8.勝ち取りたいもう1つのもの
父を説得することは大仕事ではあったが、私には勝算があった。けれどソフィアの心を取り戻すための戦いは、何をどうすればいいのか途方に暮れた。法律の知識なんて何一つ役に立たなかった。
手紙を送っても、面会を申し込んでも彼女は会ってくれない。
クノール男爵が言うには、私とアビス公爵家息女との婚約話が彼女の耳に入ってから「私はもうあの方の婚約者ではないから、会う理由がありません」と言って、王都を去って男爵家の領地である田舎のクノールに戻りたがっているらしい。
彼女を傷つけたことを詫びたかったし、私がどれほど結婚を望んでいるかも伝えたかった。
けれど世間の常識からすれば、男爵家と侯爵家の婚姻は家格があまりに違うし、まして公爵家との婚約話が上がれば、そちらを取るのが当然と受け取るだろう。クノール男爵は娘に関心が薄く、娘とまともに会話すらしていない、私が強く面会を望めば、物のように引きずり出してきそうであるし、実際彼はそういう物言いをする。
「あんな娘があなた様を煩わせて申し訳ございません。いつでも連れて行って好きにして構いませんよ」
『私はあなたを空気の様に扱うつもりは無い』と約束した。だから彼女が自分から私に会うと決心して欲しかった。
侯爵家という権威で囲い込んだのではなく、私の心が望むからあなたと結婚したいのだと彼女に信じてもらうにはどうしたらいいのか。
あの挑戦的な瞳を取り戻したい。
挑戦……そうか、彼女に勝負を挑んでみよう。
手紙を書いた。
私の出す問題に答えてくれないか?
『ソフィアの側に常に1つあるのに、世界に1つしかないものは何でしょう?』
答えが分ったら私に1度だけ会って欲しい。
◇◇◇ ◇◇◇
手紙を送ってから10日程過ぎて、遂に返事をもらうことができた。最後にお別れの挨拶をしたいと書いてあった。
翌日、私は何もかもの全てより、彼女に会うことを優先してクノール男爵家へ向かった。
初めて彼女の部屋に通された。
婚約者であればそれが普通のことなのか、マナー違反なのか私には分からなかったが部屋に入った。いつも彼女の側にいる若い侍女が「お越しになりました」と声をかけても、彼女は窓の方を向いて立ち、顔をこちらに見せてくれなかった。
「ソフィア」
名を呼んでも反応は無く、私は長い沈黙に耐えた。
「ソフィア、会いたかった」
そんな言葉を私は一生使う予定が無かったのに、今は振り向いてくれるまで何度でも叫びたい気持ちだった。
「私も会いたかったです……でも、ダニエル様に会ったら、きっともっと会いたくなって、今でもこんなに苦しいのに、もっと苦しくなったら……どうすればいいか分からない……だから今日でお別れを」
窓を向いたまま、震える小さな声が届いた。
ゆっくり近づいて、手を伸ばせば触れられる位置まで行って立ち止まった。
「だったらもっと会えばいい。そうすれば苦しくなくなる、きっと」
彼女は勢いよく首を左右に振って、肩を震わせた。
「会えません。だって結婚できないもの」
「できるよ」
「できません。だって私達の婚約破棄を考えると楽しくてたまらないって言いました」
言葉に怒りが含まれて声が大きくなった。その感情の苛立ちが、私にぶつけられたことに少し安堵した。
「怒っているね」
「怒っていません。諦めたのです」
彼女の茶色い髪は結われずに流されている。うつむくとそれはサラリと揺れた。
「何を諦めたの?」
彼女は泣くのを堪えるように言葉を詰まらせ黙ってしまった。続く沈黙は苦しかった、けれど私は会話とは何かを学ばねばならない。黙るだけでなく、一方的に喋るのでもなく……彼女の言葉を待つのだ。
「誰かに気づいてもらうことを諦めたんです! 私の気持ちなんてこの世にないと同じで……」
彼女が振り返った。茶色い大きな瞳は涙に濡れて、怒った顔で叫んだ。
「空気になってただそこに居ればいい」
ああ抱きしめたい。
その頭を私の胸に押し付けて、髪をぐしゃぐしゃにかきまわして何も考えられないようにしたい。
拳を握りしめて彼女に触れたい衝動に耐えた。
言わなければ、あなたが誰よりも必要だと。あなたの心が欲しいのだと。
胸に込み上げる思いが強すぎるのか、言葉が出てこない。
何度も息を吐き出して、吸っては言葉を探す。
どうにかやっと「ソフィア」と呼ぶことができた。
彼女の眼差しは怯えていた。彼女は私が別れを告げにきたと思っているのだ。
そして……彼女も別れることを決意している。
「私は……あなたと結婚したい」
違う、違う、こんなんじゃ駄目だ。頭を左右に振って「しっかりしろ」と己を叱った。
騎士のように跪き思いを込めて告げた。
「ソフィアどうか私と結婚してください」
彼女がふわっと詰めていた息を吐いた。力が抜けて瞳は優しくなった。私の言葉が届いたのだと嬉しく思った刹那、ソフィアは突然ハッと体を固くして激しく首を振った。
「駄目です。無理です結婚できません」
「どうして!」
「だって、私との結婚なんて吹いて飛ぶような軽いものだわ。ダニエル様の気まぐれですぐに終わってしまう。そんなのは無理です。ダニエル様にとってはどうでもいい遊びのような事かもしれないけれど、私は無理なんです。心が壊れてしまうんです。だから、もう……これきりで……」
跪いた姿勢のまま「気まぐれなんかじゃない、心からあなたと結婚したいんだ」とくり返したが、彼女は寂し気に微笑むだけだった。
「アビス公爵家のお嬢様とご婚約なさると聞きました。国中の話題になる素晴らしい良縁ですね。どうか……お幸せに……なって……」
「ねえソフィア。私の出した問題は解けた?」
跪く私を見下ろしながら、彼女は困ったように小首をかしげた。
「答えは初めから知っています。だってあなたに見せた紙に書いてあったでしょう? 私が見つけたなぞなぞです。答えは『太陽』ですよ」
思った通りの返事で、私はにやりと笑った。
「ああ私の勝ちだ。ソフィアは間違えた」
え? と彼女の瞳が揺れた。ムッと腹を立てのが見て取れた。
ほら戻ってきた、挑戦的な瞳が。あなたは負けず嫌いだと知っている。
「いいえ間違えていません。『昼間、あなたが行くところにいつも1つあるのに、世界に1つしかないものは何でしょう』のなぞなぞの答えは『太陽』ですよ」
自信げに私を覗き込んでくる彼女の瞳は輝いて「私の勝ちよ」と言ってくる。その顔がとても愛らしいが、あなたの勝ちを取り上げるぞ!
「問題文が違いますよソフィア嬢、私の手紙をよくお読みになりましたか?」
わざとらしく丁寧に言うと、彼女がちょっと迷った顔になり「何か違いましたか?」と口を少し尖らせた。
「わたしの問いは『ソフィアの側に常に1つあるのに、世界に1つしかないものは何でしょう?』だった。昼間だけでなく、何時でも何処でも、ソフィアの側に常にあってこの世に1つしかないものだよ」
彼女が増々困った顔になった。眉根を寄せて懸命に答えを探している。私と目が合うとむすっと不機嫌な顔で睨む。それがとても可愛らしくて笑ってしまった。
「さあ、降参してソフィア。答えを教えてあげるから」
「悔しい……」
とうとう我慢できずに、彼女の左手をとり小さな掌をぎゅっと握った。
「答えは『私の愛』だ」
柔らかい手を口元に寄せてキスをして、しばらくそのまま離さずに目を閉じた。
目を開いて、彼女の瞳を捕まえる。真っすぐに見つめて想いの丈を込めて告げた。
「愛している」
「ふえぇ」
聞いたことのない空気が抜けるような声を彼女が出した。
「世界にたった1つの私の愛は、ソフィアの側に常にある。1つしかないから他の誰のところにもいかない、ただ一人あなただけ、私の愛はソフィアだけのものだ」
「ダニエル様、そんな顔でこれ以上言われたら私の心臓が止まります」
真っ赤な顔のソフィアが「ふわっふわっ」とまた変な声を出した。
「心臓が止まる前に、結婚すると言ってくれ」
「どうして私なんです。こんな令嬢の嗜みも忘れるような田舎者なのに」
「どうしてあなたなのか? だってソフィアは私の太陽の王女様ではないか。私の太陽。あなたがいなければ私の世界は暗闇だ」
ソフィアの目が急に揺らめいて、そして涙で一杯になりこぼれて頬を伝って落ちた。ぽろぽろ涙の粒がこぼれる。
「ソフィア悲しいのか?」
「いいえ、嬉しいの」
彼女の手をもう一度強く握った。
「私と結婚してくれるね」
「はい」と聞こえた時、彼女を抱きしめたかった。どうしようもなく、それができない事が苦しく、強く目を閉じて耐えた。
知らなかった、婚約者とはここまで忍耐力を強いられる立場だったとは。
早く夫になりたい。そして好きなだけソフィアを抱きしめたい。
◇◇◇ ◇◇◇
仕事の忙しさもあり、週に1度会うことは難しかったが、手紙のやり取りをし足繫く彼女の元に通った。
ソフィアはまた挑戦的にな瞳で私をびっくりさせてくれるようになり「今日の講義はここまで」と私の法律話の暴走も、上手に止めてくれるようになった。
私たちの結婚のために、国政の中枢で働いていた私が国務から離れ、地方官僚のような子爵になることを告げると、ソフィアは責任を感じて私の気持ちを心配してくれた。
「自分でも意外なんだが、子爵になって領地を任されるのも悪く無いなと思っている」
「でも、大好きな法律のお仕事ができなくなりますよ」
「それは正直に残念だ。でも領地の仕事はあなたと一緒にできるから、想像すると楽しそうだ」
そう告げた時のソフィアの驚いた顔と、幸せそうな笑みが私の心に残っていた法務局への未練を吹き飛ばしてくれた。
「私は人に興味がなかったのだが、あなたに会って知りたい世界が広がったのだ。会話というものの本質を私はもっと学びたい。それは相手を知るということだ。しかし、今まで鉄の機械と呼ばれてきたからな、そうそうに変われない。でもソフィアが側にいてくれれば何とかなるだろう」
「分かりました。二人で協力して周りの人を驚かせていきましょう! 私は全力で頑張りますよダニエル様」
私の本意が伝わったか少しの不安を含みつつ、ソフィアは張り切って子爵婦人になることを了承してくれた。
しかし、私は冗談でも「1カ月前に婚約破棄するのが最も良い」などと言わなければよかったと反省した。結婚式まであと1カ月という段になっても、私は子爵位を受爵できるめどがたたなかった。
私の父は侯爵位以外にその他の爵位を数多持っており、そのうちの1つを適当に選んで次男の私にくれてやるつもりだが、どんな爵位を与えようと最終的に国王の承認を得なければならない。しかし国王陛下が渋っているのだ。
お気に入りの私を、法務局から連れ去る父を陛下は怒っている。表向きは両者涼しい顔をしながら、水面下でバチバチとやり合って、私を引っ張り合っている。私は図らずも自分で予言していたのだ。結婚式の1カ月前に酷い面倒事が起きると……彼女を深く傷つけた報いかもしれない。
やれやれと頭を悩ませる私の横で、ソフィアは結婚式を楽しみにして準備に忙しい。
「私いいことを思い付きました」
「結婚式の参列者を驚かせる方法をまた思いついたの? 無理だと言っただろ、私が騎士の格好で白馬にのって登場するのも、会場で花火を上げるのも」
そういう大げさなのは駄目だと分かってますよ、と彼女は口を尖らせた。
「お食事のデザートにしょっぱいクッキーを出すんです! みんな驚きますよ」
ああもう困った人だ。この前から参列者をどうすればびっくりさせられるかソフィアは夢中になって考えている。目がキラキラだ。
「公爵家の結婚披露のパーティーでクッキーはさすがに出ないだろう」
「うーん……あ! それならババロアにする。しょっぱいババロアを出したらみんな一口食べて目を丸くするわ。そうしたら、私達の馴れ初めをみなさんに語って聞かせましょう。しょっぱいクッキーに始まる愛の物語を!」
「我が父上にしょっぱいババロアを食べさせる勇気があるんだね。ソフィアあなたは勇敢だ、私は考えただだけでも震え上がるよ、料理人が罰せられるからやめてくれ。それに、私達は絵に描いたような政略結婚だからね、愛とか言い出したらそれだけで皆驚くだろうね」
「そうね……やはり驚かせるには科学実験を……」
「だからソフィア!」
結婚式で何を企むかわからない挑戦的な瞳が私を見上げる。困ってしまうのに、愛おしさの前にすぐに降参だ。私はこの瞳に負けてしまう、あなたに勝つことなんてできないんだ。
私の太陽の王女様。
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