34 疑い
ヨエルの秘めたる願いとは裏腹に、レーナはめきめきと力をつけていった。
一冊を読み終わるスピードも速くなったし、話をしていてもどこか知識に裏打ちされた賢さというものを感じるようになった。
けれどもヨエルはレーナとともに過ごしていた。
自分の気持ちに整理をつけられないまま成長していくレーナに、複雑な気持ちを抱えつつも、持っていた感情はいつの間にか愛着を生み出して、離れがたいと思うほどになっていた。
「ヨエル様?」
どう彼女に対応すれば良いのかわからない、けれどももう離れがたい。
興味を持って話をして、楽しく過ごした日々が大切でこれからも続いていってほしい。
その悩みについて常日頃から考えており、ヨエルは随分とぼんやりしているように見えたらしい。
レーナが小首をかしげて聞いてきてハッとして彼女に尋ねる。
「悪い。なんの話だった?」
「ですから、見てくださいこれ。知っていましたか、最近は貴族令嬢の中で楽器の演奏が流行っているのです。妹もそういった事には興味がないので知りませんでした」
彼女が指し示しているのは少し前に王都で流行った小説で、主人公の令嬢が音楽でたくさんの人を魅了し、最後には思いを寄せている公爵子息と結ばれるというものだった。
「自分の思うように楽器が弾けるというのはどんな感覚でしょうか。想像もできません。けれどとても、楽しい事なのでしょう」
目を細めて言うレーナの瞳はいつもと変わらず飴玉みたいで今日は少しうっとりしている。
しかしヨエルはふと思ってしまって、彼女に嫌われたくないという思いと、それでも彼女も所詮はほかの人間と何ら変わりのない人間なのかもしれないという疑念が相まって考えるよりも先に口が動く。
「なんだ、買って欲しいのか? 素直に言えよ。そうすれば君との今までの関係を清算する代わりにくれてやってもいいぞ?」
言ってからひどく後悔した。自分は、彼女以外に向けていた敵対的な笑みを浮かべているような気がする。
しかしどうしても思ってしまったからには仕方ない。
こうして小説を口実に、レーナはヨエルに強請っているとも取れる会話を仕掛けてきたのだ。
こういうことは貴族同士の関係ではよくあることだ。
たしかに楽器の演奏というのは優雅で美しく人の目を引く、貴族たちの間で人気になるのだってその行為に楽しみを見出す人間がいるからだろう。
だがしかし、それと同時に貴重な材料をふんだんに作られて作る楽器というものは非常に価値が高い。素晴らしい素材が使われているほど、綺麗な音色を奏でるものだ。
そしてその経済力を多くの人にアピールすることができる。
貴族たちの間で流行っているのはそういう純粋な音楽に対するポジティブな思いではなく、打算と策略にまみれたなんの美しさもない見栄の張り合いによって盛んになっているだけに過ぎない。
そんな下らなくてつまらないものだ。
そしてやりたいなんて口にするからにはヨエルに望んでいるのだろう。レーナだってそういうやり口を妹から覚えたのではないか。
レーナが成長すれば周りの人間が、入れ知恵をする。
利用できる男がいるのなら利用するのが貴族令嬢だろう。
彼女は賢くなって、多くのものが価値になることを知ったのだ。きっと自分の家にとって価値のあるものを求めるに違いない、はずだ、と決めつけた。
彼女は自信が望んだように、よくなったというのに、ヨエルが考えることはそんなことばかりだ。
「……いりません。私のできることは、図書館で本を読む。それだけで十分です」
謙虚なふりをして、ヨエルの言葉に傷ついたふりをして打算なんか無かったというような顔をする。
それはとても当たり前のことで、一度疑うと彼女の何もかもを信用できない気がして、ヨエルは続けて何かよくない事を口にしようとしていた。
しかし、レーナの方が先に言葉を発した。
「なにか、つらいことでもありましたか? 私は何か間違えてしまいましたか?」
「……つらいこと?」
「はい。ヨエル様が悩むような難しいことに私がアドバイス出来るとは思えません。けれど、役に立てることがあったら言ってください。私の手でよろしければお貸しできます、本、返してきます」
そう言って彼女は適当に立ち上がって読みかけだった小説を棚に戻しに行く。
それから戻ってきた彼女はヨエルの前に行儀よく座って、何か話すのだろうかと疑問に思いながら静かにしている。
……つらいこと……。
ヨエルは彼女の言った言葉を考えて、たしかに自分が醜すぎて、レーナに去ってほしくなくて、けれども疑ってしまって、それが随分つらかったと改めて思った。
「……」
彼女に、自分でも自覚していないような考えを読まれて、当てられて、ヨエルが思っている以上に彼女は賢くて多くを知っているのだと思う。
それは、ヨエルにとって警戒すべきものなのに、まっすぐに見つめてくる瞳は結局、ずっとヨエルにとって純粋に見えていて。
すべてが結局自分のさじ加減だったのだと知る。
自分は彼女の無知ゆえの純粋な目が好きだと思っていた。醜い愛情だと思っていた。
しかし、そうではない。
ただ、信じたいと思って、そういう条件がそろっていたから好ましく思った。
けれども彼女は変わって、ただの信じたいと思った条件だった無知であることをヨエルが勝手に重要だと思い込んでいた。
きっとただ、彼女に対する今の思いは、本当の事などどうでもいいから、今までこうして接してきた彼女が愛おしい。
純粋で、賢くて、優しくてまっすぐに見つめてくれる彼女が好きだ。
「ごめん。つらく当たった。ただ俺が、勝手に苦しんでいただけなのに」
「気にしていません。私、ヨエル様はどんな態度でもこうして話をしてくれるだけでうれしいです」
「……そうか」
ただ一人、信じられるかそうではないか以外のさじ加減でものを見て、そばに居られる人それがいるだけで、ヨエルはひどく救われた。
だから彼女がいいし、彼女でなければだめだと思ったのだ。




