69:ナギサ
ナギサの痕跡を探そうと決めた。
しかしそれは困難なことだった。
「ナギサって子がこの辺りにいたかって? うーん……それだけの情報じゃあねえ。よくある名前じゃないけど、特別珍しいってものでもないし」
「悪いけど、個人情報を他の患者さんに教えるわけにはいかないんだ。けれど、今の入院患者さんの中にいない、とは教えてあげよう」
……と、医者と看護師。
リュウたちは、それでもナギサを諦められなかった。
ナギサのことを思えば、身近に感じられる"何かの感覚"があるのだ。
だから霞をつかもうとするようでも、歩き回った。
日本での生活を思い出すほどに、亡骸サーカス団での日常が薄れていくような感じがある……と、坂井と茜はよりあせっていた。
どうやら龍だけが、サーカスでの記憶がまったく薄れていかなくて、それは、心に宿しているオーメンの「業」と「覚悟」なのだろうとみんなで話した。
とにかく、ナギサのことをただ流されるままに忘れてしまいたくなかった。
「最近、茜さんは気持ちが精力的になっているわ。いい傾向だね」
とは、精神科医の言葉。
「態度が柔和になったようだな。……坂井家の人間らしくはない、らしいが……」
とは、父親の言葉。
その変化が前に比べていいものだとすれば、愛情を与えてくれていたナギサの影響なのであろうと、さすが癒しの技能を得たピエロだったなと、龍はそっと思うのだった。
ナギサ探しとリハビリを兼ねて、龍が病院内と病院敷地内を歩く練習をしていた、ある日のこと──。
診察をしていた医師は「指の運動のためにモノを書くのはどうでしょうか」と龍に勧めた。
長らく担当医を務めてきてくれた男性で、ベッドの脇に本を積み上げている龍のことをよく見ていた。
彼曰く、もともとインドア趣味だった人がリハビリのためとはいえ運動のみに時間を割くのは実はよくないのだと。リフレッシュができなくなり追い詰められる、そのような険しい顔つきになっていると、龍を諭した。
たしかに、いつまでも成果が出ていないナギサ探索のことで思い悩んでいた。
龍は気分転換に筆を取ることにした。
シャープペンシル。原稿用紙。消しゴム。作業用のベッドサイドデスク。卓上ライト。
(なんて潤沢に物が手に入るんだろう! サーカスコインが懐かしいな。なにも買えなかった……欲しいという気持ちだけをたくさん抱えて眠ったな……)
そのような気持ちを断片的に記していく。
サーカスのことをそのまま描写すれば、もしかしたら「妄想が酷い」と担当医たちが慌てるかもしれないと思ったから、気持ちだけを。
オカシのことを書いた。
当時「お菓子」というほど余裕のあるものの言い方をできなくて、まるで子供が早口でねだるような「オカシ」という発音だった。
そのシーンを読んだ坂井が、後日サンタクロースのような袋に山のようにお菓子を入れて持ってきたから、パーティのような賑やかさが訪れた日がある。
水の美しさを書こうとした。
(あ、まった。……アカネの魔法について書きたかったけど、今のアカネは水が嫌なんだっけ。津波の記憶に怯えて……いや、憤って? どうしてだろう……。……ううん、アカネにこの世界のことを思い出させすぎて、亡骸サーカス団でのナギサの記憶まで消えてしまったら悲しむ。……アカネの魔法が綺麗だったことをなんとか表現したいなあ)
絵を描いた。
【水を司る幻獣】の可愛らしいイラストだ。リアルなものを描くほどの画力はなかったけれど、茜は可愛らしいものが好きなので、これでも喜んでくれるだろうと心を込めて……。
すると彼女に「宝物にしたい」とまで言ってもらえた。
龍の原稿用紙は溜まっていった。イラストも時折加えられた。
しかし、ナギサは見つけられない。
龍の健康状態がいいので、一度、地元に帰るのはどうかと薦められた。
──東京の孤児院。
──そこで思いがけずナギサを見つけた。
孤児院はこぢんまりとしていて暗い雰囲気が漂っている。
「まだ福島の傷が癒えていない子がいるんだ」と院長先生はうすぼんやりと言った。場を保つことにすべての気力を注いでいるので、ほとんど子供たちの前には姿をあらわすこともなく、いつも押し黙っていてやさしくない人だったと記憶していた。
龍の胸にいるオーメンがしくしくとしている。
君と似ているよね、と龍は胸の辺りにそっと手を置いた。
院長は龍たちが前向きに自分のことを見つめたので驚いていた。
そして、龍たちがここに来たときのことを確認のため語った。
龍は、災害によって両親を亡くしてしまいここに来た。
茜は、災害によって福島からここに移動させられた。
そして「双葉 渚」……茜とともに電車内で災害に遭い、福島からここにやってきた少女がいた。
ようやく茜は思い出した。
サーカスのナギサのことを覚えているには、この日本での記憶を完全に思い出してはいけない、と自縛していた枷が取れたのだ。
それにサーカスのナギサのことは龍が記録してくれてある。可愛らしいイラストと共に。
茜はしばらく黙ったのち、「私は自衛官になる」と涙を拭いた。
”渚”と共に生きられるような気がしたのだろう。
「双葉渚さんは、君たちが病院に移ってから亡くなってしまったんだ」
龍はもともと体が弱く、茜は精神を治すために、それぞれ病院へと向かった。
その時には元気いっぱいの励ます笑顔で送り出してくれた渚だったが、そのあと、みるみる体調を崩してしまったそうだ。
(渚は……自分のことよりも友達を優先してしまう子だった。あのときのボクたちは自分の不調に手一杯で、それに気づく余裕もなかったんだね。子供すぎた。ごめん。
……またナギサに見送らせてしまったけど、白いリュウ、もう一人のボク、どうか彼女のことを救って、たくさん励ましてあげてよね)
(そりゃあうざいくらいそうするだろうぜ、リュウ!)
(……そうだね)
茜は話を聞きながら何度も頷いていた。
坂井は気まずそうにしずかに話を聞いている。
彼はこの孤児院には直接関わっていない。ただ、孤児院に多額の寄付をしていた。たしか、龍を病院に送るためという理由だった気がしたが、まだ思い出すのは早いようだ。
「こちらへ」
院長先生が案内してくれたのは、子供たちのおもちゃをしまってある倉庫。
鍵がかけられていて、乱暴な子が勝手に持ち出したり、暴れたりできないようになっている。埃っぽくて暗い雰囲気。引き裂かれた跡を修復されたつぎはぎが目立つカーテンや壁紙。
三人は、亡骸サーカス団の光景を思い出す。
白い箱に入ったぬいぐるみを、院長先生はそっと龍に渡した。
「キサラ……!?」
白馬のフェルト素材の素朴なぬいぐるみ。
龍の両親の形見で、孤児院に持ち込むことが許されていたのだが、傷ついた子供たちにひっぱられることになり、ボロボロになってしまったのを、渚が紡いでくれたのだ。
「そうだった……キサラ……あの子は、キミだったんだね……」
龍はコードネーム:トラウマと戦ったときのことを思い出しながら、キサラを撫でた。メリーゴーランドの魔法、たくさんの木馬の中でまっさきにリュウの味方になってくれたキミ。
腕に収まるくらいのフェルトのぬいぐるみからはお日様の匂いがする。院長先生が干してくれていたのかもしれない。
破れていたところが丁寧な縫製で繕われているのは、渚の痕跡。
渚がたしかに触れて縫った跡である。
龍はそこを指で辿った。
何度も辿った。
茜がものすごく視線をよこしていたので、彼女の腕にキサラを貸した。白馬のぬいぐるみはクッタリと体の力を抜いて眠っているような姿で、心地良さそうにまどろんでいた。
「持っていきなさい。渡すのが遅れて、悪かったね」
「いいえ。ナギサの形見でもある……だからここに置いてくれていたんですよね。大切に保管されていてよかったです。そして、今渡してくださってありがとうございます」
「立派な青年になったものだ」
院長先生は眩しそうに目を細めて、龍を見た。
紙を渡された。
住所が書かれている。
「病院のそばに寺があっただろう。そこに渚さんの遺灰が収められている。
こんなこと君たちには言えないとずっと思っていたが、今の君たちを見ていたら、言わないほうが悪いだろう……。伝えても大丈夫だと……ようやく……すまないな。わしが一人で抱えているのが重かったのも、あるんだ」
院長は頭を下げた。
龍たちは帰り際、ゆっくりと道を踏み締めて、寺に行った。
日が傾いて夕方になっている。
目覚めた時と似ていた。
だから、渚との友情もまたここから始まるのだと思った。
「また来るね」
線香をあげて手を合わせた。
それから、ピエロが親しい人にそうする挨拶みたいに、楽しさと祈りを込めて、ひらりひらりと手を振った。




