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暑い日だった。月曜、来たばかりの前田ケンジの脇に寄り、今日昼食を一緒に食べないかと誘った。
「いいですよ。」と言われ、それからすぐ朝礼が始まったので前田ケンジから離れた。
その日は足長こと藤木のスピーチだった。「最近私は幻聴は良くなったのですが幻覚が見えます。時々、変な形の小さいダンボールがたくさん目の前で回っているのが見えるのです。そのダンボールにはひとつひとつ目や口が付いていて、私に悪い言葉を投げかけてくるのです。あまり良い具合とは言えないので次に病院に行った時先生に相談しようと思います。」
笹山エリナは新しく出来たもうひとつの施設の方に行っていたので、昼食を共にしてもバレなそうだった。
パニックの発作を起こしてしまったのはその日の午前だった。作業中、突然自分がどこにいるかわからなくなり、呼吸が苦しくなる。蹲り、視野が狭くなる。そして目の前が暗くなる。支援員の何人かが見守ってくれたおかげで、5、6分程度で意識が普通に戻り、大事にならずに済んだ。
何回味わっても苦しい症状だ。「タニガキさんしばらくベッドで休んでいたほうがいいよ。さっき凄い心配したし。顔色もすごい変だったし、これ、タオル。」施設にタオルはあったのだが、自前の物を高畑サナエが渡してくれた。
「色々すみません、ありがとうございます。」
スピーチの時にパニックの事も話しておいて良かったと心から安堵する。と同時に自分の状態も心配だ。
支援員からも所長からもベッドで休むよう言われたので午前中は休み、おにぎりを食べ午後から作業を再開する事になった。その日の前田ケンジとの昼食は自然とお流れになった。
次の日、朝再び前田ケンジに昼食に行かないか誘った。昨日の今日で気が引けるが、自分の病気を知っている人ならばいざとなっても安心、までは行かないが多少気が楽だ。なにしろ彼に聞かないといけない事がある。
昼休みになり、近くのうどん屋に行き、私はざるうどん、前田ケンジはカレーうどんを頼んだ。私はすぐ食べ終わり、汗をかきながら前田はうどんを食べていた。
「リタリン、もう買わないから。もしかしたらほかの病気にも悪いかもしれないし。」と切り出した。
「いいんすか?でも昨日はマジでビビりました。突然蹲って顔色も土気色で、このまま死んじゃうんじゃないかとと思いましたよ。」
前田はうどんの最後の一本を啜りながら答えた。
「あの、リタリンの件、笹山エリナさんに喋ったでしょ。」
「あー、すみません、言った、言いました。」
「先週末突然誘われて、ホテル行ったんだよね、断れなくて。」
「そうすか。」
「どういうシチュエーションで喋ったの?」
「どうって言われても……」
前田ケンジは少し気まずそうに口をモゴモゴさせている。テーブルの上に小さい蜘蛛のような生き物が這っていたのでデコピンで弾く。
「あの、休みの日だったんすけど、近くのダイソーに行ったら、偶然笹山さんがいて、ドライブに誘われたんす。断る理由もなくて。ドライブしながら雑談してたんすけど、笹山さんがホテルにいきなり入って。欲求不満なんだよねって言われて、そのままする事になって。」
私の時と似たパターンだ。「で、それが何回かあったんす。連絡先を交換して、やるってのが」「前田くんって彼女いなかったっけ?」
「ちょっと前に別れました。LINEもっと頂戴とか、返信遅いとか、色々合わなくて。もともと向こうから告白してきて、そんな好きじゃなかったし。で、ある日笹山さんの前でリタリン飲んでたんす。どうしても眠くて。そしたらこっそりそれなあに?って聞いてきて、やってみたいなって言い出して、他の人にちょっと渡したりしてるから、量が無いし駄目だって言ってもしつこく聞いてきて、うまく誤魔化しきれなかったっす。スミマセン。」
なるほど。そういう事だったのか。
これから先リスクをおかして彼女と関係を持つよりは、惜しいがリタリンを手放して通常の生活に戻った方が良さそうだった。
こちらが誘ったので昼食代は全部払い、少し前田ケンジと話して施設に戻った。
1人がスマホでゲームをやっており、すごいスコアを出していたので、ゲーム好きな奴らはそれを見てゲーム熱を再燃させていた。話を合わせる為に自分もインストールしていた。日本人お得意の同調圧力って奴だ。
スマホのゲームなんて殆どやらなかったが、それと青空文庫、実用的ないくつかのアプリは入れていた。
高畑サナエはゲームをあまりやらないらしく、本を読んでいた。かなり前に出た「けむたい後輩」という柚木麻子の文庫だ。図書館で借りて以前読んだ事がある。その感想など少し聞きたかったが、集中して読んでいるようなので諦めた。
暑が厳しいので皆外よりは冷房の効いた室内に集まっていた。手長足長はスマホを持っていないので手持ち無沙汰に話していた。ダンボールはまだ回っているのだろうか?
その日は無事終わり、帰路に着き今日あった出来事を反芻していた。まだ火曜日というのになんだか疲れた一日だった。リタリンはもう買わない。笹山エリナとも寝ない。リスクが多すぎる。バレたら1発で就労支援に通えなくなるだろう。
その後も笹山エリナから連絡があったが、「リタリンはもう買ってません」「今日は調子が悪くて……」とかわし続けた。前田ケンジはどうなんだろう?まだ彼女と寝ているのか?
リタリンを飲まないことによって、以前の景色は灰色になり再びうつと戦うことになった。ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てきた人々と一緒だ。時間どろぼう。
(つぎの一歩のことだけ、つぎの一呼吸のことだけ考える。)
休みが少し増え、つぎの一歩だけ考えて毎日やって行くことになった。