3.太陽の王女様
週に1度であれば忘れることはない。だが月に1度となると覚えていることは非常に難しい。
ロウソクの一件の後、なんとなく彼女に会いにいくのを後回しにしてそして忘れた。もうすぐ2カ月の間が空く頃になって、彼女から手紙が来た。見ごろを迎えたバラ園にご一緒したいとのことだった。
学んだ通りのマナーで迎えに行き、バラ園に着いてからはエスコートして歩く。こうしてしばらく歩けば、婚約者としての今月の役目は終わりだ。黙ったまま、私は彼女とバラ園へと入って行った。
「ノヴァック様はバラを見るおつもりですか?」
馬車の中から始まった長い沈黙を、彼女は突然破った。
「バラ園に来たら、バラを見る以外にすることがあるとは思わない」
ああまただ、この彼女の『挑戦的な瞳』
茶色の瞳がキラキラと輝く、それはもしかしたら俗にいう魅力的と呼ぶものなのかもしれなかった、けれどそれを見る度に居心地が悪くなる。胸が騒ぐのは好きではない。
「バラは見るものではありませんよ」
得意げな顔で彼女は不可解なことを言う、私は気持ちを落ち着かせようとした。今日こそ勝負には乗るものか。
「バラはね、香りを楽しむものです」
彼女が一番近くで開いている赤いバラに鼻を近づけた。しかし残念そうに眉根が寄る。
「これは匂いがないわ」
私の腕を彼女は離れ、蝶のようにバラの花を渡っていく。とうとう満足な顔をして私を手招きした。
「素晴らしい香りだ」
彼女に勧められるままに嗅いだそれは、えもいわれぬ高貴な香りだった。
ソフィア嬢はパチンと手を鳴らした。
「それでは勝負いたしましょう。どちらが最高の香りの1輪を見つけられるか、よろしいですかノヴァック様」
とうとう彼女は、私達の間にあるものが『勝負』だと明言した。
お好きにどうぞ、私は興味がありません。といつもの私なら答えただろう。しかし正直なところ、私は彼女に勝ちたかったのだ。どうしても、見たい顔がある。
私たちは1時間以上を費やして、それぞれの1輪を探し出した。
ソフィア嬢は私から離れて、1人バラを探すうちに、広いバラ園でなんと姿が見えなくなった。これには婚約者として焦った。出先で1人歩きするなんてなんという令嬢だ。しかし遠目に夢中でバラに顔を埋める彼女を見つけた時、これはチャンスだと閃いた。
「では、それぞれの至高の1輪の所へ行きましょう!」
興奮した様子で、彼女は私の腕をとり「私のバラはあちらです」と引っ張る。絶対に自分の見つけた香りが1番だと思っているに違いない、まるで子供のようだと可笑しくなった。髪に乾いた花びらが付いている、立ち止まらせ、彼女の髪からそれを取ってやった。
バラの中で立つ彼女は、理由は分からないが特別な感じがした。私を見上げる顔は何故か赤い。
「ノヴァック様は……怖い顔をしない時もあるのですね」
彼女のバラの前に連れてこられた。
うやうやしく礼をして、レディの手にキスをするかのようにその香りを確かめた。
「甘くて、頭の中が痺れるように心地いい……いい香りだ」
ああ見たぞ、あなたの勝利の笑みを。だが今日の勝負はまだ終わっていない。
彼女をエスコートしてゆっくりと歩き、今度は自分のバラに案内した。まさかバラ園を高揚した気持ちで歩く日がくるとは思わなかった。私は確かに楽しんでいた、彼女を打ち負かすことを。
さあどうぞと促すと、彼女が存分に私のバラを確かめた。
長い睫毛に縁どられた目が閉じられる。バラに小さな鼻が近づいて息を吸い込む様にトクンと心臓が鳴った。
少し尖らせた赤い唇から私は目を離すことができなくなった。その柔らかさを確かめたい……
彼女の瞳が開かれて、鋭い視線に捕えられた時、はっと我に返った。
「どうかな? 私のバラは」
彼女の口が強く結ばれて、苦い物を噛んだように歪んだ。
これだ! この顔を見たかった。敗者の悔しがるこの顔が!
「私の勝ちだ」
「完敗です。言葉で言い表すことさえできないほどに最高の香りです」
バラ園の出口に向かう道すがら、私達は何時ものように沈黙していた。しかし私は頭の中で仕事をしていなかった。勝者の心地よい余韻に浸っていた。微笑んでいたかもしれない。
「どうやってあのバラを見つけたのですか?」
バラ園を出て、木立が続く公園に入ると彼女が聞いてきた。
「バラ園で働いている庭師を見つけて、園で1番いい香りのするバラはどれかと尋ね教えてもらった」
大口を開けて、ソフィア嬢はしばらく呆けていた。そして令嬢がこれほど怒った顔になるなど想像もできなかった、私は驚きに身をすくめる程だった。
「ずるい、ノヴァック様はずるい」と彼女は責めてきた。
勢いに押されて下がると、1本の大きな木の幹まで追い詰められた。
「勝負をするならば常に慎重であらねばならない。あなたは条件を付けなかった。人に聞いてはいけないという決まりは無かった、だから私は不正をしていない」
「あなたがとても賢い方だと忘れていました」
「そうですね、私は法務大臣にお仕えしていますからね、頭を使うのは得意です」
彼女がやっと勢いを止め「悔しい」とつぶやいた。
気分が良くて声を出して笑った。
「笑った……」とつぶやいて、彼女の目がみるみる大きくなり、驚いた顔で見上げてくる。
昼の光が木立の梢を通って、彼女の頭を照らしている。光は体に腕に、そして地面にいくつも落ちてゆらゆら揺れる。
彼女が掌を差し出すと、そこに光が落ちた。まるで光を捕まえたようだった。
「知っていますか? 太陽の光は葉っぱの隙間を通ると、丸くなるんです。ほら見て、光の粒が全部丸いでしょう?」
言われて梢越しに通った光が映し出された地面を見る。いくつもの丸が光って揺れている。
「この1つひとつは太陽なの」
彼女の体にたくさんの太陽が映っている。丸く揺れて煌いて……
「ああそれなら……あなたは今、太陽の王女様だ」
彼女の手をとって口づけたいと思った、けれどしなかった。私は慎み深い婚約者であるべきだから。
困ったような、苦しいような瞳で彼女が私を見つめている。また胸が騒いで心を乱した。けれど嫌だとは思わなかった。
面白ければ評価★ブックマークをしてもらえると嬉しいです。励みになります!