1.しょぱいクッキー
「ダニエル様は私たちの婚約を破棄することを考えていますか?」
婚約者である彼女が聞いてきたので私は「もちろんそうだよ」と答えた。
「楽しくて、考えるのを止められないんだ。どの時期に婚約破棄するのが最も両家のダメージになるか、色々な条件で試算した。その結果……」
その答えに行きついた時の気持ちの高ぶりが戻ってきて、思わず笑ってしまった。
「婚約破棄するなら結婚の1カ月前が1番良い。この良いっていうのは最悪の事態を引き起こすという意味だよ」
彼女は黙ったままでいるので、私の話しに興味があるのだと受け取って、揚々と語って聞かせた。
「両家の共同事業で締結した様々な権利の履行が、すでにこの時期始まっている。だが結婚が駄目になったら、共同事業は中止だ、でもすでに始まってしまった事業を止める根拠がどちらの瑕疵よるかを決めて損失比を決めなければならない。これが結婚する前だと本当に面倒なのさ、むしろ結婚した後の方が法律的には処理しやすいんだよ」
法律の根拠を語ろうとして、ふと目をやると、彼女の頬に水がつたって流れ落ちていた。
彼女の茶色い澄んだ瞳から溢れた水は、目じりを通って筋になり、顎からポタリ、ポタリと……
これは何だろうとしばらく眺めて、泣いていると頭では理解した。
でも不思議な泣き方だった。
声もあげず、無表情で、視線は私を見ているのに、どこか遠くを見ているようだ。
ただ静かに、涙の雫がこぼれ落ちる。
「そうですか、そうですよね、そうですよね、そうにきまっていたのに、そうですよね」
不思議な呪文のような言葉を吐いて、彼女はもういちど「そうですよね」と私に同意を求めた。
「そうですよね、とは何が?」
言葉の意味を知りたくて、涙をこぼし続ける彼女に問うた。
「私が……空気だということです」
彼女の顔がくしゃりと歪んだ。
「結婚式の1月前だと、ウエディングドレスも仕上がっていますし……もったいないですから。あなたが最悪の時期を楽しみにしているところ申し訳ありませんが、婚約破棄は今すぐして欲しいです」
そうか細い声で告げると、彼女はお茶の席を立ち、走るように去っていった。
◇◇◇ ◇◇◇
私の婚約は長続きしない。
それは私に女性と会話を続けるという能力が充足に備わっていないためだ。
侯爵家の次男である私ダニエル・ノヴァックは、法務大臣の次官秘書をしている。法律知識を限界まで脳にため込んで、それを出し入れしながら案件を解決していく作業は、私に至極向いた仕事だ。
だから私は仕事中毒と揶揄されながらも、26歳にして法務省のナンバー3と呼ばれている。いわゆるトップエリートだ。次官の優秀な秘書として申し分ない私は、30歳までにナンバー2になるだろう。
しかし、貴族社会の慣例として相応の地位には妻帯している男しか選ばれない。結婚は私の将来にとって必須事項である。がしかし、結婚の前段階である婚約期間を私は続けることができない、よって結婚できないのだ。
この問題の解決策は父に託してある。仕事に集中したい私は、父が時々持ってくる婚約話にどれも頷いて、お茶会という名の会話試験に臨む。たいてい3回ほど繰り返すと、私は落第点をもらい「口もきかない、顔も見てくださらない殿方とは結婚できません」とういうことになる。
そんな私にも転機が訪れた、今回の婚約候補とは珍しく、お茶会が続いている。
彼女はクノール男爵家の長女で18歳。私は侯爵家次男であり文官として国務の中枢にいる。この婚約は家格的に全くもって釣り合わない。しかし最近熱資源として台頭してきた石炭事業に、この男爵は早くから手を出しており、これから展開される石炭運搬のための鉄道事業の利権をすでに掌中おさめている。クノール男爵は商いにおいてそうとうのやり手だ。
彼女の顔を見る時、鉄道と石炭が見える。我が侯爵家が共同事業者として事業に食い込むことが結婚の条件なのだ。金の卵を産む鳥を父は探し当てたということだ。
そして、彼女は私が黙っていても文句を言わない。これは最高の物件だ、私はすぐに気に入った。
週に1度男爵家を訪ねお茶を共にせよと父の厳命がおりた。全ての時間を仕事のために使いたい私にとって、場所を移動して茶を飲むことは無為な作業としか思えなかったが、この婚約を継続するためには必要なことだった。
何度目かのお茶会で、いつものように用意されたソファーに座り、頭の中の書類を読んでいた。
どれくらい時が過ぎたか、紅茶を一口飲み、目の前のクッキーを摘まんでかじった。
しょっぱい?
甘いと思って口に入れた物が、予想に反して塩辛く私の体はひどく驚いたらしい、思考が遮断され、頭の中が無になった。そして気づいた。
目の前に女性がいた。
「どうかなさいましたか?」
目の前の女性は小柄な人だった。これと言って大きな特徴もない、茶色い髪に茶色い瞳の、まあまあ可愛らしいであろう普通の女の顔だった。
確か名前はソフィアだったはず。彼女は少し驚いた顔をしていた。多分私の様子が、いつもと違うと気づいたのだろう。
「いいえ、何も」
恐らく料理人が砂糖と塩を入れ間違えたのだろう。彼女に説明する程の問題ではない。私はさっきの思考に戻ろうとした。
「しょっぱい」
声が聞こえて思わず見た。彼女がクッキーを手に笑う顔が、しょっぱいクッキーよりも自分を驚かせた気がした。自分とのお茶で笑う人を見るのは初めての体験だった。
「あの……質問してもよろしいでしょうか?」
控えめな、少し恐れを含んだ声だった。
目つきが鋭く愛想が無いと同僚から言われる。だからこんな風に不安げな口調で問われることには慣れていた。彼女も私が怖いのだろう。
「黙っていらっしゃる時、何をお考えになっているのですか?」
「仕事をしている」
茶色の瞳は瞬きをした。私の答えを理解できなかったようだ。
「私は記憶力がいいので、こちらに来る前に、仕事の書類を10枚ほど頭に入れる。そしてここでその書類を頭の中で広げて読んだり、修正したりしている」
「まあ、便利な頭をお持ちだわ。それならどこでもお仕事できますね」
「そうだな」
「でもさっきは驚いたから、仕事が止まってしまったのですね」
私は塩辛いクッキーに目をやった。
「まあ、そうだ」
この会話に、いったいどんな面白みがあったかは謎だったが、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
会話は終わり、私はまた頭の中の書類を眺めることにした。