女性様専用車両
『三番線、まもなく扉閉まりまーす。駆け込み乗車はおやめくださーい。はーい閉まりまーす』
「はぁはぁはぁ、ふぅ……あ」
その車両に乗り込んだ瞬間。おれは時間が止まったように感じた。針のような視線を突き付けられ、呼吸をすることさえも頭の中から消え失せた。
そして電車のドアが閉まり、動き出そうとした瞬間。全ての楽器が音を外した最悪の演奏会のような不快な悲鳴が、おれの鼓膜を引っ掻いた。
おれがそのショックと電車の揺れでよろめき、反射的に手を伸ばすと女たちは、まるで保菌者かゾンビと相対したかのように、さらなる悲鳴とそしていやに尖ったヒールを履いた足で、おれに蹴りを放った。まるで足元をゴキブリが駆けまわっているかのように喚きながら足を上げ、倒れたおれに向かって執拗に振り下ろす。おれは堪らず亀のように体を丸め目を閉じた。
「おやめ!」
その声がしたあと、おれの周りから一斉にカカッと靴音が遠ざかった。まるで死骸に集る蟹の群れのようだとおれは思った。
おれは目を開けた。目の前、床にぬめり気がありそうな血の塊があった。体中からじんわりと痛みが込み上げ、しかし、鼻はジーンと痺れ、腫れているような感覚がした。もしかしたら折れているかもしれない。でも確かめる気もその間もなかった。
「あんた、顔を上げな!」
「ひゃ、ひゃい」
くすくす笑い声がした。
おれはちゃんと「はい」と答えたつもりだったが舌が回らなく、しかし視界は回り頭は回らず、どうやら顎にも蹴りを食らい、脳震盪を起こしているようであった。
「この変態野郎がぁ……次の駅で降りるんだよ! いいな!」
リーダー格らしき女が、吐き捨てるように上からおれにそう言うと、周りの女たちが「あら、窓から放り出しましょうよ!」「そうよそうよ!」と同調した。
おれはブルッと震えあがった。溜めた小便を出した時のように。もしかしたら、少し漏らしていたかもしれない。
「ま、それもいいけどねぇ」
女がニヤリと笑った。おれは大きな鼻の穴だなと思った。
「でもまずは……ほらぁ正座!」
「ひゃ、はいっ」
言われた通り、おれは正座したが頭が重く、メトロノームのように体が揺れた。それを見て女たちはまたクスクス笑い、キモいだのなんだのおれを罵った。まだ聴覚もおかしいのだが、悪口はよく届くものだとおれは思った。
「あたしたち女性は理性的な平和主義者だからねぇ。こいつは警察に突き出して判断を、おい、今お前、笑ったか?」
唇も切れており、痛みでよくはわからないが、多分今、ニヤッとしてしまった。人を散々足蹴にしておいてどこが理性的だ、とおれはつい思ってしまったのだ。それに全身のこの痛みのせいで、エンドルフィンというやつだろうか、脳内麻薬がふんだんに放出され、おれは少しハイになっているようだ。だが、それを説明したところで、いや、そもそもさせて貰えなかった。
「が、がう、あ、が」
女が片手でおれの首を掴み、喉を絞め上げながら持ち上げたのだ。
女は前髪も何もかもすべて纏め、後ろで一つに結んだ髪型をしていた。額の部分にはブツブツと吹き出物があり、おかめ顔。ただし鼻は豚のようであった。
体格は幕下力士かプロレスラーか、わからない。それ以上は見えなかった。醜さと苦しさで目を閉じたのもそうだが、おれは再び床に叩きつけられたのだ。
車両内にいた女たちから歓声が上がった。スマホのカメラのシャッター音も聴こえた。
「なんだ? 文句でもあるのか? ないよなぁ!」
「あ、あの、これは、ただの、ただの間違いで……」
「あーあーあ、やぁっーぱり言った! よく言うやつ! 『た、ただのぉまち、まちがぁいでぇ、ほひゅ!』ってさぁ!」
女たちの笑い声がした。この世にこれ以上はない下卑たもの。地獄の鬼が亡者を甚振り、笑うならきっとこんな声であろう。
「そう言い訳すればごまかせると思ってる? 本当は私たちに近づきたくてこの車両に乗り込んだくせにさぁ!」
「いやらしい……」
「サイテーね」
「モテないからそうするしかないのよ」
「女性への接し方を知らないのねぇ」
「社会的弱者」
「ふふっ、あ」
「おい、なにがおかしいんだ?」
またやってしまった。しかし、おれを罵る女たちの顔がどいつもこいつも揃ってブサイクだったのだ。魚みたいに目が離れた女や、なぜかずっと寄り目している女に片方の眉毛が異様に濃い女。顔が一部腫れたような女に、恐らく化粧が不得意なのだろう首と顔の色が違いすぎる女など網にかかった深海生物の見本市のようであった。
「いっ!」
視界が横に逸れ、音の後に痛みがきて、おれは頬をぶたれたのだと知った。女はさらに三度、おれの頬を叩いたのち言った。
「扱いに不服そうだな。でもな、当然なんだよ。お前は痴漢野郎だからなぁ」
「お、おれは、痴漢なんて、してないじゃないですか……それにあんたらにする気だって……」
……おれの悪い癖だ。自分に非がある状況こそ、つい言い返したくなってしまうのだ。会社の上司から遡り、学生時代、先生から説教を受けている時も『でも』とか『だけど』だの言わない方がいいに決まっているとわかっているのに、つい、口から出てしまうのだ。
でも、腹を蹴られた今、口から出せるのは血の塊と未消化の朝食の残りであった。
「きったねぇなぁ……神聖な電車を汚しやがってよぉ!」
おれはまた腹を蹴られ、身悶えた。吐いたばかりのその吐瀉物が頬につき、床を擦り音を立てた。熱とそれに喉を焼くような酸味がしたが匂いはしなかった。
鼻のせいだ。なのに、女がおれに顔を寄せ、喋ったときはなぜかその悪臭を嗅ぎとれた。それはあるいは魂の匂いなのかもしれないとおれは思った。腐りきっている、と。
「いいか? 触らなくても匂いを嗅ぐだけでも痴漢なんだよ! つまり同じ空気を吸うことが痴漢だって言ってるの! わかるか! わかれよ!」
リーダー格の女がそう言う中、チンパンジーのような女が突然、雄叫びを上げ、席から立ち上がり、おれを殴ってまた席に戻った。なぜかはわからない。だが、おれはその理不尽を受け入れつつあることに安堵、もしくは絶望した。
「土下座しろよ土下座」
「……すでにしているような体勢なんですけど」
まただ、ついまた口走ってしまった。そして当然のようにおれは顔を蹴られた。
「かっこつけてんじゃねーよ! 謝れって言ってんだよ! 『この度は女性様専用車両に入ってしまい、大変申し訳ございませんでした』って謝れよ! 謝れぇ!」
「そうよ、早く謝りなさいよ!」
「もうすぐ次の駅に着いちゃうじゃない!」
「さっさとしろよぉ! 変態!」
女性様専用車両。ここはいつ頃からそう言われるようになった。歯止めの利かない少子化。子供の数が減り続け、そしてその存在が貴重となると、その元である女の存在価値もまた高まった。数々の権利を主張し始め、そしてそれが通るとどんどん増長し、あっという間に今のこの社会が築き上げられたのだ。女は男を車で轢き逃げしようが夫を殺そうが大した罪には問われない。悪くて執行猶予付きだ。
子供が貴重な今の世の中であっても、前と同様に自分の子供を殺しても大した罪には問われないのは謎だが。
男尊女卑。亭主関白。これまで虐げられてきた分の揺り戻しだとも言うが、これは閉店セール。最後の晩餐。滅びの一歩手前のような気がしてならない。
「こ、この度は女性様専用車両に入ってしまい……た、大変、うぐっ!」
謝れコールが轟く中、おれは床に額を擦りつけ、声を振り絞った。なのにまた蹴られた。
「お前、ほんと無能だなぁ……一言一句言われたことを繰り返すしかできないのかよ? オウムかよ馬鹿がよ。自分の言葉でさぁ。はぁ……まあいいや。ほら続けろよ。入ってしまい、皆様にご不快な思いをさせてしまい」
「み、皆様にご不快な思いをさせてしまい……」
「はい、お靴汚しにお目汚し」
「お、お靴汚しにお目汚し……」
「お手を煩わせたことを深く反省し、また罰を与えてくださりありがとーございます」
「お、お手を煩わせたことを、ふ、ふか、深く反省し、ま、また罰を与えてくださりありがとーございます……」
「ありがとーって伸ばすな!」
「ぐぅ、あ、ありがとうございます……」
「それから……おい、てめー漏らしやがったな。拭けよ! こうやって体を押し付けて拭くんだよ! おらぁ! 謝れ!」
「うぐ、ごめ、ごめんなさい……」
漏らしたのは執拗にそっちが下腹部を蹴るからであって、おれにはどうしようもないのだが、おれの口から出たのは謝罪の言葉であった。それは本心か生存本能からか、わからない。なにひとつ。ここまでされなきゃならない理由も何も。これまで触らぬ神に祟りなしで女を避けて生きてきたのに。自分の顔の出来をちゃんと理解し、身の程を弁えて生きてきたつもりなのに。ただ、会社に遅刻しそうで焦り、女性様専用車両に乗ってしまっただけなのに……どうしてこんなことに……。
「はーはは! なさけなーい!」
「最初からそうやって謝ればよかったのよ」
「男って馬鹿よねぇ。ああやって身に染みさせないとわからないもの」
「そうよ、怪我したのもあんたのせいだからね」
「全部あんたが悪いの」
「女性様に逆らうような態度を取るあんたがねー」
「そうよ、この社会は女性で回っているのよ」
「あんたみたいな男はこの社会にいらないのよね」
「そうそう。あんたみたいなみっともない男の種は誰も欲しがらないもん」
「……で、でもあんたら、見たところ、ほとんどが子供を産めるような年齢じゃ、あ」
またやってしまった。
そう思った瞬間、おれは顎を蹴り上げられ、体の力が抜けた。蛍光灯を見つめるのはそこに希望の光を見出したいからだろうか。わからない。何も。股間部分に衝撃が走り、目の前が真っ暗になり、その光も消え失せた。
ただ、意識が遠のく中、聞こえた声はやけに優しく、おれはもう抵抗する気も起きなかった。
「安心しなよ。知り合いの医者のところに連れてってあげる。よかったじゃないか。これであんたもあたしたちのお仲間さ」