3:醜悪なピエロ
「はやく、ここから、引っ張り出せえっ」
「ハイただいまっ!!」
悲しいかな、ボクの体はすぐに動いた。
”上位に逆らえない”。
これはサーカスのルール。
つまり、彼はボクの上位の存在であるのだ。
記憶を取り戻しているピエロであっても、このルール遵守の法則は続いているらしい。
ほほ肉の横にはみ出た布をなんとか引っ張って、おそらく襟なのだろう、ちょうどよく指がかかったのでボクは後退する。せっかく少しだけ奥に進めていたのにな……。
ぼよよよん、と彼は出てきた。
引っ張っているときは骨と肉が軋むような音がしていたのに、外気に触れてみれば、ゼリーのように膨らんだのだ。
「フトッチョ」
「うむ」
”フトッチョ”は彼のコードネーム。
位が上がると、コードネームをつけてもらえる。
大柄で体がふうせんのようなピエロ。ぶよぶよした肌の動きで、観客を笑わせる芸が、人気を誇っている。
二メートルほどある身長、さらにはよく動くので、とにかく目立つ。
ショーではペアが注目されなくなり彼の独壇場となることが多い。
だから、ペアにならないように注意、と噂されていた。
殴られた。
「クッソ、石頭! なまいきだぞ」
「すみませんでした」
「てめーの実力じゃないな? 小さい頭がそんな硬いわけないもんな? 魔法がかけられてるんだろ? 何で、てめー如きが助けられてやがるっ」
「すみませんでした」
この、繰り返しだ。
しばらくされるがまま殴られていたけど、魔法の治療の効果なのか、ダメージはない。
フトッチョはしだいに気味が悪そうにボクを見た。
彼はおそらくけっこう頭がいい。
何か用がありボクが生かされたのではないか、それを自分が破れば制裁を喰らうのではないか、そう思ったのだろう。
拳を下げて、ニタリとした。
「ショーカードをよこせ」
なぜ来たのかと思えば、そういうことか!
ショーカードというのは、ショーへの参加証明書。
初めての綱渡り指名ということで、ボクも一枚もらっていた。
フトッチョは真顔になってみせた。
こっわ。
よほど欲しいのだろう。
しかしこれは、綱渡り用の参加証明書……フトッチョがそれをこなせるだろうか? それに「オカシを食べることが生きがい」なんて彼の噂を聞いたことがある。それなのに即死の綱渡りを?
ピンと来た。
「ボク、分からないんです。ショーカードを渡したら、どうするんですか?」
「ああん?」
「これって渡してもいいんでしょうか。初めてのショーカードだから分からなくて」
「なんだ、落ちこぼれピエロのリュウ、そうか、てめー初めてのショーだったのかあ」
「はい」
「これはなー。もっと上手に綱渡りをするピエロに”売る”んだよ」
やっぱりだ。
”買う”ためのお金は、サーカスで仕事をしたらわずかにもらえる。
それを巻き上げるため、ボクにその片棒を担がせるつもりらしい。
大男のフトッチョはたっぷりの布を使う衣装を特注している。借りることができず、オーダーメイドだと聞いたことがある。体を維持するための食糧だって、配給だけでは足りなくて、売店で買ったりしているだろう。「フトッチョは借金まみれ」という噂を信じていなかったけど、いざ本人を前にしてみると、信憑性がある。
「てめー、死んでたらよかったのにな。そしたら、足を震えさせなくっても済んだのに」
そうか、フトッチョは、ボクと交渉するために来たんじゃない。
死んだピエロの懐から掠め取るつもりだっただけなんだ。
「残酷だ」と感じるこの気持ちは、きっと今の方が正しいとボクは思う……。
ボクの足は震えて今にも後ずさりそうだ。
でも、想像してみる。
もしも以前のボクが「ショーカードを売ってあげる」なんて言われたら飛びつくだろうし、そうしたら、裏方で一緒に働いていたピエロだとか、入団したて……ってことは攫われてきたピエロなんかが、犠牲になってしまうんだ。
嫌だ。考えただけで気分が悪い。
そんなことを許してしまうことはできない。
「さあ、もう大丈夫だぞ。こっちにショーカードを寄越しな。そしたら、てめーが震えちゃうほど立派なピエロのフトッチョ様は、芸を見せてここから退場して見せてやるぞ」
優しい声にも、ボクは動かなかった。
「……焦ったいな。ソコか!」
「どうして分かるんですか!?」
「したっぱピエロの服にはポケットが一つしかない。大事なものはそこにしまう癖がある」
吊るされるように服を持ち上げられて、ボクは必死に抵抗した。
なにか、この人を止める方法はないだろうか。
ピエロたちを縛るためのルールや仕掛けがたくさんあるこのサーカスだ。
何か、うまく利用できたなら、ボクにやれることがあるんじゃないだろうか。
これはほとんど偶然だった。
追い詰められたボクの環境に危機を覚えたらしいアタマが、導いてくれた一つの可能性。
「お願いです! やめてください、それは……”ルールに反します”」
ピクリ、と彼の眉が反応した。
そして眼球がぐるぐると回る。
「ルール……ルール、ルール……ブツブツ……」
”ルール””反する”これを同時に聞かせてみる、それが効果を発揮したらしい。
しかし、続きをボクが考えられなかったことによって、ぶよよんと彼のお腹で弾かれた。
ボクが離れたせいなのだろうか、フトッチョの目の焦点が元に戻っていた。
「へぶっ」
「は、は、は。他人のショーに勝手に出てくるような奴はルール違反! それのつもりか。まだリュウのショーが続いているつもりだって? いやいや終わったんだよ。だからここにいるんだよ。ほら、フトッチョ様は、ルールを守ってる!」
意味を置き換えたんだ。
おそらく”ルール”については洗脳されていたボクらのアタマに由来する縛り。
考え方で己をも誤魔化せば、緩和されてしまうのかもしれないな。
フトッチョは小馬鹿にしたように鼻息をフシューーと吐き出した。
「はあーあ。てめー、バカだなー。ルールのこと理解していなくって、バカだなー。もう二度と言うなよ、恥ずかしいピエロに成り下がるんだからな。んじゃ、ショーカード、もらってくぜえ」
彼は完全に油断している。
ボクのカードを指に挟み、もうもらったつもりでいるからだ。
それに「リュウはバカで誤解した」をアタマに思い込ませて制限を突破したので、リュウがバカだと本気で信じ込んでいる。
それならば、言葉の罠を仕掛けやすい。
ボクはバカらしくへらへら笑いながら、媚を売るような上目遣いで、軽く話しかける。
「フトッチョ先輩。それを売らないって【約束】してくれてありがとうございます。ボクに日常的なピエロの作法まで教えてくださって。さあ、さあ、こっちから扉を閉めさせてもらいますね。お手伝いいたしましょう」
「ん? そ~だな。頼むぜ」
「ええ。”そう”しましょう」
【約束】【承認】が完成した──。
彼は、ぶよぶよぶよぶよ、脂肪を押し込んで、スライムのようになめらかに通路に詰まってゆく。すごいな。
彼のクルンとした髪の毛先がしなびたのが見えた。
これは魔法を使ったあとの乾きの特徴みたいなもの──つまりささやかな魔法が発動したってこと。
どうやら上手くいったらしい。
扉を閉め、ふらふらとベッドに戻り、安堵の息を吐く。
「【約束】を【承認】させるのは、トップショーマンの幹部たちが部下に向かってつかうやり方。そのように人を使っていた姿をきちんと思い出せた。あんないやらしいこと、せめて正しく使わないとね……」
ボクの持ち物がひとつ減っただけで、依然変わらない悪い状況。
ずいぶんと頑張って頭痛がぶり返し、なにか新しい力に目覚めたわけでもない。
けれど少しだけ気分がよかった。
このまま寝てしまいたかったけれど、状況は待ってくれないようだ。
リリリ、とベルの音がして、医務室にも備え付けられているスピーカーからアナウンスが聞こえてくる。
今は、どんな演目がやっているんだろうか。
ボクの綱渡りのあとのスケジュールを思い出しながら、放送を聞いた。
<団員No3333・フトッチョが喪失しました。空いた席への補充は──」
うっそ。
喪失?……死んだってこと……?
ほかの団員に売れなかったからって、自分で使ってしまった?
それとも誰かに使わされたりなどしたのだろうか。不安が込み上げてくる。
ガラス窓の方から割れんばかりの歓声・壊れた人形のようなけたたましい観客の笑い声が、つんざくように響いてきた。
「人が死んで、それをエンタメにするなんて、なしだよ……」
ボクは声を振り絞った。
ここでぐずぐずしている気分ではなくなった。
とにかく移動したかった。
観客の声が聞こえないところに、まずは、遠ざかろう。気分が悪くて吐きそうだ。
そして驚くべきことに、正面の扉に手をかけたところ、サッと飛び出してきたものがある。
「やるじゃん!」
なにこれ……。
「脱出って言った? 言ったよね? 聞いちまったぜー!」
”喋る仮面”だった。
終わった絶望? 味方に引き込む?
今度こそ足をふんばって、ボクはこの仮面に向き合ってみせた。