志崎由奈vs一光1
初回ということもあり、あたしはゆっくりとリング中央付近でステップを踏みつつ相手を観察する。映像で見た一光の攻撃力は頭がおかしいレベルだった。黒人の男子ボクサーを殴り倒す選手と正面から打ち合おうなどと思わない。
一光も様子見なのか、ガードを上げたままこちらの動きを観察している。顔立ちは整っているけど、こちらを見る目の圧がすごい。
観客も静かにこの闘いを見守っている。前の地下格闘技上に比べればだいぶ客層がまともなのか、見合って駆け引きの時間が続いてもブーイングを飛ばす奴はいなかった。
とりあえず相手の戦闘力がどんなものなのかを見定めないといけない。よく一光の動きを観察しながら、スピード重視で長めのジャブを放つ。
連続で放たれたジャブは、三発目にして一光のガードを叩く。あたしはそれによって距離を測り、一光の方はパンチ力を見積もる。静かな、序盤の駆け引きの時間。
でもジャブが届いたのはいいことだ。ガードの上でも叩けるってことは、言いかえればあたしのパンチが届いているってことなんだから。少なくとも一発も当てられないまま一方的にボコボコにされる結末は迎えずに済みそう。いや、負けるつもりはないんだけど。
さて、これからどう攻めましょうかねと思っていると、視界のギリギリ下から何かが見えた。本能で首を引っ込めると、すぐ目の前を高速のアッパーが飛んでいった。
「うわ」
ちょ……風を切り裂く音がヤバいって。観客にもその音が聞こえたのか、パンチを空振っただけでどよめきが起きた。
なに今の? まったく見えませんでしたけど?
っていうかハンドスピードおかしくないですか?
あたしは一光の放ったアッパーの速さにただただ驚いていた。
さすが元男というか、映像で見た以上に恐ろしいパンチを持っている。なんで最後の最後にこんな理不尽なくらい強い奴が出て来るんだって思ったけど、あたしがそういう相手を引き寄せてしまうのもあるのだろう。
とまあそんなことを考えている場合じゃない。どうやら今度の相手は過去最強のボクサーみたい。敬意を払って全力で叩きつぶしに行く。
一光は冷たい眼であたしを観ている。感情のない、暗殺者のような眼。事情は分からないけど、深い闇を抱えているんだと思う。
気を取り直して、ガードを高くする。不幸中の幸いは、相手がサウスポーみたいな特殊な対処を必要とする選手でないことだ。
互いに身体を揺らしながら、タイミングを計ってジャブを放つ。どちらもガードの上を叩く程度のものだったけど、互いに一撃で相手を倒す力を持っている。吐き気を催すほどの緊張感で、ジャブを交換しているとゴングが鳴った。
あっという間の1ラウンド。観客も息を止めていたのか、大きく息を吐くような声があちこちから聞こえる。
自陣のコーナーに戻る。
「どうだった」
「パンチが見えない」
ぶーちんの質問に正直な感想を伝える。
一光のパンチは速かった。まったく見えないとまではいかないまでも、あの高速パンチを観察して避けるのは不可だ。だから予備動作になる膝やらヒジやらの動きを見ておく必要があるけど、それだって微々たるもの。そうなると全体像から得た印象と野性の勘を使って闘うしかなくなる。
「大丈夫だ。パンチには反応出来ている」
ぶーちんがあたしを励ましながら水を飲ませる。水を口に含んでから、ものすごく喉が渇いていたことに気付いた。
「とりあえず焦らなくていい。あいつのハンドスピードはおかしい。ガードを固めているだけでも被弾は減るんだから、絶対にガードを下げるな。後手に回らず先に打て」
あたしが思わず「ん」と声を漏らすほどまともなアドバイスをしたぶーちんにツッコむ間もなく、セコンドアウトを知らせる笛が鳴る。
そう言えばぶーちんはあたし以上に一光の映像をずっと眺めていた。もしかしたらぶーちんには指導者の才能があるのかもしれない。
「ラウンド2」
第2ラウンドを知らせるゴングが鳴った。あたしは再びリング中央へと飛び出す。さっきのリピートみたいに、互いに身体を振ってフェイントをかけ合う。
1ラウンド目のジャブ合戦で大体の距離は分かった。後はぶーちんの言うように先手でペースを握る。そのためには手を出さないといけない。
そういうわけで、あたしはガードを上げたままジャブを連打した。左に回りながら打つので、そうそう簡単にはカウンターの餌食にはならない。仮に右のオーバーハンドが来たとしても、それよりも速くあたしのパンチが相手の顔面に到達する。
ジャブを放っていくと、それだけで観客が沸いてくる。ここの人たちは通なのか、ジャブの重要性を理解している感じのリアクションだった。
軽く速く、左を徹底的に突いていく。依然としてこちらをじっと観察する一光。彼女が観察に徹している間になるべく多くのパンチを放っておく。そうすることで、試合が動き出した頃にはリズムと距離感はあたしが制していることになる。
と、また嫌な予感をあたしのアンテナがキャッチする。左端に見えた何かをかわすべく、すぐに左サイドへと回って距離を取る。直後にジャブへ合わせたオーバーハンドの右フックが目の前をかすめていった。
風を切る恐ろしい音に、観客たちが再びどよめく。これをもらったら一発で倒される可能性が高い。
「いいぞ! 見えてる!」
セコンドのぶーちんが声を張る。そうだ、あたしにはパンチがしっかり見えているんだ。
自信を持ちながら、さらに左を突いていく。時折ガードを破ったジャブが一光の顔面を軽く撥ね上げる。すぐに右を叩き込みたい誘惑に駆られるけど、ここは我慢だ。色気を出して倒しにいくと、逆にカウンターをもらいかねない。
だからもうちょっと抑えつつジャブを突いていく。倒しに行かないのが不満なのか、一部の観客からはブーイングが起きていた。だけど、いちいち気にしていられない。
だけど、問題はそんなことじゃない。
あたしのジャブはたしかに当たっているけど、一光は依然としてじっと観察しているというか、何かわざと抑えているのではないかというほど手数が少ない。一言で言えば不気味な感じ。
一体、何を考えているのだろう?
そう思った刹那、衝撃で目の前が暗くなった。
気が付けば膝から崩れ落ちて、マットに尻餅をついていた。
「ダウン!」
レフリーがカウントを数える。急に沸き立つ観客。
何が起こったのか、まったく分からない。
とにかく言えることは、今のあたしは大ピンチってことだった。




