一緒にみた夢
『匠―』
すごくまいっています。
その声はそういっていた。
昼下がりの、ちょうど昼寝には最適な秋の初め。
今日一日は絶対鳴るわけがないと思っていた携帯電話がその着信を知らせたのは、あいにくながら季節感じさせない完全防音室の中でのことだった。
というか、ここでも電波届くんだ。
ふと葛西匠はそう思う。
なんとなくすべてを遮断しているような気がしていたから、だから余計に不思議だったのだ。
多分藤澤誠二なんていう、はっきりいって青天の霹靂みたいな奴から、突然電話がかかってきたものだから思わず現実逃避した。
それが正しいのだろうけど。
「……なに、やってんの?っていうかなに、これ」
『何って電話―』
「そういうんじゃなくて、なんでお前が俺に電話してくるかってことだよ!お前、今どこで何やってるかわかってんの!?ワールドカップの選考会当日でしょ!」
腕時計はかっきり12時半を指していた。どう考えたってもう集合がかかるころだ。
午前中は合同練習、午後が選抜のための紅白試合だとつい最近、藤澤と共に呼ばれて出かけていった他の選手からの情報だ。
間違いなどあろうはずがない。
『だって匠の声、ききたかったし』
けれど藤澤はあっさりと答えた。
『今、どこ?またピアノ弾いてた?』
「……藤澤」
『まあそう目くじら立てて怒んなくったっていいじゃん。集合までまだ十五分あるし、ちゃんとキャプテンや水上先輩からもオッケーもらってるし』
「……誠二?」
思わず漏れた不安の声。
だってあの先輩たちが許可したってことは、それはすなわち彼の状態があまりいいものでないことを指す。
しかしそんな匠の思いとは裏腹にやっと名前で呼んでくれたと電話の向こうで笑う声がした。
「――誠二?」
『大丈夫だって。ほんとに。ただ……』
「ただ、何?」
実は藤澤誠二という男はあまり本音をこぼさない。
いつもどうでもいいようなことには子供のように一喜一憂して周りを巻き込むくせに、本当に本当のところでは彼は何も言わない。
それを知る人間は実は少ない。が、その数少ない人間の中には匠も、そして渋沢や水上も含まれていた。
『ちょっといろいろ考えてたら、なんか』
「……うん』
『ホントに、何でもないんだけど。でもやっぱりちょっと考えちゃって』
「うん」
『俺、ここにいていいのかなあっていうか……なんかそんな感じで』
「――」
正直匠は驚いていた。
あの天上天下唯我独尊男が何を弱気なことをと、ついつい思ってしまう。
けれど次の一言に匠は凍りついた。
『だって――匠、いないのに。俺、ここにいていいのかなあって……』
――何も、言えなかった。
『……ごめん』
どれくらい沈黙が続いただろうか。
しかしそれを破ったのも藤澤だった。
『ごめん、匠』
「……」
『……でも、ホントに、ちょっとだけそう思っちゃったんだよ』
その声があまりにも情けなくて。
「――馬鹿」
『うん』
「……馬鹿だよ、ほんとにアホ。そんなこと考えなくていいんだよ」
『うん』
サッカーから離れて二年。
それでも指摘されれば言葉に困るくらい、頭が真っ白になるくらいにはショックなことだったけれど、相手が藤澤だとそれさえも消えていくから不思議だ。そう匠は思う。
――藤澤が言いたいのは、言っているのは、ただ純粋に、本当に残念で悔しくて仕方がないのだという、それだけだから。
ある意味、匠自身が思うような、憤慨するような、そんな思いだから。
そしてそれがわかるくらい、藤澤は近しい人間だった。
「俺の怪我は、俺が無茶したせいだし。二度と出来ないって言われて、それだけで諦めたのも俺だし。今、ピアノ弾くのも俺の我侭みたいなもんなんだよ、藤澤」
『……ん』
「だからそんなことお前が思わなくたっていいんだ。お前が――怒らなくたっていいんだよ。俺が選んだんだから」
『でもそう思ったんだ』
「……」
まっすぐに向けられる言葉。
まっすぐに突き刺さる言葉。
どうして彼はいつもいつも、こんな風に自分でも気づいていなかったような、欲しい言葉をくれるのだろう。
匠がいなくて、寂しい。悔しい。腹立たしい。
そう思ってくれたことが今、どれだけ、ニュースを見るたびにそこから目をそらし、当日に至っては朝から誰にも会わずレッスン室に篭った自分が抱えていた心を救ってくれたか、この男はわかってなどいないのだ。
「藤澤」
『何?』
「時間、あとどれくらいある?」
『ええっと……10分弱?』
「――わかった」
『……匠?』
「いいからそのままでいろよ」
ことり、と匠は携帯電話をピアノの側に置いた。
そうして弾きだした曲は――彼が好きだといった曲ばかり。
いつも彼が好きだといった曲は、彼のその性格とは裏腹に小さくて可愛らしい、あるいは儚げなものだ。
イメージとは違うんじゃないかと思わず言ってしまったこともあるくらい、それくらい優しい曲ばかりを選ぶ。
落ち着きそうな、よく眠れそうな、そんなメロディライン。
応援歌には相応しくないけれど――彼が好きだといったものだから。
ずっとずっと弾きつづけられればいい。
それが彼のちょっとした救いになるのならば。
それが少しでも彼の助けになるのならば。
彼の言葉が、些細な行動が、自分を助けてくれたように少しでも拠り所になればいい。
『――ありがと。匠』
ギリギリ五分前まで弾き続けて。
そしてその後に聞こえた声はすでにいつもの元気で溌剌としたものだった。
「どういたしまして。ちゃんと頑張ってこいよ。朗報、期待してる」
『あ、誰に言ってんの!?俺が選ばれないわけないじゃん!』
「そんなこと言ったってね……」
『だいじょーぶ。匠がいっぱい元気くれたし。匠の音、俺すっげー好き』
「……」
だからそう躊躇いもなく、はっきり言うなって。
にこにこ笑っているのだろう、昔から変わらない藤澤の笑顔が当たり前のように思い描けるから、思わず見えないとわかっているのに顔を覆った。
赤面した――なんて、絶対に認めたくない。
『チケット、特等席もらうから。全部見に来てよ、匠』
「……ああ。先輩たちにも頑張ってくださいって伝えておいて」
『まあ俺たち三人は確定だろうけどね、言っとく』
「取り越し苦労って言いたいのか?」
『そう、それ!』
楽しそうに笑う声。
本当にこの調子なら何の問題もなくレギュラーの座を勝ち取りそうで、匠も思わず笑みが零れた。
『匠の音、俺思い出すから』
だからふと。
急にそんなこと言い出した藤澤に思わず全ての反応が止まった。
『匠、一緒に走ってないけど、でもここにいるから。俺が匠の音と一緒に走るから。だから匠も俺と一緒に闘ってよ。俺、頑張るから』
「――っ……」
――ああ、どうして。
この時ほど一番、自分の足を憎んだことはなかったかもしれない。
怪我を負った時よりも、事実を告げられたときよりも、それは胸に酷く突き刺さった。
『匠は、俺のこれからも一番のDFで、チームメイトだから。それだけは忘れないでよ』
――ああ、どうして。
どうして今、自分は彼の隣にいないのだろう。
彼と一緒に、彼と同じ、あのいつも眩しいくらいに輝いていた未来への第一歩を、一緒に踏み出してはいないのだろう。
『匠』
声など洩らしてはいない。
嗚咽など微かにだって聞こえてなどいない。
けれど藤澤が笑っているその姿が匠に思い描けるように、今の藤澤はよくわかっているのだろう。
――自分が泣いていることを。
『――行くよ、匠。俺たちの舞台だ』
「……お前の、だろ」
『俺と、匠のだよ』
「……馬鹿……」
でもそれは何よりも嬉しい言葉で。
通話が切れることはなかった。
風を切る音、遠くから藤澤を呼ぶ声、コーチや恐らくは他の集められた選手たちの声が聞こえる。
藤澤のポケットに入っているのだろう携帯の拾う音は、2年前まで当たり前のように自分も聞いていたもの。
――どうしても、切れなかった。
でもずっと聞いていることも――できなくて。
だから。
どうか、せめて。
零れた小さなピアノの音に、彼は気づいただろうか。でも気づかなくても、それでもいい。
ただ彼が自分と一緒に走れるように、自分が彼と一緒に走れるように、今はただ力の限り弾き続けるだけだ。
――二人の、未来に向かって。