2:空耳
挿絵協力:さらら様
──「今、脱出って言った?」
──そんな声が聞こえて、そして、ボクは何かの選択をしなければ……ならなくなって……
──あれ……
──……
”ボクは医務室で目を覚ました”。
とても頭が痛くて、けれどそれは攫われてきた記憶を思い出したからだって知っていた。
喉が渇いたから水をがぶ飲みした後だってことも知っていて、気絶していたらしいのは、魔法が使えないボクにむりに魔法をぶちこまれたからだろうと想定する。
”今、脱出って言った?”
そんな空耳が聞こえた夢を見ていた。
”まだ回復が足りないらしい。”
そんな空耳もあった夢を見ていた。
……だってここ、誰もいないし、「脱出」の言葉を聞かれていたなら、ボクが無事なわけないじゃん。
いきなり都合のいい味方が現れるはずはない。
ここは【亡骸サーカス団】なのだから。
慎重に、まじまじと、見渡してみる。
とくに仕切りもされていない医務室だ。
ベッドに座っているのはボクだけ。
他のベッドは10個。
毛布がぐしゃぐしゃに丸めて置かれていたり、無造作にシーツがかけられている。
床にホコリは少なくて、わりと頻繁に使われているのだろう。
ボクが掃除をしていた裏方の倉庫では、しばらく使わない物を押し込めていたので、よくホコリが積もっていた。掃除していたら、別のところが瞬く間にホコリにまみれる。布張りの天井は埃が溜まりやすく、ボクはまるで、賽の河原で石を積む子供のように同じことをくりかえしていた。
ボクの手足は細いので、スキマにも腕を入れることができるから倉庫掃除に適していた。
そんなことを誇りに思っていた。
それくらいしか自尊心がなかったんだね。
1日のスケジュールは、掃除・掃除・掃除・掃除・ショーの端くれ・掃除・掃除・食事・就寝。
これはひどい。
さて、倉庫よりもはるかにマシな医務室の環境。
けれど、ボクは思い出してしまっている。
”日本の”病室の光景を!
そして比べてしまうよね。
比べてはじめて正しく認識できることってあるよね。
医務室としては最悪だ!
ホコリ・汚れ・行き届かない清掃・血のついた医療道具。すべてキッツイ!
白いシーツに清潔な布団、ホコリのないクリーンな空気が理想的だ。
けれど、このサーカスのどこにだってそのような贅沢な場所はないだろう。
清掃レベルから、ボクは再び思い知らされた。
ここにいることは、どうしてもできないらしい。
体が軽いので歩こうと思った。
スリッパを履いたところ、カビ臭くて湿っている。全身をゾワゾワとした嫌な悪寒が駆け上がっていく。
けれど床にはあちこちにガラス片があり(患者が暴れたかもしれないし、医者がいるなら多分相当おかしな奴だ。縄落ちを喜んだピエロみたいに!)チラシが積み重なっていてその下になにが潜んでいるのかわかった物じゃなかった。あれほど憧れていたチラシをボクはただの物として眺めている。ここも感覚が変わっている。
チラシの破片。
サーカスのチラシが丁寧に扱われていないってことだ。
他の人も、ここで”思い出した”りしたのかな?
それとも、死ぬ直前にはピエロの洗脳が解けてしまうんだろうか?
(……ボク、もし、またこのサーカスで”気楽に”過ごせるなら、思い出したくなかった、って思う?)
ボクは頭の中で自分に問いかけてみる。
自分を二つに増やすようなイメージをして、対話させて、悩みへの解答を出そうという試みなんだ。
(すこし魅力的。だって、日本の意識を持ったままココにいるのはかなり苦しくて、まず苦しみから逃れたいっていう気持ちがある。疲れたじゃん。未来が不安じゃん。でも、だからって洗脳してくれって幹部に頼むの?)
(死にたくない)
(そうだよね)
(この考え、今、いるかな?)
(すぐに答えを出すべきことではない。情報が揃わない中でのありあわせの判断は、間違ってしまうことが多いよ。できるだけ情報を得るところからだ)
(勇気を出して、ボク!)
(そうだね、ボク!)
あほらしい〜、って自分でも思うよ。
けれど日本の感覚を持っているのが一人きりだなんて、心細くてどうにかなりそうだから。
(ボク、何年いたっけ)
(……)
(……)
(あれっ)
くらくらしてる。
(そうだ、日本の記憶を思い出したぶん、サーカスでの記憶が抜けてるんじゃない!?)
(落ちついてボク。落ちこぼれピエロは何年勤めたかなんて気にしないアホだったじゃない)
((それだ!))
悲しくなってきたなー。
けれど、理由はわかった。
ボクはショーで活躍するしか頭にないおバカなピエロにされていた。
さて、壁にヒビを見つけた。
ここを通っていけるだろうか?
押してみたところ、分厚い。もしもヒビを掘れるような魔法をボクが使えたなら、ちょうどよかったけど。
ここは通れない。けれど経年劣化が進んでいるから、他にも、このような脱出できる場所があるかもしれない。
壁の下方に小窓。ここはガラス製で外側に鉄格子がはめられている。下にはショーの舞台が見えていて、医務室が二~三階相当であることがうかがえる。降りる、というのは困難そうだ。
正面の扉か?
鍵はかけられていない。”罠”だろうか。
…………。
学校の保健室のような、頼りない薄っぺらい扉ひとつだけ。
これを突破したならば、従いっぱなしだった落ちこぼれピエロは、運命の片隅を打破できたといえるのではないだろうか。
開けかけて、けれど、思い直す。
(今のボクは冷静に判断をしているのか?)
(サーカスに従わせられていたことが悔しくて反発しているだけじゃないのか?)
──そっと閉じた。
誰かが外を歩き抜けてゆく音がした。ドッと汗が吹き出て、力が抜けた。
「倉庫掃除中に幹部が見えたらすぐに挨拶できるように、気配察知を練習しておいてよかったよ。まさか今実感するとは思いもしなかったけど。この辺り、いくつかの動きがあるらしい。医務室の場所は、舞台証明室の近くだからか……入れ替えの時には足音が大きくなって、人の入れ替わりがわかるんだ……。今、綱渡りのあとのプログラムは、どれくらい進んでる? 時計、このサーカスには置かれてないんだよなあ……」
ボクはショーが映る小窓を見た。
幕が下がれば、とても大きく印刷されたサーカスのチラシの柄が現れる。
しなやか”すぎる”体を見せつけている、鞭を翳したコーチングレディ。
愛嬌ある着ぐるみ姿の、バトルショーのコーディネーター。
烏の濡れ羽色のブラックスーツで誰よりも華やかなポーズをとるのが、サーカス団団長:キマグレ。
(ずっと憧れていたよね)
(憧れさせられてたんだ)
凍える自分を抱きしめるように両腕をさすった。
気分が悪く、不安に押しつぶされそうだ。こんなときは……
「掃除しよう」
そう、掃除なんだ。悲しいかな、ボクの”体”にはすっかり掃除作業が染み込み、心が荒んだ時は掃除、悲しい時も掃除、楽しい時はとっても掃除が捗るという有様だった。おかしい行動だなんて知っている。すでにおかしい精神状態であるので、しばしのリフレッシュは許容されたい。
ついでに医務室の細部を見ることも叶うしね。
ホウキがあってよかった。
ちょこまかと部屋を掃いていく。
「ん?」
部屋の棚の裏に──隠し扉!
これは理想的だ。子供が一人通れそうなくらいだ。ちなみにボクの体はやせっぽちのお子様のようで、日本の記憶にあるよりも幼く縮んでいる。これは最適な巡り合わせのように思われた。
今になって感じられるけれど、ピン!ときたら動いてしまうのは、幼い体にボクの心がひっぱられているのかもしれない。
なにも起こらない、なんて考えちゃいないさ。
なにか起こっても、冷静であれるように心構えをしていくんだ。
「──うわあ!?」
でもこれは仕方ないよ。
人と鉢合わせちゃったんだ!
隠し扉を少し進めば、暗闇に浮かび上がるように、”みっちり詰まった顔”がある。まじホラー。