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8月になった。好きな季節だ。就労支援に通い始めてから4ヶ月経った。実家に帰ってから時も過ぎ、31歳になった。この歳になると特に嬉しくもない。うつの具合は比較的良かった。良かったというか、ナルコレプシー(いつでもどこでも寝てしまうという難義な病気だ)の前田ケンジからこっそりリタリンを買って飲んでいたから元気だったのだ。
その日作業中、毎回前田ケンジは眠いらしくあくびばかりしていた。色黒で、片耳にシンプルなピアスを付けている。彼の顔は全体的に四角く、二重まぶたも特徴的だった。まばらなそばかすが両方の頬にある。身長は160センチ程度。適度な長さに切られた茶髪はワックスで雑にまとめられている。施設内でもそんなに仲間を作らず飄々としていた。年は確か20歳。
それまで飲んでいたサインバルタは効いてるのかどうか分からなかったが、リタリンは覚せい剤に近い成分で、飲むと30分後には「よっしゃー!」と元気がでる。タリラリランのリタリンと呼ばれ、昔は筒井康隆なども愛用していたらしい。抗うつ剤という事で処方されていたが、精神依存が危険すぎるということでまず普通の医者は出さない。というかリタリン登録医しか出せない。もちろん患者から買うのは犯罪だ。でもその子の処方薬をさりげなく聞き出し、個人的に使うぐらいバレないだろうという魂胆だった。
ネットで色々と調べた。砕いてスニッフ(鼻から吸う事だ)すると更に効きがいいらしいが、億劫なのでそのまま飲んでいた。前から試してみたい薬のひとつだった。実際飲んでみると憂鬱な午前中を吹き飛ばすだけの威力はあった。
午後になると効き目が切れてダウナーになってしまうのだが、午前中の体調不良が多い自分にはありがたかった。目覚ましを早めにかけて薬を飲んでもう一度寝る。その30分後にはスムーズに起きられた。
精神依存が強い薬なので少し不安があったが、今の所異常はなかった。そんなに量は飲んでいないからだろう。それまで眠剤の多さで朝起きられないこともあった。
体調不良ではなくて純粋に眠くて眠くて朝起きられないのだ。目覚ましをかけてなんとか起き、朝食もそこそこに父の車に乗り込む。そういう生活が一変した。
その頃「Mirai」では仕事の量が多くなり、通所者が何人か増えた。施設が手狭ということで、近くに物件をもうひとつ借りて支援員が1人増えた。34歳、年齢が近い女性だ。
結婚はしているがまだ子供は居ないらしい。少しふくよかで眼鏡をかけており、おおらかな性格で人好きな気がした。髪はロングで肩から少し落ちるぐらいの長さだった。名は「笹山エリナ」と名乗った。
昔流行った音楽の話をすると、同世代だけに通じるものがあった。10代のティーン向けの音楽なんて下らない物が多いが、当時私達はそれを切に必要としていたのだ。
笹山エリナが言う。
「タニガキさんって、外から見ただけだと完全に健康に見えますね。」
と言われた。何回目だろうか。
「薬を沢山飲んでるからそういう風に見えるのかもしれません。」
人の形をなんとか薬で保っているだけだ。薬が無くなったら毎日寝たきりに戻ってしまうだろう。サインバルタ、デパス、レキソタン、ベルソムラ、ハルシオン、イフェクサー、etc……そしてリタリン。訳の分からない記号の様な名前だ。何故こんな名前がつくのだろうか?
多少薬の増減はあったが、完全に飲まなくなるという事は無かった。何故こんなに飲まないといけないんだと1人憤る事もあった。かかりつけの医者にもう少し薬を減らして下さいと言いたかったが、減らして体調が悪くなったらどうしようという不安もあり、切り出せなかった。
死にたいという希死念慮が時々訪れることもあった。大体何もしていない時だ。ベッドで横になってひたすら希死念慮が通り過ぎるのを待つ。本当に死にたいんじゃない。病気が死にたくさせているんだ。
そう思い込んで布団を被る。興味が持てるものが減った。やる気も減った。将来自分はどうなるんだろう?
そんなこと考えたくも無かった。考える余裕もなかった。友人の30代はバリバリ働いている。自分はといえば月給6万円で交通費も無しだ。前職は事務仕事だったので手に着くような資格は運転免許ぐらいしかなかった。でも自己憐憫でどうなるものでもない。生きていくしかないんだ。どうせ100年後には皆死ぬ。そう思って一日一日を過ごしていた。
笹山エリナは愛想もよく日に日に就労支援に馴染んでいった。私は無難に日々過ごしていた。8月もお盆休みを過ぎ残暑に差し掛かったある金曜日、帰り際にサッと笹山エリナから折られたメモ用紙を渡された。「リタリン。17時。喫茶店たんぽぽ。」と書いてあった。
背筋が凍った。前田ケンジから買って飲んでるのがバレたのだ、おそらく。でもそれだったら所長に連絡するはずだ。彼はリタリンの事をなぜ喋った?違法なはずなのに。そしてなぜ外の喫茶店をわざわざ指定する?何か伝えたい事があるのか?その喫茶店は行った事がなかったがスマホですぐわかった。商店街のはずれからちょっと歩いたところだ。15時から17時まで少し時間がある。
支援員は通所者が帰った後に日報を確認したり、次の仕事を手配したりと残務があるのだ。
喫茶店にはできれば入りたくない。いっそバックれようかと逡巡した後、近所の公園で時間を潰す事にした。不安なので買ってきたビールを頼んだが落ち着かない。味もよく分からなかった。スマホを見ては時間を確認する。結局15分前に喫茶店たんぽぽに到着した。パニックが心配だが、支援員がいれば何とかなるだろう。何を頼めばいいか迷ったがコーヒーを注文した。19時を過ぎた頃、笹山エリナが入ってきた。SupremeのTシャツにジーンズというラフな格好で、フラワーモチーフのピアスを付けていた。
「2時間も待たせちゃったねー!ごめんごめん!」普段と変わりない屈託の無い口調。「タニガキ君何飲んでるの?コーヒーか。じゃあ私もそうしようかな。」
「どうも……」伺うように挨拶するとこちらの口調に気づいたのか少し小声で、「脅迫とかじゃないから大丈夫だよー。前田君から少し耳にしただけ!」
客は我々だけだった。
「どうやって前田から聞いたんですか?」
少しほっとして質問した。
「んー、それはヒミツ!でも薬の売り買いはあんまり良くないよねー。」
「…それは、知ってます。すみません。これからはやめます。」
「他の薬との相性もあるしね。でも前田君から聞いてそんな薬あるんだって初めて知ったよ。私はケンコーだからとりあえずいらないけども。タニガキ君この後時間ある?」
断りたかったが、この後用事があるわけでもなかった。
「大丈夫です。あります。」
「おっ、いいねぇ。ちょっと行きたい所があるんだ。付き合ってくれる?」
彼女の車でたどり着いたのは、ラブホだった。週末なのでかなり混んでいた。殆どの部屋には先客がいた。笹山エリナは少し躊躇した後一番高い部屋を選んで鍵を貰い、さっと進む。後払い方式のようだ。エレベーターで移動し、501部屋に入る。室内は白を基調にしていて、こざっぱりしていて広かった。無人島の絵を描いた風景画が飾ってある。
部屋から湯船が見えるようになっている。これといった特徴はなく、有線と電話機とコンドームがひとつ、枕元に置いてある。
「旦那が長期出張中でさー、夜になるとどうしても寂しくて。」鞄をテーブルの上に置き、彼女は言った。通所者と支援員の関係性までは規約になかったが、普通あってはいけないだろうということはわかる。
「タニガキ君、お酒は好きって言ってたよね。飲む?」返事を待たずに彼女がビールを手渡してくる。
「私は薬の事を誰にも話さない。その代わりここで起きた事を君は誰にも話さない。いいかな?」少し安堵した。どうにでもなれと思いビールを流し込む。
「わかりました。でももしかしたら、薬のせいで勃たないかも。」
「大丈夫大丈夫!心配ご無用!」彼女はいつのまにか冷蔵庫から出したレモンサワーを飲んでいる。
「あの、旦那さんはいいんですか?」「うん、しばらくは出張で留守だから。それにセックスレスだしね。まずは一緒にお風呂入ろう?待たせたから疲れてるでしょう?」
スルスルと服を脱ぎ裸になった彼女は思ったより胸が大きいのが分かった。右太ももにあざがある。
「ちょっとだけ家族にLINEしていいですか?遅くなるって。」
「オッケー!先入ってるね」
母に夜は遅くなる、と簡単なLINEをした。
服を脱いで風呂に入ろうとするといつの間にか勃起しているのに気づいた。
「あはは!タニガキ君大きくなってる!」向かい合わせに湯船に浸かると彼女は足で陰茎をいじってくる。「しばらく彼女いなかったんで、こんなの久しぶりです。」
「好きに触っていいんだよ?」彼女の豊満な胸を撫でさする。風呂でお互い体を洗いあってシャワーを浴びた。体を拭き風呂から出ると彼女はベッドにダイブした。
「タニガキ君とちょっとやってみたかったんだ…ねぇ、後ろから突いて?好きなの、バック。」
付き合う相手がいないのでコンドームを持ち歩く習慣も無くなっていた。急いでホテルに備え付けのコンドームをつける。
ピンサロの事が頭をよぎったが、何故か今度はうまくいった。ゴムを外して結び、ティッシュに包んで無造作に捨てる。2人でベッドに横たわる。
「たくさん出たね。溜まってたの?」「…そうですね、相手もいないし。」少し気になってたことを聞く。「もしかして、前田ともしたんですか?」
「何回か、ね。彼20になったばかりでしょ、確か。いやぁ若いって凄いね!」
笹山エリナはもしかして性依存症なのかもしれない。障害者手帳をもたないこちら側の人間。
「お腹減ったね。どこか食べに行く?」出る際にホテル代を払おうとしたが私が誘ったからと彼女は断固拒否した。代わりに夕食代を私う事になった。
2人とも飲んでいたので代行を呼び、地元の焼肉屋に入り、ざっくり注文した。焼肉を食べる合間に、彼女が話す。
「旦那とは結婚1年ぐらいでレスになっちゃったの。もちろん好きだよ?でもなんとなくする気になれなくて…子供を作る予定も無いし、転勤でこっちに来てから友達もいないし、毎日寂しかったんだ。仕事すれば寂しさも薄れるかと思ったけど、そう単純じゃないみたい」牛タンをつつきながら言う。
「タニガキ君は寂しくないの?」
「今は彼女もいないし、もちろん寂しい時はあります。でも就労支援に通ってる31歳と付き合ってくれる人はいなくて。出会いもないし、マッチングアプリも地方だと人がいないんです。だから寂しいと言えば寂しいけど、性欲もあまりないから丁度いいのかもしれません。経済力もないし未来もわからないから、相手の期待に応えてあげられない。」片面焼けたカルビを裏返したタイミングで、ニンニクのホイル焼きが届いた。網の上に乗せる。
「あのメモは正直ビビりました。」
「ごめんごめんー!寂しい者同士、今夜はパーッとやろう!カンパーイ!」笹山エリナとジョッキを合わせる。
「明日休みってのはいいねぇ!ニンニクでもなんでも、好きな物食べられる。その代わり明日は人には会えないかもだけど。ん!いい匂いがしてきた!」
ホイル焼きの匂いだ。普段の曜日だとなかなか頼めないメニューだ。
普段なるべく外食せず、家で質素な暮らしをしている分、久しぶりの焼肉は正直嬉しかった。
「タニガキ君ってアルコールはダメなんだっけ?医者的に。」
人にビールを渡してきたのに何を今更と思う。
「うつ病で薬飲んでる時は基本的にアルコールはダメです。今γ-GTPも200ぐらいあります。個人的に憂さ晴らしがアルコールなんで、たまに飲んでますけど。」
「そうなんだ。うつ病も辛いねー……」
「中島らもは、私と同じ歳ぐらいの時にγ-GTPが1000超えてる時もありました。酒の飲みすぎで入院しちゃって、その後うつ病も発症して。今はもう亡くなった人なんですけど。」「中島らもって知らないけど、ふーん……1000行くと入院かー……」
「笹山さんは本、読みますか?」「本はあまり読まないけど、旅行記や、ガイドブック?は好き。旅先での細かいエピソードや、情景を浮かべさせてくれるものなんかいいなぁ。
行ったことの無い国の『地球の歩き方』をブックオフで買って読む時もある。実際その国に行く訳じゃないんだけどね。こんなホテルがあって、いくらで泊まれて、こんな名所があって、そういうのを読むのが好き。」
ガイドブックを中心に読む人と会ったのは初めてだった。私もしばらく旅行をしていない。「お金と元気があったら旅行したいなぁ……、あッ、そろそろニンニク焼けましたよ。」アルミホイルの袋の中に入っている、ごま油で炒めたニンニクはホクホクと湯気が立っている。少し焦げ目が着いたニンニクとごま油、塩味がしてしてとても美味しい。ビールをグッと飲み込む。ニンニクと合う。カルビとナムル3種盛りを彼女は店員に頼んでいる。「いやぁ、久しぶりの焼肉は美味しいねぇ。ずっと家で1人、適当に食べてたからさぁ」「私も家族と粗食が多くて、魚ばっかりで肉は久しぶりです。」
ナムル3種盛りが届いた。もやし、ぜんまい、ほうれん草のナムルだ。笹山エリナがナムルを取り分けながら言う。
「本当は新婚旅行で行きたかったんだけど、タヒチのボラボラ島ってとこに行ってみたいんだよね。」
「ボラボラ島?」
「そう、水上コテージがあって海がすごく綺麗な所。あそこに泊まってみたいんだ。でも高くて行けなかった。」
水上コテージの写真は何かで見たことがある。ボラボラ島と言うのか。
「南の島っていいですよね。時間がゆっくり流れて。」海外旅行をした事は無かったが、元気な頃数度行った沖縄の風景を思い出して言う。帰りは最寄りの駅まで彼女が代行で送ってくれた。田舎は車移動が基本だ。
車内で今までの出来事を反芻する。駅前で下ろしでもらい、そこから徒歩で20分ほどで我が家だ。「本当に駅まででいいの?」笹山エリナは家まで送っていくと言ったが、何となく家を知られたくなかったので固辞して徒歩で帰った。
「今日はどうしたの?ご飯は?」と母が言った。
「昔の友達とちょっと会ってて、ご飯食べてきたんだ。」流石に支援員と寝てきましたとは言えない。「そう、ならいいけど、いらない時はいらないって連絡してね」帰りが遅くなるとだけLINEして晩飯の連絡は忘れていた。
「ごめん、今度はそうする。」
父と母は料理は出して、後はほっといてくれる。こちらの病状も心配だろうが積極的に聞いてくる事はあまりない。今の自分には有難かった。作業所に通っているともっとヘビーな環境の人がいる。親の理解がない、殴られる。給料を取られる。ネグレクトされている。
もっとも就労支援に通うまでは「いつまで寝てるの?働けないんだったら家事をやりなさい。」と口煩く言われていた。当たり前の事が当たり前に出来なくなってしまうのがうつ病だ。人として終わってしまう。疲れたので自分の部屋に行き風呂にも入らずベッドに横になる。
−私は薬の事を誰にも話さない。その代わりここで起きた事を君は誰にも話さない。いいかな?−
彼女の少しハスキーな声が頭の中でこだまする。そもそも前田ケンジは何故リタリンの事を話したんだろう?どういう流れで?彼女と寝た時に喋ってしまったのか?前田ケンジの連絡先は知らなかったのでどうしようも無かった。どこかで2人きりになった時に直接聞くしかない。今考えてもしょうがない。土日は休みだから月曜になったら聞こう……。
なかなか寝苦しい夜だった。今日あったことを何度も反芻してしまう。眠剤を追加してなんとか寝付けた。
残暑がきつい休みだったがあまり記憶が残ってない。コーラを飲んでだいぶ前に買ったSwitchのゲーム、「ダンジョンエンカウンターズ」のやり残した部分を終え、月曜日のことだけを考えて過ごした。夕飯を食べ終えた「ペットボトル」とねずみ型のおもちゃで遊んだ。