55:元の世界に帰るということ
オーメンは静かに"現れた"。
ボクが引きとめる間も与えてくれず、まるでワープするようにいつのまにか、目の前にいたんだ。
これはオーメン本来の特殊能力。気まぐれに神出鬼没する仮面だったな、と出会った頃のことを思い出す──。
(オーメン……表情がないような……)
ココロを売っていないのになぜ? と考えたところ、すべての感情をシャットダウンしているんだと納得した。
こうするには理由がある。トラウマの前でとにかく感情的になってはいけないからだ。
けれどオーメンのココロの声が何も頭に響いてこないのも、寂しいものだと感じる……。
そんなオーメンとボクのしょぼくれた様子を見て、トラウマは爆発的に笑ってみせた。
「オーメン。オーメン。オーメン。──そんな名前だったよね確か! 名付けたんだよな。知っているぞ。おまえが私にココロ自動販売機を作らせた、本当の意味! 表向きはさあ、ピエロを強化するためだなんて命じられたけど、でもそれより何より欲しかったんだろ? ココロを売りつくしてしまうための装置がさ」
トラウマのテンションが異様に高い。こんなの初めて見る。
支離滅裂な言葉を頭の中でつなげていって、ボクは意味を探ろうとする。
トラウマは、ココロ自動販売機の作成者で、それを作らせようとしたのが、オーメン?
ただの仮面がそんなことを命じた……?
ううん、仮面ってことは何らかのココロのエネルギーが宿っている。オーメンは、誰かがココロを売りつくしてしまった成れの果て……?
「……」
「おや、だんまりかい。私はさあ。見ちゃダメって言われるものほど見たくてたまらない……。見ちゃダメってものを集められたら、それを見られたくない奴は誰だって何でもしてくれるんだよな。
私はそいつらを集めて、自分の足場にするのが好きなんだ。なんにもなかった私の足場が、技術によってまたたくまに固められていくのは至極快感。成功体験ってやつさ。
動けといったら動く装置を、他人から集めた。
働けといったら働く装置には、他人を当てはめた。
やめられない。便利なんだよ。他人の秘密」
そういう気持ちを元に、コードネーム:トラウマの魔法は生まれたに違いなかった……。
「俺様はおまえの言うことをきかない」
「オーメン、おまえは、キマグレ団長のココロからできた仮面だよッ! ギャハハハハハ」
──今、なんて言った? …………。
途中の思考がぷっつりと途切れて頭が真っ暗になるような、衝撃的な言葉が、ボクの耳をつきぬけていった。
あ、トラウマがこっちを見ている……。
オーメンを見るふりをしてボクを見てる……。
視線がボクを、獲物としてとらえている……。
蛇に睨まれたカエルだ。
でもココロだけはもって行かれないようにしなくちゃ。
ナギサはもうトラウマのひと睨みで、隣で気絶してしまっているから。
ボクがしっかりしなくては。
うなされている彼女が悪夢を見ているのであろうことがわかり、それが悲しい……。
…………。
……………………。
トラウマはねっとりと繰り返す。
「オーメンは何の仮面? 誰の仮面? キマグレ団長のココロからできた仮面! そうか、キマグレ団長は脱出をしたかったのか? 亡骸サーカス団でおびただしいピエロを貪ってきた罪から、逃れたかったのかーー!」
ボクの心臓は、ドッドッドッ……と尋常ではない鼓動をしている。
またたくまに脈が乱れていく。
この感じ、よく知ってる。
病院着があまりに似合うやせっぽちの青年。
そこでしか生きられない地球のボクが、たしかに、毎日聞いていた音だった。
この心音に、心音を測るための機械の電子音が混ざり合ってゆき……ここは日本……? そんな、訳は……。
グラグラ、ボクの意識は現実と過去を行ったり来たりとしている……。
あっ、体が傾いちゃって頭が床についた。
わかっちゃいるけど動けない。
…………。
……………………。
「ああーー、そろそろ心臓が止まるだろうな。死にかけの走馬灯、こいつは、なにを見ているんだろうねえ」
「リュウ!!!」
「オー、メ、ン……」
オーメンがそのままの姿でいる、ってことはさ、ここは鏡を通った後の地球なんかじゃなくて、亡骸サーカス団の中……まだあのブラック企業の中だ……。
ボク、頑張れ、頑張れ……。
寄ってきたオーメンを抱きしめた。
吐き捨てるような舌打ち。
「はああ? チッ……。おまえたち、まだココロがひび割れないなんてなあ。もっとショックを受けても良かったんだぞ。
おまえがココロを許して頑張って協力していた相手はさあ、そのオーメンは、逃げたくなるほど酷い亡骸サーカス団のまさに運営者だったんだぞ。よーーく向き合えよ?」
そんなこと今言われても真実を理解するには時間がかかるよ。
ボクは自分で選んだんだよ。オーメンといることを。
ボクの失敗だ。
ボクの失敗なんだよ。ボクのものだ。
オーメンのことを嫌悪してココロを壊してしまえって? 冗談じゃない!
なんで、他人にそんな風に操られたいって思うかも、なんて考えられる? トラウマの思い通りになんてなりたくない、ボクはもう自分で動くことにしたんだ、そこには失敗の点もあった、そういう、それだけの話なんだからッ。
サカイにアカネにナギサに、オウマさんやムムリノベルに後輩ピエロたち。ボクはみんなと決めたこの作戦を、一人で降りるわけにはいかないんだよ。そうしないために頑張るんだ。
ボクを見ているであろうトラウマに、首を横にぶんぶん振ってみせた。
「はああ……。こいつぁ、このネタでゆするのは無理そうか。面白いじゃないか、ほんとうに最悪だな。操りにくいやつは大嫌いなんだ。言うことを素直に聞くならば少々もてなしてやったのになぁ」
トラウマが次に発した言葉は、ボクが予想もしていないことだった。
そして、トラウマを引き出す・植え付けると言うことにここまで執着があるからコードネームを冠するまでになったのだと言うことを、ボクは思い知らされるのだった。
「”火野神 龍”」
「────────!?」
強制的に走馬灯に引きずり込まれてしまい、ボクはその幻想世界を、ふわふわと幽体離脱したような意識で見せられることになった。逃げられない────。
真っ白な日本の病室。
ボクの寿命と投薬について話す医師。
疲れ切って土気色の肌をしたサカイのため息。
ボクは手術後で起き上がることもできない。けれど頭は冴えていて。
生きなくてはいけない。生かされなくてはいけない。
か弱い心臓の音と──。
一定の電子音──。
責められているような気持ちが溢れていて、でも発散もできなくて──。
息ができるように万全の処方が施されているのに、苦しい────。
苦しい苦しい苦しい苦しい……。
白髪に染めた髪の青年が無理に笑顔を見せて、おどけて──。
でも彼を見て楽しい気持ちになっても、心音は戻らず──。
ドキドキドキドキ。ドキドキドキドキ。
自分の体がこんな状況でごめんなさい。
悲鳴のように脈を測る電子音、耳障りで──。
苦しい苦しい苦しい苦しい……。あああ……!!
火野神 龍は、けして幸せな青年ではありませんでした。
トラウマの声が隙間にもぐりこんでくる。
「それでもまだ元の世界に帰りたいか? 亡骸サーカス団から逃げられたからと言って、元の世界ではまた逃げられない──」
唇がくっついたように動いてくれない、声が出せない。
頭が鉛になったように働いてくれない、思考が止まっている。
ああ、苦しいなあ。
ボクは、僕は…………。
「──すぐに答えを出さなくてもいいんだよ」
そのやけに優しい声に、ボクは陥落してしまったらしかった……苦しくても、でも、帰るって……ああそれなのに、意識が遠く……そんな……そんな……。
リュウは、荒い息のまま横たわって目を閉じていた。
トラウマは満足した。
(だいたいのものは、現実から繋がっているトラウマをぶつけてやればココロを削れる。けれどそれが効かなければ、元の世界の人格についてトラウマをぶつけたら病むものだ──時間が稼げたら、そのうちに状況はいくらでも悪くできるしな。この方法は実験件数が少なかった。が、有効データが一つ増えたな!)
十分有効、有毒、最悪。
それを手にしたトラウマは、また一つ、幹部として素晴らしい存在になった。
今や、幹部の上である”団長”の座は空席だ。
もしかして。もしかすると。
トラウマの”タガ”が外れる。
トラウマはいつのまにか、リュウの様子を観察することに夢中になった。
研究者・探究者の素質を併せ持っているため、のめりこむ性質があるのだ。
これから先、トラウマは団長にまで登りつめるのかもしれない。その可能性はできるだけ高めておかなくては──! と、ヨダレのようなものがたらーりと垂れて、それは床をじゅうっと焼いた。溶解液だ。
オーメンは冷静に存在感を消して観察する。
(いろいろと仕込んでやがるな……。でもトラウマのこの状況はチャンスか……。完璧な幹部はいない。みんなどこかしら致命的な欠点がある。トラウマはまさにこれ、観察に夢中になってしまうところと欲に目がくらむところ──)
だからこそトラウマは、自分が動けなくなることを想定して複数人でいることを好んでいたはずだ。
しかし今回はなぜか一人きり。
己が甘い汁を独占したいからなのか、それともいつものメンバーに愛想をつかされたのか。幹部は”仲良くする”洗脳がされていない"ので内輪揉めもよくあることだ。
(今のうちに──今なら……今だけは、リュウが気絶しているから、ごめんっ……!)
オーメンがパッと気配を断ち、己をすべりこませた。
リュウの顔に仮面が装着された。
仮面はあまりにすばやく馴染み、リュウの体をよりしろとして、オーメンの意識が”現界”した。
ハッとしたトラウマは忌々しげに距離を取る。




