返してくれ」

「やだ♡」


手帳は彼女のバッグの中へと消えた。


それ以降、僕の“居場所”は、本当にどこにもなくなった。


SNSのアカウントも、勝手に削除されていた。メールは使えず、通話は全て彼女のサーバーを通っていた。PCのログインも、彼女の顔認証がなければ開けなかった。


バイトを始めようとしたが、応募先に電話すると、すでに僕の名前で“奇妙な内容の電話”がされていたらしい。どこにも雇ってもらえなかった。


「もう、働かなくていいよ? 私が全部、養ってあげる♡」


沙月は、常に笑顔だった。


学校では“理想の彼女”として振る舞い、教師や同級生にも評判が良かった。誰も、彼女の“裏”を知らない。いや、知ろうとしなかった。


僕は家にいても、学校にいても、どこにも“自分”を持てなかった。


◇────◇


そんなある日。


奇跡のように、一人の女の子が僕に話しかけてきた。


「ねえ……今、困ってることあるなら、相談に乗るよ?」


一学年下の生徒、春原 みお。柔らかくて、素朴な声だった。


「……なんで、俺に?」

「なんとなく……助けて、って顔してたから」


僕は一瞬迷ったが、話してしまった。

すべてではない。ただ、“誰かに追われてる”とだけ。

澪は頷いた。


「じゃあ……一緒に逃げようか」


その言葉が、どれほど心に刺さったか、言葉にならない。

僕たちは、計画を立てた。スマホを捨て、学校を抜け出し、澪の親戚の家に数日隠れるという作戦。

けれど、出発の朝。僕の机の上に、1枚の封筒が置かれていた。


──《春原 澪ちゃんのこと、調べておいたよ♡》


中には、澪の写真と、家族構成、通学路、部活の詳細──

そして最後に、目を覆いたくなるような文面が綴られていた。


《澪ちゃんの小学校のときの写真、かわいいね。……この頃の顔、二度と見れなくなったら、悲しいかな?♡》


逃げられない。

また、逃げられなかった。

みおには「何もなかった」とだけ言って、僕は一人、元の檻へと戻った。


もう、“助けて”と言う気力すら、失われていた。


沙月は、その夜、何も言わず、僕の頭を撫でた。


「大丈夫。ね、ユウくん。どれだけ逃げようとしても、私は許すよ。だって、愛してるんだもん」


その言葉が、もはや麻酔のようにすら感じられてきた。


現実がすこしずつぼやけ、日常が狂気と混ざり、境界線が溶けていく。


ベッドの天井には、僕の寝顔の写真が貼られていた。

浴室の天井には、赤いマジックで「ユウくんはここで裸になるんだよね♡」と書かれていた。


キッチンの引き出しの中には、小さなハート型のノートがあり、毎日僕の行動が日誌のように書かれていた。


◇────◇


そして──ある朝。


僕は、鏡の中の自分に違和感を覚えた。


目の奥が笑っていた。顔は硬直しているのに、どこか“慣れた”表情だった。

沙月の手料理を口にして、「おいしい」と呟く僕。

通学路で彼女の腕にそっと指を絡ませる僕。

教室で誰とも話さず、ただ沙月の視線の方向にだけ顔を向ける僕。


──もう、心はとうに“降伏”していた。


身体が先に覚えてしまった。逃げられない、抗えない、ただ従うしかないと。


「ユウくん、最近すごく素直だよね♡」


沙月は、うれしそうに僕の頬にキスをした。

その夜、彼女は僕に言った。


「ねえ……そろそろ、“籍”入れよっか」


意味が、すぐには理解できなかった。


「ほら、もうすぐ18歳になるでしょ? 親の同意がなくても、婚姻届出せるんだよ? 大丈夫、私、調べたから♡」

「……沙月、それは……」

「拒否するの?」


彼女の声が、微かに震えた。だが、怒りではない。哀しみでもない。

その震えは、“壊れる前の音”だった。


「やだよ、ユウくん……また、遠くに行こうとしてる。なんで? なんでそんなこと言うの? なんで……」


彼女の目から涙がこぼれた。

だが次の瞬間、表情が一変した。


「……あ、そっか。冗談だよね? そうだよね、そんなこと、本気で言うわけないよね?」


僕は頷いた。そうしなければ、また誰かが消えるから。


「うれしい♡ じゃあ、明日、届け出しに行こうね。証人欄は私が全部書いておいたから、もうサインだけでいいんだよ?」


彼女の目が、光っていた。


その夜、僕はもう一度だけ逃げることを決めた。

死ぬ気で走り、スマホも何も持たず、名前も捨てて、電車を乗り継いで、県を跨いで、知らない町へと逃げた。


三日間、ネカフェで眠った。

食事は自販機のカップ麺だけ。

電波のない場所に逃れ、誰の声も聞かず、誰にも見つからない──そう思っていた。

でも四日目。


そのネカフェの個室に、封筒が差し込まれていた。


──《ユウくんへ♡》


中には、僕の寝顔の写真が入っていた。ここでの。

そして、裏にはこう書かれていた。


──《こんなところで寝るなんて、ダメだよ♡ 風邪引いたらどうするの? ちゃんと迎えに来たから、帰ろうね♡》


背後を振り返ると、扉の向こうに──あの、見慣れた“微笑み”があった。


「ユウくん……もう、逃げるのは終わりにしよう?」


◇────◇


それ以来、僕は逃げることをやめた。

彼女と暮らす日々を、否応なく受け入れた。

狂気に染まったこの生活を、愛と呼ぶことにした。


──それしか、生き残る方法がなかったから。


今、僕は笑っている。

誰よりも自然に、何の抵抗もなく、沙月と手をつないで歩く。

隣にいる彼女は、何もかもを支配し、監視し、従わせる。


でも──

それでいい。そう思えるようになった。


日常なんて、とうの昔に終わっていたのだ。

今あるのは、「彼女と過ごす狂った日々」だけ。


僕はすべてを忘れ、ただ、彼女の世界に生きる。


彼女がそう望んだから。

僕がそう、望むようにされたから。


それが、僕の人生の、終わりであり、始まりだった

ー完ー

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