4.びっくりさせるため
仕事で面倒な案件が続けて起きて、バラ園の後、彼女に会うことなく2カ月が過ぎてしまった。
今回は彼女のことを忘れた訳ではなかった、仕事に忙殺される中で、時に会いたいと思うことさえあった。しかし次々と成すべき仕事を並べて優先順位を付ける時、いったいどうやって婚約者との時間をねじ込めばいいのか、私はその方法が全く分からなかった。
数ある良縁を私に無駄にされてきた父は、不詳の息子に目を光らせているようで、婚約者を放っていることに気づいてすぐに会いに行くよう命じてきた。
だがあまりに忙しい、私はしかたなし手紙を送ってご機嫌伺いをした。すぐに彼女からの返事がきたが内容は意外なものだった。
「婚約者が体調がすぐれないからしばらく会わないと手紙に書いてきたら、どうするべきか?」
上司に婚約者のことで助言を求めるのは生まれて初めての体験だった。私が彼女に出会ってもうすぐ半年になるというのに、1度もプレゼントを贈ったことがなく、2カ月間放置していると告げると心底驚き、早急に対処すべき事案だと教えてくれた。
ここで婚約がまた駄目になったら、父からどんな叱りを受けるか分からない。私は上司の助言のままに、花束やら菓子やらを用意して男爵家へ見舞いに行った。
◇◇◇ ◇◇◇
会えなければ、プレゼントだけ置いていこうと思っていたが、訪ねて行くと簡単に彼女に会うことができた。
彼女は病気には見えなかった。重い病にでも罹っていたらと不安だったからそのことには安堵した。
しかし、どうやって私を負かそうかと挑んでくる、挑戦的な彼女は消えていた。暗く落ち込んでいる女性が力なく座っていた。
体の調子はどうかと尋ねても、小さく頷くだけで返事が返ってこない。うつむいたまま、一度も私を見ないことに、苛立ちを覚えた。
何かを言わねばと言葉を探しても見つからない。
黙ったまま、私を見てもくれない彼女を前に、寂しいと感じる自分が悔しかったが、けれどどうしようもなく彼女に私を見て欲しかった。
沈黙が続く中で寂しさは怒りに変わっていき、彼女のそばに行って強引にその顔を上げさせたい欲求が込み上げた時、唐突に気づいた。
自分がずっと彼女にしていたことを。
今までお茶の席で、私が全ての令嬢にしてきたことを。
黙って頭の中で仕事をして私はソフィア嬢を見なかった。どれほど長い沈黙と無視を私は彼女に与えてきただろう。
「何か困っているのなら話をきこうか」
上司が私に掛けてくれた言葉を、そのまま口から出してみた。果たしてそれは、私に作用したのと同じように、彼女から言葉を引き出す魔法の呪文となった。
「怪我をしました」
「どこを怪我したのだ、大丈夫なのか?」
やっと顔を上げて私と視線を合わせてくれた。悲し気な瞳だった。
彼女が言うには、化学薬品を扱った実験をし、失敗してこぼしてしまい、酷いやけどを腕にしてしまったとのことだ。怪我は治ったのですが……その先を彼女は言い淀んだ。
「言わねばなりません。結婚すればわかることですから……」独り言のように呟いたあと、彼女は深呼吸した。聞くのがちょっと怖くなる程に、深刻な顔で口を開いた。
「やけどの跡が腕に残りました。お医者様はもう消えないだろうと……だから、もしかしたら……私は結婚できないのかもしれません」
「跡が残るとどうして結婚できないのだ」
「それは……そういうものだと聞きました。男性は傷のついた女性を嫌がるものだと」
「私は気にしない」伝えた後、どんな酷いやけどを負ったのか心配になり、傷を見せてもらうと、拍子抜けするような、あるかどうかわからない程度の薄い変色だった。
「私は気にしない。あなたと結婚する」
不安げに見上げる彼女が口を手で覆って目をきつく閉じた。
「どうした?」
「泣いてしまいそうだから……」
「悲しいのか?」
「いえ、とても嬉しいのです」
それから何を言えばいいのかわからずにいると、部屋に控えていた侍女がお茶を用意してくれた。
お互いの緊張がほぐれ、紅茶を飲む彼女を見てほっとした。
「どうして実験などしたのだ、何か学術研究でもしているのか?」
彼女は困った顔で、そうです研究を……と口の中でもごもご言った。
「お嬢様、正直に打ち明けるべきと思います。わたくし、もうお嬢様にこんな無茶をしてほしくありません」
お茶の用意をしてくれた年若い侍女がソフィア嬢に耳うちした。男爵家ということもあり、侍女との関係は近いのかもしれない。彼女は侍女の手を握り、でも……と迷っている。どうやら彼女には秘密があるようだ。極秘の科学実験で作りたいものとは何だ? 毒薬か? この人はどれだけ私を驚かせれば気が済むのだ。
覚悟を決めたのか、彼女は立ち上がると机の引き出しから綴じられた紙の束を出してきて、私に手渡した。パラパラとめくってみたが、子供向けの理化学の話しやら、外国の民話やら、統一性のない小話がいくつも書かれていた。
「これは何です」
「あなたをびっくりさせるための、ネタ探しをしていて、使えそうなものを書き集めました」
意外な告白に、改めて書かれた内容を見る。相当な数の小話が書き込まれている。これだけ集めるには時間も労力もかなり費やしているに違いなかった。
「どうして、私をびっくりさせる必要があるんだ」そこまで言ってはっと気づいた。
「あなたは私を驚かせるために、危険な薬品で実験など馬鹿なことをしたのか!」
思わず声が大きくなり、彼女は怯えたように体を縮こまらせた。
「はい、透明な液が綺麗な光る色に変わると学術書で知って、あなたに見せる前に練習を……」
必死な顔にこれ以上怒ることもできず、額に手を当てて大くため息を吐いた。
「もうやめなさい、こんなことは」
「でも……びっくりしてもらわないと……ノヴァック様は私に気づいてくれないから」
それは私の痛い場所を確実に突いた。つい先ほど気づいた、目も合わさずに無視していた日々を思い出し、彼女が私を責めるのは仕方が無い事だと反省した。
「すまなかった」頭を下げると、彼女はどうして謝るのですか? と不思議そうな顔をした。
「悪いのは私です。気づかれずに放っておかれるのは当たり前だったのに、私が欲をかいたのです。私は幼いときから父にも母にも、空気みたいに扱われてきました。クノールの領地に捨ておかれてからは10年は母に会っていない。父は私を見ても話しかけてこない。この男爵家にいる子供は兄だけなのです」
寂し気な顔で、彼女がぽつぽつと語った。
「空気みたいとはどういう意味です」
「そこに居ても見えない存在。誰からも気づかれない、空気みたいな人間ってことです」
当たり前のことのように、彼女は無表情に説明する。
「だから、ノヴァック様が私に何の関心も持たれていないと知った時、ああ私は結婚してからも、空気になればいいのだと分かりました。でも……」
彼女は唇を噛んで、泣きそうになったが。すぐに笑顔をつくって見せた。
「しょっぱいクッキーを食べたあなたが、びっくりして私を見たの。あの時とても嬉しくて、飛び跳ねて踊りだしたいくらいだった。あなたを驚かせたら、きっとまた私に気づいてくれる、そう思うと毎日がとても楽しくなって……どうやって驚かせようかと……私はそればかり考えて……」
笑い顔は崩れて、寂し気になっていく。
「馬鹿ですよね、欲をかいたんです。あなたは侯爵家で国王様からもお声をかけられるような重要な国務を担う立派な方で、私が選ばれるはずもない、雲の上のお方です。鉄道事業の添え物みたいな政略結婚なのに……ごめんなさい、分をわきまえます。もう気を引こうと愚かな口をききません」
なんと言葉を返せばいいのか、頭の中に何十冊と収められている法律書やらを急いで開いて、気の利いた文句を探した。焦るばかりで言葉は見つからない。いっそ彼女を抱きしめられたらどんなにかいいのに、婚約者としての紳士の規範書みたいなものは、頭の中にすぐに見つかる。
婚約者のうちに彼女に触れることは紳士として許されない。ああ夫だったら良かったのに、そうしたらこんな不安そうな顔をしている彼女の頭を撫ぜてやったり、その唇に……
そうだ! 早く結婚して夫になろう。
「私はご令嬢やご婦人と話をするのが得意ではない。でもだからと言って何も話さないのは失礼だった。これからはもっとあなたと話をするつもりだ」
彼女がノヴァック様ありがとうございますと小さな声で言った。
「感謝されることではない、これは当たり前のことだった。結婚したら私はあなたを……ソフィア嬢を空気のようするつもりは無い」
私は初めて彼女の名を呼んだことに気づいた。
「あの……ソフィア嬢、私のことをこれからはダニエルと呼ぶように……」
簡単なことを話しているつもりなのに、何故か耳が熱くなった。
「そ、それでは私のことはソフィアとお呼びください」
「分かったソフィア」
「はい、ダニエル様」
耳はさらに熱を持ち、顔まで血が上がった。赤くなっていることを自覚して、恥ずかしさに先ほどの紙束をまたペラペラとめくった。
「危険な実験は禁止だ。でも面白そうな話なら、是非またして欲しい。次の勝負もきっと私が勝つだろうから」
挑発すると思った通り、彼女はあの挑戦的な瞳を取り戻した。
「私もあなたと話題にできるものを探しておくよ」
帰り際、そう約束をした。
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