恐ろしい目のドラゴン
ソフィア視点です
「ソフィアお嬢様、恐ろしかったですね」
侍女のカヤに声をかけられて、呆然としていた私はやっと我に返った。
たった今、初めてのお茶会を終え、ノヴァック侯爵家の次男で婚約者になるであろう男性が帰ったところだ。
「ドラゴンで間違いないわ、絵本の中にしか出てこない空想上の動物。あの方はそういう類の生き物よ」
カヤと私は手を取り合って、先ほど見た恐怖の光景を思い出しブルブルと震えた。
クノール地方の田舎からほとんど出たことのない私は、領地を任されている気さくな執事夫婦の実の子のように育てられ、男爵令嬢とは名ばかりの村娘みたいな18歳だ。
父から王都のタウンハウスに来るよう命じられ、来てみたらびっくり仰天、侯爵家のご子息と婚約ですと? 男爵令嬢が侯爵家と? ありえないからそんなこと。何度も聞き返して確認してしまい、10年ぶりくらいに言葉を交わした父の機嫌を損ねてしまった。
父は事業を次々と成功させ、今や国でも名の知れた大実業家で信じられないほどの財を築いているらしい、とは言っても、いくら何でも身分差があり過ぎる。だってクノールの領地を管轄する伯爵様だって、遠目に姿をちらっと見たことがあるくらい、侯爵家ともなれば馬車さえお目に掛かったことがない。
そう、生涯会うことがないであろう存在である侯爵家のご子息。だから私はこの想像をはるかに超えた状況に取り乱し、何とか落ち着くために彼をドラゴンと名付けた。伝説の獣に会うくらいの心地なのだ。
「あのドラゴンの目を見たら、魂を抜かれて魔界へ連れていかれそうだったわ。この婚約にどんな謎が隠されているのか不思議だったけど、1回会っただけで理由が分かった。あの方と結婚したいとは誰も思わない、ねえそう思うでしょカヤ」
クノール領を取り仕切っている執事の娘で、2つ年上の姉のような存在であるカヤは、侍女としていつも側にいてくれる。彼女もノヴァック様がどれほど異様だったかを語ると首をぶんぶん振って同意してくれた。
ドラゴンであるノヴァック様は男爵家を訪れると丁寧に挨拶をしてくれた。そしてお茶の席に座り、1時間後に立ち上がり、そして帰っていった。火は吹かなかった、かぎ爪で暴れもしなかった、しかし……
彼は無言のまま不動の石像のように座り続けた。黙っているくらいいくらでも耐えられる。でも彼は目を半眼にしてこちらをずっと見ているのだ。地獄の底から覗いてくるような、背筋を凍らせる鋭さで、がつっと視線を合わせたまま動かない。
怖い、怖い、怖いから~
目をそらしてもいいの? ずっと見てなくちゃいけないのこれ? え? 眼球が時々上下に動くんですけど、何これ人間なの?誰かタ・ス・ケ・テー、精神崩壊するから~
彼はドラゴンで間違いなかった。いつか見た絵本の中に書いてあった。『ドラゴンと目を合わせてはいけません、精神を狂わされてしまいます』
父は私と会話をしないので、家令にこの婚約のいきさつを教えてもらった。ノヴァック侯爵家と鉄道事業の話を進めている時に冗談として父が「娘を差し上げます」と伝えたら、二つ返事で次男の嫁に欲しいとなったとのことだ。何故ならこの次男のダニエル様は、会う令嬢すべてから婚約をお断りされてしまうというのだ。結婚さえできるなら、もう男爵令嬢でもかまわないところまで彼は落ちてきているのだ。
まさか! だって侯爵家ですよ。そんな格上からの婚約を誰が断れるというの? 明日結婚ですって言われても、はい仰せの通りにいたしますってなるから。変だからこの話は、たぶん結婚したら何かの生贄にされて血を抜かれるとかそういう隠された理由があるに違いない……
たった1度の面会で、何故彼が婚約できないのか、身をもって知った。血を抜かれる方がまだましと思えるほどに、黙ったままの彼と1時間見つめ合うことは拷問のようだった。しかし、侯爵家との共同事業の献上品である私は、このドラゴンから逃げ出すことは無理なのだ。
次に会った時も、きっちり1時間の拷問に耐えた。3回目のお茶会で私はもしや……と思い始めたことを確かめることにした。
このドラゴンは、目は合うけれどこちらを見ていないのでは……
私はドキドキと高鳴る心臓で震える指を持ち上げた、勇気を奮って……
アッカンベーと指で目じりを下げると舌をべーっと出した。
なんと! ドラゴンに反応は無い。不動のまま半眼でじっとこちらを見たままだ。
ほうと息を吐いて安心した。なんだこの人私のこと見てないじゃん。
それからは、かなりリラックスして紅茶を飲んでお菓子を食べたりした。私が何をしようと目の前のドラゴンは目を開けたままどこかの世界に意識を飛ばしているようで、何の変化も無かった。
ノヴァック様を遠慮なく眺めた。いつも冷たい表情で固まった顔であるけれど、太めの眉と通った鼻筋は凛々しく、騎士様のような精悍な美しさがあった。肌は綺麗で、爪も手入れがされており、髪型には微かな乱れもない。公爵家ともなると、頭からつま先まで侍従にお手入れされているのかも。これが真のお貴族様かとため息がでるほどの品の良い体が、最上級のジャケットに包まれている。
クノールの田舎は雨が多いので、ぬかるみを走ってスカートを汚しよく叱られた。こんな野山を駆けまわっていた私が、こんな高貴な方の妻を務めることができるのかしら……
冷たい風が心の中を吹き抜けて、高まりかけた熱を一気に冷やした。
ああきっと妻は名ばかりで、結婚したら次の日からもうこの方に会うことも無いのかもしれない。
もう母とは10年近く会っていない。同じ館にやって来ても顔さえ見せてくれない。クノール領に捨ておかれて、年に数度やってくる父も声をかけてくれることは無かった。
母や兄に対しては、家族として扱ってもらえない寂しさはもはやなく、会った時に顔が分るかどうかそれが1番の心配事だ。どうしよう、兄と気づかず「初めまして」と挨拶してしまったら。
私はこの男爵家で、居るのに姿が見えない空気なのだ。
ノヴァック家に嫁いでも、同じなのかもしれない。結婚しているという事実だけが必要で、私は空気になる。いま目の前にいるのに、このドラゴンは私に気づくこともない……
ノヴァック様の腕がゼンマイ仕掛けの人形のように動いて、視線を動かさないまま紅茶を口に運んだ。そして、長く形の良い指がクッキーを摘まんで、大きな口に入にいれた。
ピッとドラゴンの体に電流が走った。
瞳に生気が宿り、こちらを見た。その瞬間私にも電流が走った。
ついに見た。彼が初めて気づいたのだ、私がここにいることに!
「どうかなさいましたか?」
「いいえなにも」
会話ができた! すごい、すごい、ドラゴンが喋った!
質問すると答えてくれ、なんと彼は頭のなかで書類を広げて仕事ができるのだと教えてくれた。悪魔の眼差しは、こちらの精神を狂わせるためにしているのでは無いことが分った。彼は特別に優秀な頭脳で、ひたすら仕事をしていたのだ!
私は興奮していた。ドラゴンがこちらに気づいた時の快感がたまらなかった。伝説の獣の気を引くにはどうすればいいだろうか、もう一度この雷に打たれたような衝撃を味わいたい。
獰猛なドラゴンにもしかしたら返り討ちにあうかもしれない恐怖はあったけれど、どうせ結婚すれば空気になる身だ、せめて何回かは気づいてもらって顔くらいは覚えてもらいたい。
よし! ドラゴンをびっくりさせる作戦を開始しよう。