夢を見るならきっと空の上で
ざらざらと雑音の混じった電波ごしに聞こえる男の人の声で、ケンジくんはぼんやり目を覚ましました。
『──……こちらオーキソー。現在のところ異常ナシ。このまま警戒を続けるが、こちらの心配はいらないようだ。ドーゾ』
ザッという短いノイズの後に続けて応じたのも男の人の声でした。ケンジくんの左がわで返事をしているようです。
「夢見航空 8 2 2 、こちらコンジキ。機体は今、高度四千mを維持しつつ飛行している。こちらも異常はない。──ああいや。ケンジくんが目を覚ますようだ。それではオーキソー、また後ほど」
「ああコンジキ。ケンジくんによろしく。それでは二人とも、よい旅を」
ザッ。コンジキとオーキソーとの交信が終わると、ケンジくんは眠たい目をこすりながら起きました。眠る前はたしかに自分の家のベッドで眠っていたはずなのに、今は紺青の、青が上品な座席に座っていたのでした。その上、眠るときにはパジャマを着ていたはずなのに今は薄茶色のずぼんにねずみ色のシャツを着ているのです。だから、ケンジくんの目覚めの第一声は大きなおどろきの声でした。
「えっ!ここどこ?」
「起きたかい。おはようケンジくん──いや、今は真夜中だから『おはよう』というのは少し変かな?」
ケンジくんは左となりに座る、おだやかな声の主を見ました。その人は緑のセーターを着ていて、両手は操縦かんという、いわば飛行機のハンドルをにぎっています。ケンジくんが起きているのを横目でちらりと確認すると、視線は再びプロペラが元気に回転している正面に向けられました。
ケンジくんが注目した、その人の何よりの特徴は、頭の上にちょこんと黄金色の三角帽子が乗っていることでした。ケンジくんは思わず、まじまじとそのすてきな三角帽子をながめました。
「ええっと、おはよう……?」
まだ寝起きなせいか、ケンジくんは頭がぼんやりとしています。
「おどろかせてしまったかな。ぼくの名前はコンジキ。よろしくね」
コンジキはそう言うと右手を操縦かんから離して、ケンジくんの方へと伸ばしました。ケンジくんもおずおずと右手を伸ばし二人は握手を交わします。コンジキの手は温かくて、ケンジくんの右手をしっかりとにぎり返しているのでした。
「ここはどこなの?」
「ここかい?ごらんの通りここは飛行機の中さ。夢見航空へようこそ」
飛行機とはいっても、ケンジくんがお父さんやお母さんと旅行する時に使う、何十人も乗せて空を飛ぶ旅客機のように大きなものではありません。この飛行機は二人乗りの、どちらかと言えば小さな飛行機でした。
つまりそう、ケンジくんがいるのはコックピットと呼ばれる操縦室だったのです。正面には様々な数値を指し示す計器がいくつも並んでいます。
計器のすぐ向こうは汚れひとつないぴかぴかの窓で、夜空が広がっているのでした。飛行機の鼻の先についているプロペラの羽が月明かりの下で回っているのが見えます。
せまい操縦室は二つの座席が左右に並んでいて、ケンジくんは右がわに、コンジキが左がわに座っています。二人の席の背後にはケンジくんくらいの子ども一人がようやく横になれるくらいのせまい空間。荷物置き場でしょうか。茶色のかばんが置いてあります。
とにかく、操縦室は二つの座席をたくさんの計器とともにぎゅっと押し込んだようなもので、もしケンジくんが大人だったら、ここに座るのはちょっときゅう屈に思ったかもしれません。
きょろきょろと飛行機の中をながめているケンジくんに、コンジキは「横の窓から外を見てごらん」と言いました。
言われるがままケンジくんが窓から外を見ると、視界は満天の星空でした。ケンジくんの家から見る夜空よりも、田舎の山の中にあるおじいちゃんの家で見た夜空よりも、ずっとずっと、星がたくさん空に並んでいます。こんなにいっぱいの星々を見たことがなかったケンジくんは息をのみました。
直上は腕を広げた飛行機の翼が屋根のようになっていて見上げることができませんでしたが、きっと同じように星々がきらきらと輝いていることでしょう。
続けて視線を下に向けると雲がちぎれちぎれに点々とあって、さらにその下は黒々とした海が広がっているようでした。
「今海の上を飛んでいるんだ?」
「そうさ。ケンジくんの家から飛び立って、南へ、南へと向かってきたからね」
「どうして……?」
ふしぎと、ケンジくんはコンジキのことを前から知っているような感じがしました。お父さんやお母さんの知り合いにこんな帽子を被った人いたかなあ、なんて考えてみますが、ちっとも思い出せません。でもなんだか、コンジキが悪い人ではないということだけはわかりました。
「それはだね。ぼくらは眠ると夢を見るだろう?ケンジくんも知っている通り、普段はその夢の内容を選ぶことはできない。でも実はね、子どもなら誰でも一年に一度だけ、自分の好きな夢を見ることができるのさ。それでぼくコンジキがケンジくんの見たい夢を叶えるために、こうやって飛行機を飛ばして南へ向かっているというわけ」
「じゃあこれは本当じゃない、夢の中なんだ」
「うーん、それはどうかな?」
コンジキは眉根を寄せて難しい顔をするとケンジくんにもわかるように説明をします。
「たしかにケンジくんは夢の中なんだけど、本当じゃない、つまり現実じゃないとは言い切れないんだ。だってそうだろう?ケンジくんはたしかに今、ここにいるのだから。つまりだ──ケンジくんは今、二人いると考えていい。飛行機の中でぼくとおしゃべりをしているケンジくんと、布団の中ですやすや眠っているケンジくんと。どちらか一方だけが本当だ、現実だ、なんてつまらない考えなのさ」
コンジキの言葉をわかったふりをしてうなずきながら、ケンジくんはどうしてぼくは南へ行きたいだなんて考えたのだろうと思っていました。欲しいものや行きたい場所、会って話したい人なら他に色々とありそうなものです。
「ねえ、どうして南へ向かっているの?」
「それはあとで教えてあげるよ」
コンジキはそれだけ言うと、計器の針を確認しつつ操縦かんを動かして飛行機を飛ばし続けます。もしかすると、人も犬や猫なんかの動物も──もちろんはるか下のお魚も、何もかもがみんな眠っているような気さえするそんな夜を、二人を乗せた飛行機は進むのでした。
***
強い風に当たると飛行機ははげしく揺れます。雲の少ないおだやかな夜空でも、時折そのような風が横から吹いたりして、その度にコンジキは操縦かんを巧みに操り機体が進路を誤らぬよう飛ぶのでした。でも、どんなに機体が揺れてもコンジキの頭の上の三角帽子はずれ落ちたりせず、彼の頭の上に留まっているのです。ケンジくんはそれが気になってチラチラと見てしまうのでした。
「──気になるかい?」
「うん」
横から発せられる視線に気がついたコンジキの言葉に、ケンジくんは素直にうなずきました。
「すてきだろう?ぼくはこの色鮮やかな帽子が大好きなのさ。ごらん、カリカリにとんがっている先のところなんて、もう最高なんだ」
コンジキは片手で帽子のてっぺんを指しました。ケンジくんが見上げてみると、たしかに帽子の先はきれいにとがっていて、柔らかいものになら突き刺さってしまいそうなくらいです。
「うん、とってもきれいだね」
「ふ、ふ、ふ。ありがとう」
ケンジくんがほめると、コンジキは照れたように肩を揺すって笑いました。
「仲間の中ではぼくが一番きれいだったからね。誰よりも。仲間はみんな、きみと空の旅をしたがったけれど、一等きれいなぼくがきみの夢先案内人に就任できたというわけさ。皮肉なことにね」
「どういうこと?」
「他の仲間は頭の帽子がひしゃげていたりしたからね。こういうのは見栄えが大事というわけなのさ。でももちろん、ぼくも他の仲間に負けないくらいきみと一緒にいたかったから、今夜はとてもうれしいんだ。仲間たちにあとでこのことを報告するのが楽しみだよ」
そう言うとコンジキは口笛を吹きました。その音色はどうやらコンジキがこの場で思いついた即興のようで、きちんとしたメロディになってはいません。それでもコンジキが今を楽しんでいるのが手に取るようにわかるような、そんな旋律でした。
「──さて、そろそろここらで一息いれようか。ケンジくんもせまい操縦室できゅう屈な思いをしただろう」
「どこかに着陸するの?」
「『着陸』だって?まさか!この太平洋の真ん中に、都合よく陸地なんてあるわけないよ。それよりももっと簡単に休める場所があるんだ」
「へえ、どこにあるんだろう」
コンジキは得意気に正面の夜空を指差しますが、ケンジくんにはコンジキが何を言いたいのかさっぱりわかりません。
「雲だよ、雲。さながら『着雲』、いや、『着雲』?まあどっちでもいいか」
「雲!?」
ケンジくんは信じられない、というように首を振りました。
「雲に着陸、いや着雲なんかできないよ!雲に乗ることなんかできないって、ぼくみたいな子どもでも知ってるんだから」
「は、は、は。甘いねケンジくん。たしかに世の中の雲のほとんどは乗ることなんかできないさ。でもね、実は乗ることのできる雲があるにはあるんだよ。寒天雲って言うんだけどね」
「寒天?」
「そう。あのちょっぴり甘いやつさ。ケンジくん、きみは空を流れる雲が最後はどうなるのか、見届けたことはあるかい?」
はたとケンジくんは考え込みました。言われてみると雲が最終的にどうなるか見たことはない気がします。
「大半は雨や雪になって降り注いだりさ。風に散らされたりして消えちゃうものもあるかな。それでも時々、全然消えない頑固で意固地な雲がある。それが寒天雲の正体。この飛行機が乗るくらいの大きさなら、探せばすぐに見つかるよ」
ケンジくんは寒天雲なんて言葉、初めて聞きました。
「でもそんな雲が本当にあるなら、飛行機やヘリコプターは空を飛べないんじゃない?ぶつかったら大事故だよね」
ケンジくんはコンジキのことを信じていないわけではないけれど、にわかには寒天雲の存在を信じられません。
「そこが素人と玄人の違いだね。パイロットになるためには飛行機の操縦を覚えるだけじゃだめなんだ。プロのパイロットは一目で通過しても大丈夫な雲とそうでない雲を見分けられる。機械の操作だけじゃない、天候の状態を読み解く訓練もしっかり積んでこそ、空を安全に航行できるというわけさ」
寒天雲を探すためにコンジキは飛行機をわずかに左へ傾け、南へと向かう進路から少しはずれました。
「──おっ、あった」
そしてコンジキはすぐに寒天雲を見つけたようです。でもケンジくんにはどの雲のことだかわかりません。目を細めてまばらに浮かぶ雲たちを見比べますが、どれも同じように見えます。
「えっ、どれ?」
「プロペラの先の、ほんの少しぼくの方。やけに白々としている雲があるだろう?あれだよ」
「うーん?あれがそうなの?」
「着雲してみればわかるさ。これから少しだけ揺れるから、舌をかまないように注意してね」
ケンジくんはあわててシートベルトをぎゅっとつかみ、舌をかまないよう口を閉じました。二人の乗った飛行機は速度をゆるめ、コンジキの示した雲へと近づいていきます。
──もしこれがただの雲だったらどうしよう。
口にこそ出しませんでしたが、そう考えてケンジくんはハラハラしました。停まるつもりで速度を落として、もし、そのまま飛行機が雲を突き抜けて下へ落ちて行っちゃったら?真っ逆さまに落下する飛行機を想像して、ケンジくんはたまらず身震いをしてしまいました。
「──ケンジくん」
不意にとなりのコンジキが片手を伸ばしてケンジくんの頭をなでてくれました。
「大丈夫だよ。よく見ててごらん」
飛行機はいよいよ雲の上へと差しかかり、コンジキの巧みな操縦で胴体の車輪が雲と接触したようです。普通、飛行機が着陸する時はガタガタと振動で揺れるものですが、この寒天雲への着雲はまるで水上のボートが波で上下に揺れるような、うねうねとした揺れでした。やがて飛行機が完全に停止すると、ケンジくんは安心のあまりほうっとため息を一つつきました。
「寒天雲に到着。シートベルトは自分で外せるかい?降りてみよう」
「うん!」
元気よく返事をしたものの、ケンジくんにとって少し高さのある飛行機の乗り込み口から雲へ飛び降りるのは勇気がいることでした。たしかに飛行機は雲の上に三つの車輪を乗せて停まっているのですが、ケンジくんも同じように雲の上に乗れるのか自信が持てなかったからです。コンジキはどうしているかと見てみると、彼はもうすでに飛行機から降りていて雲の上で腰をぐっとまっすぐに伸ばしているところでした。
「よーし」
大きく息を吸って飛行機からケンジくんは飛び降りました。着雲の瞬間はヒヤリとしましたが、大丈夫。ケンジくんも無事雲の上へと降り立ちました。
振り返って改めてよく飛行機をながめると、ケンジくんはなんだかこの飛行機に見覚えがある気がしました。初めて乗ったのに、どこかでしょっちゅう見ているような……。ふしぎなこともあるんだなと思いつつ、ケンジくんは足元の雲の様子をよく観察してみました。
寒天雲はその名に反してつるりとはしておらず、綿菓子のようにふわふわとした部分が一面に広がっています。ふかふかの布団の上にいるみたいな心地です。はねたりかけ足をしたりしてみても、ケンジくんの足が雲を突き抜けてしまうということはありませんでした。
「ケンジくん」
ひとしきり雲の上ではしゃいでいるケンジくんをコンジキは手を招いて呼ぶと、片方の手に持っているぼんやり光る粒を見せました。
「うわあ……これは?」
「星の粒さ」
コンジキは飛行機から持ってきたかばんに手を入れると、そこから金属で装飾されている透明なガラス容器を取り出しました。ランタンです。装飾は容器を上下からはさみ込むようにできていて、三方を同じ金属素材の柱が支えています。てっぺんにはランタンを吊るすための針金でてきたフックがついていて、くるりと丸まっていました。
コンジキはそれに先程の星の粒を入れました。するとその粒は、ランタンの中で何倍にも明るさを増してきらきらと光りだしたのです。
「あと何粒か拾おうかな。ケンジくん、この雲の中に手を入れてごらん」
ケンジくんはしゃがみ込んでもこもことしている雲の表面をなでてみました。表面は綿のような感触をしていて見た目通りふかふかです。しかし手を少し突っ込んでみると固さのあるものに手が触れます。これのおかげで、ケンジくんたちは雲の上に立っていられるのでしょう。
「固い部分があるだろう。それがこの雲の核になる部分さ。ちょうどその辺りに星の粒が絡まっていることがあるんだ。触っても大丈夫だから探してみてくれないか。三粒ほどあれば充分だから」
「うん!コンジキはどうするの?」
コンジキはかばんからペーパーナイフという、はさみの刃が片方だけでできているようなナイフを取り出しているところでした。
「ぼくは特等席の準備をするよ。ちょっと冷たいけどね。おしりがぬれたりはしないから安心して」
「ふうん……?」
何やら作業を始めたコンジキをよそに、ケンジくんは雲の中に手を入れて星の粒を探しだしました。
探しだして間もなく、それはすぐにケンジくんの指先に触れました。熱くもなく冷たくもない粒をつまんで手のひらに転がしてみると、それはまるでビーズのようです。ケンジくんはコンジキから三粒ほどで充分と言われていましたが、集めるのが楽しくなってしまいには十粒も雲の中から取り出してみました。
手のひらを目一杯広げてそれらを並べると、星座ができそうな気さえして、ケンジくんはもう夢中です。しばらく星粒をつついて並べかえたり入れ替えたりして楽しんだ後、ケンジくんはランタンの中に星粒を一粒ずつ転がし入れました。一粒入るごとにガラスの中は明るさを増していき、コンジキが言っていた通り三粒も入れるともう雲の上は明るさでいっぱいです。これ以上入れると、きっと直視できないほどの明るさになってしまうでしょう。ケンジくんは残った粒をズボンのポケットにしまうと、コンジキの方を振り返りました。
「ぜんぶ拾ったよ!すごく明るいねこれ!」
「そうだろう。それでもう夜の暗闇なんかどこかへ行ってしまうからね。ぼくの方も、いすを切り出すのがもうあと少しで終わるから。ちょっと待ってて」
コンジキは足元の雲を真四角に切り取っているところでした。すでに一つ取り出していて、まるで大きなサイコロのようです。先程「特等席」と言っていたのはこれのことなのでしょう。やがてもう一つを切り取ると、二人は星粒のランタンを囲うようにして雲のいすに座りました。
コンジキが切り出したいすはふかふかしていてとても座り心地のよいもので、ケンジくんは座ったと思えばいすから腰を上げて、すぐにまた座ってと、その感触を楽しんでいます。
「目的地はまだ遠いの?」
「いいや。もう目と鼻の先だよ」
コンジキは空を見上げました。ケンジくんもつられて見上げると、いつもより近くにある月がまるでこちらを見ているようです。目が合ったような気さえしました。
「今ぼくらがいるここがあの飛行機で来ることのできる最高地点さ。それでこれから目的地までは、うんと高度を下げて、海のそばを飛ぶよ」
かばんからきれいに折りたたまれた紙を取り出し、コンジキはケンジくんのそばに来てそれを広げてみせました。ランタンの明かりの下、ケンジくんがよく見るとそれは地図でした。
「今ぼくらがいるのはこの辺り」
コンジキは地図の一点を指差すと、南東の方へと指を動かしてすぐに止めました。そこには予めバツマークで印がつけられていて、ケンジくんでもそこが目的地だというのは察することができました。
「そして目的地はこの辺り」
しかしコンジキが指差しているバッテンは、どう見ても海の上です。陸地などは周囲になく、こんな所にケンジくんは何があるのだろうとふしぎに思いました。
「ぼくが見たいものがここにあるの?」
「うん。あるんだよ」
二人で話していると、突然、飛行機の方から『コンジキ、コンジキ!』と電波ごしにコンジキを慌ただしく呼ぶ声が聞こえてきました。
「オーキソーだ。ずいぶんと慌てているな」
コンジキは飛行機に駆け寄り無線機を取るとオーキソーに応答しました。
「こちらコンジキ。オーキソー、どうかしたかい」
『重大問題発生だ。うかつだったよ』
「何があった?」
『今回の旅行計画でぼくらが計算した往復時間だけどね、ケンジくんの家と目的地との距離の値が間違っていた。地図の縮尺を勘違いして計算していたんだ。それで計算し直したところ、本来ならきみたちは、もう帰りの空を飛んでいないといけないんだ』
「それはまずいな」
コンジキはしまった、と呟いて頭をかいています。ケンジくんはそっとコンジキに語りかけました。
「コンジキ、ぼくはこの寒天雲に乗れただけでも充分うれしいから、もしそれを見れなくてもがっかりしたりしないよ」
それはケンジくんの本心でした。コンジキのおかげでこんな夢を見れて、とても満足していたのです。
「……そういうわけにはいかないさ。折角ここまで来たのだから、ぼくは絶対あれをケンジくんに見せてあげたいと思っている」
コンジキは力をこめてそう言うと難しい顔のまま計器とにらめっこをしました。
「飛行機を全速力で飛ばせば間に合わないだろうか?オーキソー」
『計算してみるからちょっと待って──』
ケンジくんは心配そうにコンジキを見上げました。「大丈夫だよ」とコンジキはケンジくんの心配をふっしょくするようにほほえみかけています。
『──うん!これから先、飛行機を全速力で飛ばすならなんとか大丈夫。でもいいかいコンジキ。それで余裕が生まれたわけじゃない。全速力でなんとかようやく、ってところなんだ』
「ああ、わかっている。ではぼくらはこれより大急ぎで目的地へ向かうとしよう」
『そうしてくれ。コンジキあとは任せたよ。──ケンジくん』
急にオーキソーから呼びかけられて、ケンジくんはドキドキしながら返事をしました。
『急かせるようなことになってすまないね。でもコンジキが操縦する飛行機なら大丈夫。きみは安心して空の旅を楽しんでおくれ』
「ありがとう。オーキソー」
『ぼくはお家できみたちの帰りを待っているからね。ではこれで』
コンジキもオーキソーへあいさつをし、交信を終えました。
「というわけで、早速出発だ」
二人は慌ただしく荷物をかばんにしまい飛行機に乗せると、寒天雲から飛び立つのでした。
***
飛行機は先程よりも速く、そして低い位置を飛んでいます。ケンジくんが窓から下をのぞくと、夜の闇の黒々とした海面が波打つ様子さえ、かすかにわかりました。コンジキが飛行機を飛ばすのに集中しているので、ケンジくんは話しかけるのをためらって、あまりよく見えない海をぼんやりとながめているのでした。
こんなところに何があるんだろう?そんなことを思っていたケンジくんの瞳に、海面から何かが姿を見せたのが映りました。
「あれ──?」
次の瞬間、それは海面をとび出し大きな姿を空中に見せると、再び海の中へと戻っていきました。
「くじらだ!」
「ここらで間違いないようだね」
飛行機はくじらがはねた辺りを中心に、円を描くように飛んでいます。
「ぼくが今夜、きみに見せたかったのはくじらが空を飛ぶ瞬間なのさ」
「空を?」
「ああ。今さっきのようにはねるのではなく、ね」
付近にはくじらがいて、ブリーチングという、海面から一気に海上にとび出て背面とびをする運動をしてみせています。まるで空を飛ぶために準備をしているようです。とび出したくじらの大きな体が海面に叩きつけられるたびに、大きな波しぶきがあがっています。
『こちらオーキソー。コンジキ、くじらは飛んだか?』
「いや、まだだ。彼らが来ないことにはくじらも空を飛べないんだ。何といってもあの巨体だからな」
『悠長なことを言ってるが、そこで待っていられるのもあと数分だ。これ以上そこにいると、たとえ全速力でも朝日が昇る前に帰れなくなるぞ』
ケンジくんはちらりとコンジキを見ました。寒天雲の上では「見れなくてもいいよ」と言ったけれど、今はどうしてもくじらが空を飛ぶところを見てみたくなっていたのです。
「……ぎりぎりまでねばって待ってみるさ。ぼくの飛行機の腕を信じてくれ」
『わかった。だが夜の間にケンジくんが家へ戻ってくることが一番大事なんだ。そこを忘れるなよ』
「ああ」
交信を終えると、コンジキはケンジくんに向き直りました。
「あと少し、もう少しだけ待ってみよう。大丈夫。ぼくらがこれだけ待ちわびているのだもの。きっとくじらが空を飛ぶ姿をおがめるはずさ」
「ねえ、もし帰るのが遅くなったらどうなるの?」
「それはね──」
ケンジくんはコンジキの背中ごしにのぞく窓の向こうの月に、穴が開いていることに気が付きました。
「コンジキ、あれ見て。月に穴が」
コンジキも振り返って月を見つめました。二人が見ているうちに黒々とした月の穴はじわじわと広がり、そしてとうとう月を飲み込むほどの黒い影になりました。そこで二人はようやく、それが穴ではなくて鳥の群れが作る影だと気が付きました。何十、いえ、何百もあろうかという鳥の大群が、月を背にこちらにやってきていたのです。
「来たぞケンジくん!シギの群れだ!」
隊列をなした鳥たちは飛行機よりも低空に集い、やがて海上のある一点を中心に、渦を巻くように飛び始めました。渦の中心の海面からはくじらが顔をのぞかせているようです。しかし、月明かりのぼんやりとした明るさの下でははっきりとその姿を見ることはできません。
「しまった。ここからじゃ暗くて遠いから、ちゃんと見れないぞ。この飛行機、強力なライトなんて便利なものついていないからなあ」
「もっと近づくことはできない?」
「だめだ。飛行機みたいに大きなものが近づくと鳥たちが驚いてしまう」
コンジキはちょっと考え込みましたが、「そうだ」と呟くとケンジくんに後ろに置いてあるかばんから星粒のランタンを取るように言いました。ランタンはまだ寒天雲で見たときの明るさのままです。
「これにパラシュートをつなげて、あの鳥たちの渦のずっと上から投下してみよう。くじらのためのスポットライトを作るんだ」
「でもパラシュートなんてかばんに入ってないよ?」
「パラシュートはね。でも代わりのものならここにある」
コンジキは頭の上の帽子を脱ぎました。
「この帽子が星粒ランタンの落下傘さ」
コンジキにとってその帽子はとても大事なものだとケンジくんは思っていたので、驚いて聞き返しました。
「その帽子、コンジキの大事なものなんじゃないの!?」
「大事さ。でもくじらが空を飛ぶ瞬間をケンジくんと一緒に見るほうがもっと大事だからね」
コンジキはほほえんでケンジくんに帽子を渡しました。
「ありがとうコンジキ。そうだ、ぼくもまだ星粒を持っているんだった」
ケンジくんはポケットを探って星粒を何粒か取り出しました。それもランタンの中に入れると、飛行機の中はもう真昼みたいに明るくなって、これなら遠くからでもくじらを観察することができそうです。
ケンジくんがランタンと帽子をかばんの中に入っていたハンカチで結んでいる間に、コンジキは飛行機をうんと高く飛ばしました。
「さあ、ここだ。ここからランタンを落とすわけだけど……それはケンジくんにやってほしい。できるかな?」
「うん、やってみるよ」
「きみの左手はぼくが捕まえておくから、右手でランタンを持って……そう。それじゃあ、いち、にのさん。でそっちの扉を開けるからね」
「うん」
「いくよ。いち、に──」
ケンジくんは大きく深呼吸をしました。コンジキがしっかりと片手を持っていてくれるからきっと大丈夫。それよりも、このコンジキの大事な帽子で作ったランタンのパラシュートがしっかりとくじらを照らしてくれるようにしないと。そんなことを考えながら、コンジキのカウントダウンを聞いていました。
「さん!」
コンジキのかけ声でケンジくんのそばの扉は口を開き、風が強く吹き込みました。飛行機が大きく揺れます。コンジキは空いている方の手で懸命に操縦し、飛行機が落ちないようにしています。ケンジくんはランタンを片手に、飛行機から身を乗り出しました。
夜空を流れていたのは風だけではありません。飛行機の出すエンジンの音、プロペラが回転する音、そして離れているのに聞こえる何百羽もの渡り鳥の大合唱。それらが何重にも折り重なっているのです。音のかたまりにくじけないよう、コンジキは大声でてケンジくんを促しました。
「さあケンジくん、そのランタンを落とすんだ!」
「いくよ!」
ケンジくんも大きな声で返事をして、ランタンをできるかぎり高く掲げました。それは暗闇の中にあってより一層明るくなった気がします。ぐらぐらと揺れていた飛行機が一瞬安定したその時、ケンジくんはランタンからそっと手を離しました。それは抵抗もなくすっと下へ落ちていきましたが、すぐに黄金色の帽子がパラシュートの役割を果たし、ランタンはゆっくりふわふわと下降しています。
コンジキはケンジくんが飛行機の内側に戻ってきたのを確認すると、すぐに扉を閉めました。そして再び先程の高さまで飛行機を戻すと、くじらをよく見ようと目をこらしました。
「さあ、どうだ」
ランタンは二人がねらった通りの働きをしました。星粒の明かりはよく届き、離れた場所にいる飛行機からでも今まさにくじらが海面から完全に姿を見せたところを照らしてくれています。
先程までくじらは青くて黒い背中を反らしてブリーチングをしては水面に己の巨体を叩きつけていました。きっとまだ鳥たちの力を借りたくなかったのです。ですが鳥たちから説得されたのでしょう。ブリーチングをやめると、海面すれすれを飛ぶ渦の中心の鳥たちの背に乗りだしました。ランタンの明かりのおかげで、くじらの姿をはっきりとケンジくんは見てとれました。
二人が見守る中、くじらは鳥たちの渦に乗り、空中へと昇っています。
「わあ……」
それはまるで鳥たちが作るらせん階段でした。星粒のランタンが照らす中、お腹を滑らせてするするとくじらは鳥たちの作るらせんを昇っています。やがて階段の一番上までくると、くじらは胸びれを広げて空を飛ぶ体勢に入りました。
「飛べ、飛べっ!」
思わずケンジくんとコンジキは声を合わせてくじらの応援をしていました。くじらは何度もためらっている様子でしたが、やがて意を決したのか、ゆっくりとその巨体を夜空へ飛び立たせました。
「あっ、飛んだ!」
くじらは胸びれをはためかせて浮かんでいました。夜空に。月や星を背にして、まるで海の中を泳ぐみたいに、悠然と空を飛んでいます。鳥たちもそのくじらを歓迎するように、周囲を一緒になって飛んでいます。
「ぼくがきみに見せたかったのはこの光景なんだ」
ほっと息をはいてコンジキはケンジくんにほほえみました。
「きみと一緒に見ることができてとてもうれしいよ」
「ありがとうコンジキ。ぼくもとてもうれしい」
くじらはケンジくんたちの飛行機に気がついて、近づいてくると共に空を飛ぶ仲間としてあいさつをしました。歌うように鳴いたのです。
「ケンジくん、口笛を吹いてあいさつを返してあげなよ」
「どうしたらいいの?」
「簡単さ。『こんばんは』って気持ちをこめて口笛を吹いてごらん」
実はケンジくんは口笛が得意ではありませんでした。それでも口をすぼませてくじらにあいさつをするつもりで思い切って口笛を吹いてみると、ちゃんと音が出ました。横でコンジキもケンジくんの出した口笛に合わせてくじらにあいさつをしています。
くじらも満足気にもう一度歌うと、飛行機から離れていきます。ケンジくんは窓におでこをくっつけて、離れていくくじらに手を振りました。
しばらくくじらは夜間飛行を楽しんでいましたが、やがて滑空をはじめ、ゆるやかに海へ着水しました。もう満足をしたのでしょう。
そして高く潮を吹きました。鳥たちにお礼を言うように。ケンジくんたちにお別れのあいさつをするように。二度三度と吹かれた潮が収まると、いつの間にか鳥たちも去っていて、周囲はまた静かな夜の海になっているのでした。
***
「じゃあぼくらも帰ろうか」
「うん」
飛行機はかつてない程の速度でケンジくんの家へと急ぎます。
コンジキが全速力で飛ばす飛行機はぎゅんぎゅんと空を飛び抜け海を渡り、やがて陸が見えてきました。真っ暗な町をこえ山もこえ道路も線路も橋もトンネルも、何もかもを飛びこえて、飛行機はケンジくんの町へとたどりつきました。でも町はまだ真っ暗で、家と家の区別をつけることができません。
「こんなに暗かったらどれがぼくの家だかわからないね」
「そこは大丈夫。オーキソーがぼくらの帰りを待ってくれているからね」
コンジキは「ほら」ととある一軒の家を指差しました。
「あの家からぼんやりと光っているものが見えるだろう?」
夜光塗料が塗ってあるのでしょうか。緑色にぼうっと光る棒状のものが揺れています。
「あそこがぼくの家?でもどうやってこの飛行機で家に入るの?」
「これからこの飛行機はどんどん縮んでいくからね。窓なんか通るのは簡単さ。でももうじき朝が来る。だからのんびりと到着する余裕はないんだ。ケンジくん。きみは飛行機が布団の真上まできたら、飛び降りるんだ」
「コンジキはどうするの?」
「ぼくかい?ぼくなら大丈夫。最後まで飛行機を操縦しないといけないしね」
ケンジくんの家を正面に捉えると、飛行機はまっすぐに飛んでいきます。そしてコンジキの言葉の通り、飛行機は少しずつ縮み始めているようでした。速度は弱まり、飛行機は滑空をするように飛んでいるのです。
夜明け前の一番暗い空を、二人を乗せた飛行機は静かに飛んでいます。
ケンジくんの家が近づいてくると、コンジキは無線機に向かってオーキソーに呼びかけました。
「こちら夢見航空822。当機はこれよりケンジくんの家へと帰還する。部屋の窓を開けられたし」
『こちらオーキソー。了解だ。窓開けを始める。さん、に、いち』
オーキソーの合図で部屋の窓は全開になり、飛行機は開け放された窓から部屋の中へと進みました。
「おかえり!」
ケンジくんの部屋の中で両手に持った光る棒をあらん限りに振って、飛行機を部屋の中へと誘導していたのはオーキソーでした。もう無線機など使わなくても声を直接聞くことができます。
「オーキソーただいま!ぎりぎり間に合ったよ!」
「ああ。さ、早くケンジくんを布団の中へ!」
二人は大声で会話をしています。窓の外はもう夜明けが近いのでしょう、薄っすらと空が明るくなっている気配です。
「さあ、ケンジくん。布団に飛び降りるんだ!」
ケンジくんは部屋の天井すれすれを飛ぶ飛行機の扉を開けて布団が真下にあるのを確認しました。そこではもう一人のケンジくんがぐっすりと眠っています。
「ねえ、ぼくが眠っているけれど、飛び降りても大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫。本当はもっとケンジくんとお話しをしたかったけれど、今夜はここまでだ。ケンジくん、また会おうね」
「うん。コンジキも……あとオーキソーともゆっくりお話したかった」
「ぼくからよろしく言っておくよ。よし、ケンジくん、さようならだ」
「バイバイ!」
縮みゆく飛行機からケンジくんは自分が眠っている布団の上へと飛び込みました。
「また会おう!」
空中でケンジくんは光る棒をブンブンと振っているオーキソーと目が合いました。
「また今度ね!」
飛行機から飛び降りてすぐにベッドに着地すると思ったのに、ふしぎなことにケンジくんはオーキソーに手を振ってあいさつをする余裕がありました。それともう一つふしぎなことに、ベッドの上に着地したと思ったら、布団がぼふ、と柔らかな音を立てて、次にまたたきをした後にはもうケンジくんは布団の中にいたのです。頭の下に枕の存在を感じながら、ケンジくんは飛行機がゆらゆらと部屋の中を移動するのを見つめていました。
コンジキが操縦する飛行機はどんどん小さくなっていっています。飛行機はケンジくんの勉強机へ向かって飛んでいき、置いてある筆箱の上に止まりました。もう飛行機の大きさは手のひらサイズです。そこから飛行機は筆箱の中へと沈んで、とうとう筆箱の模様の一部に収まりました。部屋の中にいたオーキソーの姿も、飛行機の中にいたコンジキの姿も、いつの間にか見えなくなっています。
「ああそうか。あの飛行機どこか見覚えがあると思ったら、筆箱の模様だったんだ。じゃあコンジキは──」
そんなことを考えながら、ケンジくんは夢の中なのに疲れからずるずると眠ってしまうのでした。
***
翌朝、ケンジくんががばっと身を起こすと、部屋の窓はきちんとしまっていてケンジくんは普段着ている通りのパジャマ姿でした。何かちょっとした冒険をしたような、そんな夢を見た気分なのですが、そんな記憶はすぐにぼやけてしまって、おぼろげにしか思い出せません。誰かとなにかに乗っていたような……。ケンジくんは夢の記憶をすくい出そうとしましたが、多くの人と同じように、一度あいまいになってしまった夢にきちんと形をつけることはできませんでした。でも、夢の中で大きなくじらが空を飛ぶ姿を見たのははっきりと覚えています。
「あれはすごかったなあ」
ベッドから出て勉強机を見ると、先の折れた金の色えんぴつと暗い所で光る恐竜のおもちゃが語らうように並んでありました。
「あれえ、なんで折れているんだろう。ちゃんとしまっていたはずなのに」
金の色えんぴつを使うのはもったいない気がして、ケンジくんは普段、金だけは全然使わずにきれいに研いだまま色えんぴつのケースにしまっていたのです。それなのに、なぜか今朝はケンジくんの勉強机に出てきているのでした。
「変なの」
朝の澄んだ空気の中、えんぴつけずりでその色えんぴつきれいに研ぎなおすと、なんだか今まで使わずにいたことの方がもったいなかったような気がしてくるからふしぎです。
ふとパジャマのズボンのポケットに違和感を覚えたケンジくんがそこに手を突っ込むと、一粒だけ、ビーズのように小さな粒が出てきました。
手のひらでそれを転がすと、ケンジくんは勉強机の色えんぴつと恐竜のそばに置きました。朝日を受けたわけでもないのにきらりと粒が光りましたが、ケンジくんはもうそれを見ていなかったので気がつきません。ただ金色のえんぴつと緑色に光る恐竜だけがその粒を大事な思い出のように見つめているのでした。
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