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1 足りない令嬢 *



「ほら、レーナ。ここだここ、ここにサインをすればいい。そうすればお前の大好きな母親に会わせてやろう。いくらお前でも自分の名前をサインすることぐらいはできるだろう?」

「……出来ますけれど」

「じゃあほらここ、早くしろよ。俺らはお前と違って日々、やることが山ほどあるんだからな」


 婚約者のアーベルはそう口にして、二つの並べられた書類をペンでトントンと示した。彼が前かがみになると少し強い花の香水の香りがした。


 そしてその隣にいるマイリスはその様子を見てくすくすと笑っている。


「ちょっとぉアーベル、そんないい方しなくてもいいじゃない、いくら何でもレーナが可哀想だわ」


 そう言いつつも表情はレーナのことを馬鹿にするような笑みを浮かべている。そういう表情は、今まで何度も彼女にも他人にも向けられてきた。


「いやいや、このぐらいはっきり指示してやらないとダメなんだ。じゃないとわからないだろ、生まれながらの知恵遅れには」

「なにそれ、優しさのつもりって事?」

「ああそうだ。今だってほら、マイリスが口をはさむから固まってしまっただろう可哀想に」


 彼らはそんなふうに会話をしてレーナへと視線を移した。


 それにレーナは、いつもの事だと思ったが、固まってしまっているのは何もマイリスが文句をつけたからではない。


 ……これ、婚約解消の書類に……それに、何ですかこれ。


 見れば見るほどその書類は不可解で、謎の自白が書かれている。このクレメナ伯爵家の収益を長年にわたり王族に隠していて報告を怠っていたというような内容だった。


 そもそもレーナはクレメナ伯爵家の跡取り娘ではあるが、実務的な事にはまだ関与していない。


 もちろん普通のならば後継者教育が始まっていて、実務に携わっていてもおかしくないのだが、レーナの状況は特殊で父はレーナに対しても妹のマイリスに対しても無関心だった。


 だからこそレーナの変化にも、マイリスの最近の行動や状態についても父は一切知らない。


「あの……この書類は……何と言いますか」

「ああ、いい、いい。どうせお前はこんな難しい書類など理解できないだろう? だから早くサインをしろ、出来ないなら母親に会わせてやらないぞ?」

「そうよ、レーナ。早くしてよね。まさか本当に自分の名前すら書けないの?」


 煽るようにそう聞かれて、レーナは少し困ってしまう。


 たしかに母親には会いたい。しかしそんな権限をアーベルが持ち合わせているはずもないし、レーナは領地の収入をごまかすようなこともしていない。


 婚約解消の書類だけだったなら納得できない事もない。


 アーベルはレーナの事を母のように知能の遅れた女の子だと思っているだろうし、マイリスの事を好いているように見える。マイリスも同じくアーベルに思いを寄せているようだった。


 アーベルはレーナと婚約解消をして、マイリスと結婚したいと考えていると考えることができる。


 しかしそれには、あまたの障害があるだろう。


 だからこそレーナに罪を着せて追い出してからマイリスと結婚するという手段はデメリットが大きすぎるような気がした。


「私は、きちんと納得できない書類にサインをするなといろいろな人に言われていますし、そうするべきだと思います。だからできません」


 自分の判断でもあるし、そういうことはしないように屋敷の者には躾けられてきたのだから守る必要がある。


 けれども彼らはその答えが予想外だった様子で二人して驚いて、それから顔を見合わせる。


 それから、子供の戯言を朗らかに笑うみたいに笑みを浮かべた。


「ははっ、良いんだぞ、大人ぶらなくて。どうせお前に納得できる書類なんてないんだ。婚約者の俺が言っているんだそうすればいい」

「そうよっ、あなたのちっぽけな頭で考えたってわからないわ! そんなの分かっているのにね! じゃあ、あなたこれから一生、何の書類にもサインせずに生きていくわけ?」


 彼らはカラカラ笑っている。


 それにレーナは、どうするべきかわからない。昔からそういう扱いではあったが、ここ最近は異を唱えたいと思う事も増えてきた。


 けれどもそれを言い出す機会をずっと逃している。

 

 レーナは自分が普通だとは思わないが、何も分からないわけじゃないという事に気が付いていた。


 ただそれを今主張したところで彼らは聞きそうにない。父もそれを示す機会を与えてはくれないし、幼いころからのレーナを知っている屋敷の者も同じように難しい事を考えなくていいように配慮をしてくれている。


 だからこそ、それが一番の悩みだった。


「……じゃあ、持ち帰ってよく、考えます」


 そういうと彼らの間に、多少の緊張が走る。


 人の顔色をよく見てきた人生なので、それがどういう感情なのかすぐに察知してレーナは昔のように口をあけて笑っていった。


「……あと名前の字を内緒で侍女に教えてもらいます。妹や婚約者に教えられるのは恥ずかしいので」

「っえ? ふふっ、嘘。本当に自分のお名前も書けないの? レーナちゃん」

「やめろやめろっ、っははは! レーナちゃんは可愛いな、ずっとそのままでいてくれ!!」

 

 彼らはそういうとゲラゲラと笑いだして、レーナの事を幼い子供の様に呼ぶ。マイリスは手袋をつけている手をパチパチ叩いて喜んでいた。


 その様子に書類を手に持って少し恥ずかしくなる。


 これを手段として使えるほど自分は良くなったと思うべきか、それともこういうふうに言われたら憤慨するべきかそれはまだレーナにはわからない。


 それはレーナが、咎人だからなのだろうか。

 

 そう疑問を持って、去っていく彼らを見送ってから、近隣領地の図書館へと向かおうと考えた。





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