ずっとズレてる
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
1.宮田歩
「大野め。また遅刻だし」
呟くと、
「いつものことでしょ」
ドラムスティックをくるくると回しながら、豊橋健太がこちらを見もせずに平坦に言った。幼稚園の頃から一緒だったという気安さもあるのか、健太はおれに対してはいつもそっけない。
「大野はどうして、いつもいつもこう」
ぐちぐちと口からあふれ出てくる文句を飲み込み、おれはギターの調整に入る。文句を言っている時間がもう無駄だ。大野伊織は遅刻魔だ。打ち合わせや練習などには基本的に遅れてくる。大野のことを考えると、だいたいいつもイライラする。イライラしている時間が無駄だとも思う。大野は、いつもおれの時間を無駄にする。
大野と出会ったのは高校二年生の春で、大野は一年生だった。当時、大野は軽音部ではなく囲碁将棋部に所属していた。放課後、部室へ向かう途中になにげなく立ち寄った図書室で、大野はひとりきりでぽつんと座って机に碁石を並べていた。その手もとを覗き込んで呆れた。囲碁のルールは全く知らないおれでもわかった。大野は碁石を並べて猫の絵を書いていたのだ。
「なにやってんの」
思わず話しかけていた。
「猫を」
大野はそれだけ言って、おれの顔を見上げてきた。
「ひとりなの」
「はい」
「じゃあ、軽音部においで」
「え、なんで」
そう言って大野はゆっくりと立ち上がった。立ち上がると、身長が結構高いということがわかった。平均的な身長のおれでさえ、少し見下ろされてしまう。おれは、大きな一年生を軽く見上げながら言った。
「先輩命令。なんか、きみ、おもしろそうだし」
そうやって、おれが軽音部に半ば強引に大野を引っ張り込んだのだ。後から知ったのだが、図書室は囲碁将棋部の活動場所で、その日の活動はもうとっくに終わってしまっていて、例によって例のごとく遅れて顔を出した大野は、みんなが帰ってしまった図書室で時間を持て余し、ひとりでただ遊んでいただけだったらしい。囲碁将棋部の部員が大野ひとりだというわけではなく、あの時図書室にいた部員が大野ひとりだったのだ。
思えば、その頃から大野は遅刻魔だった。軽音部に入ってからも、時間通りに部活に顔を出した例がなかった。寝起きが、とてつもなく悪いらしい。学年が違うからよくは知らないが、授業中も、ほとんどいつも寝ていたようだ。陰で「寝太郎」と呼ばれていたことを、大野は隠しているみたいだが、おれは知っている。今日も、どうせまた寝坊だ。
「どうせ、また寝坊だ」
健太が、おれが考えていたことと同じことを口にした。
「だろうね」
だけど、スタジオ練習の貴重な時間を、大野の惰眠時間で削られてはかなわない。健太とふたりでも練習はできないことはないけれど、やはり、ドラムとギターだけでは音に厚みが足りない。ギターのチューニングをしながら、おれは無意識に唇を尖らせていた。
「おあよー」
十五分ほど遅刻してきた大野は、扉を開けながら間延びした声で言う。
「おあよーじゃないよ、もう」
呆れ気味に咎めると、
「どったの、あゆむくん。口がアヒルみたい」
大野はおれを見て、大きな目を細めて笑う。
「あゆむくんは、かわいいねー」
そう言いっぱなしで、準備を始めた大野の後ろ頭を眺めながら、おれは口をぱくぱくさせるしかない。なぜだか苦しくて、言葉が出ない。冗談交じりの、ただの軽口なのに大野に言われると、変な感じになってしまう。
健太が、こちらを見て声を殺して笑っているのが気に入らなくて、なにか言おうと思ったのだけど、やっぱり言葉にならなくて、おれは下唇を噛んだ。
「なんで、おまえいつも謝んないの」
話題を変えるように、おれは大野に食ってかかる。
「おれたちの時間を無駄にしたんだから、謝れって」
「だって、あゆむくん、謝っても許してくんないでしょ」
大野はけろりとそんなことを言った。
「そういう問題じゃないだろ!」
頭に血が上って思わず叫んだところを、健太のドラムの音で遮られた。
「馬の耳に念仏」
ぼそりとそう言った健太が、さらに続けて言う。
「暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹、大野に説教、要するに時間の無駄」
「なにそれ、ケンちゃん」
大野がのんきに笑ったので、
「なに笑ってんだ」
おれの怒りだけが治まらない。
「あゆむ、練習しようって」
あきれたように健太に言われて、なんでおれがあきれられないといけないんだとさらにイライラする。
だけど、それは練習が始まるまでのことで、いざ音を鳴らし始めると幾分か落ち着いてきた。音に乗せて声を出すと、イライラなんて、もうすっかり忘れてしまう。
なんだかんだ言って、三人でこうしている時がいちばん楽しいのだ。ズレている音を少しずつ合わせていく。出会った時からずっとズレていた三人が、こんなふうに同じことをしているということが、少し不思議に思える。バラバラなものがひとつになる。不思議だけど、それはとても気持ちのいいことだ。ライブはもっと最高で、外見や性格や住んでいるところも違う、そんなバラバラな大勢が、小さなハコの中でひとつになる。丁寧にラッピングされたびっくり箱のように、ライブハウスは大音量のきらきらで満たされるのだ。ライブの時ばかりは、大野も遅刻をしないのでおれの機嫌はいつもすこぶるいい。そういえば、と思う。大事な時は大野はちゃんと時間通りに姿を現す。以前、CSの音楽専門チャンネルで特集を組んでもらった時もそうだった。アルバム制作の打ち合わせの時も、プロモーションビデオの撮影の時も。ひっくるめて、おれたち以外の人と仕事をする時。大野はちゃんと時間通りにやってくる。眠たそうな顔をして、「おあよー」と間延びした挨拶をして、大きな目を細めて、大きな口をぱかっと開けて笑うのだ。大野なりに、スノースタンドのことを少しは考えているのかもしれない。
思い出してみると、スノースタンドというバンド名も大野が考えたのだった。高校生だった当時、おれたちは友人の母親がやっていたカラオケラウンジを、開店前までの少しの時間だけ貸してもらって、そこで練習をしていた。高校の軽音部に所属はしていたが、やはり防音の練習室は三年生が優先で、おれたちはどうしても後回しになってしまう。スタジオを借りるには金が要るし、どこか格安で貸してくれるところはないだろうかと考えて、思いついたのがそのカラオケラウンジだったのだ。幸い、友人の母親は子どもの小遣い程度の破格値で快く練習スペースを提供してくれて、時々、お客さんが入っている時に演奏させてくれたりもした。そのラウンジの名前が「雪」だった。「スタンド」は、当時のおれのバイト先がガソリンスタンドだったからだ。大野らしい単純極まりないネーミングセンスだが、おれも健太も特に反対する理由もなく、スノースタンドは結成して、もう十一年になる。
そのことに気付いて驚いた。あの頃、十六や十七だったおれは、気付けばもう二十八になっていた。なんだか愕然として、ギターを弾いていた手が止まる。
「どうした」
健太が言った。
「十一年経ってた」
おれが言うと、
「スノースタンド? そうだね」
大野があっさりと言った。健太を見ると、なにも言わずに首を傾げただけだった。
「楽しいことを十一年も続けてられたなんて、俺たちラッキーだよねー」
間延びした大野の口調で紡がれた言葉は、おれの中にパチンとはまった。
「ああ、そうか」
そう納得して、おれはギターの音を調整する。
大野は、いつもおれの時間を無駄にする。そう思っていたけれど、そんなことはなかった。健太と大野と三人でいて、おれはこの十一年間、大野の言う通り、確かに楽しかったのだから。
2.大野伊織
ぞわり、と鳥肌が立つ。涙が出そうで出ない、ギリギリの気持ちが昂る。胸が、胃が、じんわりと熱くなる。そんな音楽が、この世界に存在していることを、俺は知っている。
この前のライブを録画したディスクをもらった。家でひとりでそれを観ていて、そういう気持ちを思い出した。
テレビの画面では、あゆむくんがスタンドマイクを前にギターをガシガシやりながら目を剥いて唄っている。頭が揺れるたびに、茶色い髪の毛がわさわさと乱れる。
あの頃のことを思い出す。結構ギリギリだと思っていたのに、いま思えば全然余裕だった、あの頃の自分。みんなの仲間に入りたかったけど、でも、みんなと同じはいやだった。自分の話を聞いてほしかったけど、他人の話をただ聞くのはいやだった。青くさい気持ちをぶら下げて、そのまま大人になってしまった。いや。まだ大人には、なれていないのかもしれない。そもそも、大人ってなんだ。想像上の生き物じゃないのか。
そんなことを考えてみるけれど、周りは確実に大人になっているし、結婚しただとか、子どもが生まれただとか、同級生のそんな知らせが耳に入ってくるたびに、わけもなく焦る自分がきらいだ。
「十一年経ってた」
昨日、スタジオであゆむくんが驚いたように発したその言葉に、そうだね、なんて当たり障りのない返事をしながらも、もうそんなに経つのか、と俺も驚いていた。スノースタンドが十一年ということは、俺があゆむくんとケンちゃんに出会って十一年ということになる。
あゆむくんとケンちゃんは、変な先輩たちだった。一年生の俺がタメ口を聞いても全く怒らなかった。後輩としてじゃなく大野伊織として扱ってくれているようで、俺はうれしかった。だから、あゆむくんとケンちゃんがやることなら絶対正しいという妙な自信が俺にはあった。あゆむくんとケンちゃんは、俺を仲間に引っ張り込んで、なにか楽しいことをしようとしていた。それが、スノースタンドだ。
初めてあゆむくんの歌声を聞いた時、なんだこれ! と思った。鼻にかかるような甘ったるい声で、あゆむくんは恋の歌を唄った。ぞわり、と鳥肌が立った。涙が出そうで出ない、ギリギリの気持ちが身体中にうわっとひろがって、胸が、胃が、じんわりと熱くなった。俺はその瞬間、あゆむくんに一生ついていこうと決めたのだ。
あゆむくんの作る歌を聴くと、いつも十代の頃のことを思い出す。あゆむくんがその甘ったるい声に乗せて紡ぐ言葉たちは、キラキラしていて、色にたとえるなら青色だ。練習スペースに借りていたカラオケラウンジへ向かう途中に見上げた空のイメージ。暑くても寒くても、雨が降っていても、いつも三人で自転車を立ち漕ぎして上った坂道と、その上にいつもあった、くるくると表情を変える空のように、抱えきれないくらいの悩みがあったあの頃は、それでも、いつも楽しかった。
年齢を重ねてみると、十代の頃、真剣に悩んでいたことなんて全然たいしたことがないように感じる。どうしてあんなことで悩んでいたのか、過去の自分が馬鹿みたいに思える。そういう時、これが大人になるってことか、と錯覚する。
どっちに進むかなんてとっくに決めたはずで、その方向へ進んでいるはずで、それはきっと楽しいはずで、だけど時々襲ってくる、空っぽな気持ちに怯えることがある。
やりたいことはいっぱいあって、楽しいこともいっぱいあって、でもそれでも睡眠欲に勝てなかったりする。ずっと寝ていたいと思う。そんな時、身体が邪魔だなあ、なんて思ってしまう。だけど、この身体がないと、俺はベースを弾くこともできないのだ。
手を伸ばしてみる。その手はテレビの液晶画面に当たって、薄っぺらいそれを少し揺らしただけだった。
届きそうで届かない。スタンドマイクに噛みつかんばかりにして、ギターをガシガシやりながら目を剥いて唄うあの人に、届きそうで届かない。
銀色のディスクに焼かれたその映像を、何度も何度も観返して、そんな確認作業に入ってしまう。これだから深夜はよくない。もうそろそろ寝ようかと思うけれど、眠ってしまうと、また明日起きられないんじゃないかと思う。寝坊して遅刻をすると、あゆむくんに怒られる。俺が悪いのだから、怒られるのは当たり前なのだけど、怒られるたびに、自分はまだまだ子どもなのかもしれない、なんて思う。だけど、怒られることにとっくに慣れてしまった俺は、もう、きっと子どもではないのだろう。
スノースタンドは、この十一年でかなり大きくなったように思う。俺たちが、というわけじゃなくて、俺たちの周りの何かが。おかげで、そこそこ忙しい。そこそこ、というのは地上波のテレビ番組には今のところ出演していないからだ。なので、俺たちの名前は知っていても顔はよく知らないという人は多いんじゃないかと思う。他にも、プロモーションビデオには顔を出しているけれど、CDのジャケットには顔を出していない。そういうことの基準は、よくわからない。だけど、金銭の絡むことなのだろうということは、なんとなくわかってしまうくらいには、俺はもう大人になっていた。もしかしたら、あゆむくんの顔立ちが、バンドのフロントマンにしては少し地味だということもあるのかもしれない。あゆむくんの顔は確かに派手じゃないし、美形というわけでもないけれど、でも笑うとかわいいのに。あゆむくんは、だらしなく笑う。ふにゃっと顔の筋肉全体をだらしなくゆるませて、とろけそうに笑う。それがかわいい。
今、忙しいことがうれしい。忙しいことがありがたい。だから、望まれることはなんでもしたいのに、何もかもがめんどうくさいと感じることもある。自分をコントロールできていない。
あゆむくんだってそうだ。このところ、あゆむくんの情緒はあからさまに不安定だ。唄っている時以外は、妙にイライラしているし、俺にくっついてきたかと思えば遠ざけたりもする。笑っていたかと思うと急に怒って、怒っていたかと思うと笑い出したり、ふとした瞬間に急に真顔になったりする。だけど、絶対に泣いたりはしない。怒るか笑うか、感情を消すか。
今観ている、このライブツアーの時も、あゆむくんは変だった。
大阪から名古屋への移動途中だった。ワゴンの後部座席でうとうとしていたら、左の指先になにかがふれた。小指の爪の上に、トンと置かれたみたいにふれる、生暖かいもの。
なにこれ。なんだ。なんかこわいな。
うまく働かない頭で、俺はぼんやりと考えていた。
ああ、なんだ。これ、ヒトの指だ。隣にいるのはあゆむくんだから、あゆむくんの指だ。なにかの拍子にくっついてしまったのだろう。そう思って、俺は少し手の位置をずらして、そっと指を離す。そうすると、また小指の爪の上に、トンと、なにかがふれる。心臓が、いやな感じで跳ねた。
なにこれ、こわい。
重いまぶたを上げて確かめる。ヒトの指ならいいけれど、なにかちがうものだったらいやだ。こわい。
俺の左手の小指の上に、あゆむくんの右手の小指が乗っかっている。やっぱり指か。変なものじゃなくてよかった、と俺は胸を撫で下ろした。そっとあゆむくんの顔を盗み見ると、目を閉じていた。眠っているみたいだった。
俺は、また手の位置をずらす。そうすると、追いかけるみたいにあゆむくんの小指が俺の小指の爪の上に乗った。
これはこれで、なんかこわい。
本当に寝てんのかな。寝てるふりして、俺で遊んでない?
そう思って、また確かめるようにその顔に視線をやれば、真顔のあゆむくんと目が合った。あゆむくんは表情を変えずに、すい、と視線を窓の外に泳がせて、自分の小指を俺の小指に絡ませてきた。勝手に指切りげんまんされているみたいな感じだ。
なんだ、これ。なにがしたいの。わけわかんない。
変なふうに焦ってしまい、だけどもう考えるのがめんどうくさくなって、俺はそのまま目を閉じたのだ。
そんなふうに、あゆむくんの情緒はだいたいいつも不安定なのだけど、でもあゆむくんは、本当は誰よりも大人なんじゃないかとも思ってしまう。我が儘だって言うし、譲らないこともあるけれど、それは、そうしていい場面だけで、受け入れなければいけない場面では、真顔で受け入れて、前髪に隠れた目を見せようとしない。折り合いのつかない気持ちに折り合いをつけて、それでいいって笑ってみせるけれど、納得しているのかしていないのか、周囲には全く気取らせない。そういうところで、あゆむくんとケンちゃんは、よく似ている。
いつも冷静で表情を変えないケンちゃんは、あゆむくんに負けず劣らず、何を考えているのかよくわからない。よくわからないのは同じだけど、ケンちゃんはいつも冷静で落ち着いていて、あゆむくんみたいに不安定になったりはしないので、俺はケンちゃんの存在自体に安心感を抱いている。
「あゆむくんのことがよくわからない」
一度、ケンちゃんにそう言ったことがある。ケンちゃんは、うーん、と唸って、
「大人みたいな子どもだからな、あいつは」
と言った。
「時々、不安になったり寂しくなったりするんじゃないの。よくわかんないけど」
幼なじみのケンちゃんにもよくわからないのか、と俺は少し安心した。あゆむくんのことをよくわかっていないのが、俺だけじゃなくてよかった。
唄っている時のあゆむくんは、無敵だ。少なくとも、俺にはそう見える。それなのに、唄っていない時のあゆむくんは、どうしてああも不安定なのだろう。
あゆむくんは、繊細で頑丈で、脆くて強い。だから、そういう複雑な構造のあゆむくんが考えていることは、俺にはよくわからない。
わけがわからないから、手を伸ばそうと思った。届くといいな、と思った。届くかどうかなんて、わからないけれど。
ぞわり、と鳥肌が立つ。涙が出そうで出ない、ギリギリの気持ちが昂る。胸が、胃が、じんわりと熱くなる。そんな音楽を、あゆむくんは作ろうとしている。ケンちゃんも、俺も。
いつまでも子どもでいたいと思っていた。だけど、いつまでも子どもでなんていられない。愛想笑いだってするし、嘘だって吐く。適度にサボったり、手を抜いたりもする。建前と本音を、器用に使い分けるようになる。そうやって、いろんなことに折り合いを付けながら、俺たちは本気の音を鳴らす。
折り合いなんてつけなくてよくなるようなところまで、早く行きたい。だから、いまも手を伸ばして、そっちに向かって走っているのに。
一際大きな歓声と共に、画面の中の俺たちのライブは終わる。あゆむくんは笑って、「ありがとう」と言って手を振っていた。長い前髪が汗で額に貼り付いて、濃い眉毛が丸見えになっている。
あの眉毛、結構好きだな。そう思いながら、俺はリモコンの停止ボタンを押す。そして、あゆむくんの番号を呼び出し、通信音を発する携帯を耳にあてた。
3.宮田歩
借りてきた映画のエンドロールを、ティッシュを片手に余韻に浸りながらぼんやりと眺めていた、深夜。テーブルの上の携帯が明るい光を発し、ゴリゴリと音をたてながら震え始めた。
こんな深夜に誰だ、と見ると、大野だった。
画面をタップし、しまった、鼻をかんでから出ればよかった、と思ったけれど、もう遅い。
「もしもし」
大野のゆっるい声が鼓膜をくすぐる。
「うん、どうした?」
鼻をすすりながら返事をすると、
「あゆむくん? あれっ? 泣いてる?」
ゆるゆるだった声が、ぎょっとしたような敏感な声色に変わる。
「ああ、うん、まあ。今ちょっと映画観てて」
一発で泣いていたことを言い当てられて、なんだか気まずい。
「あ、なんだ。映画か。よかった」
今度は、あからさまに安心したような大野の声に、おれは思わず笑ってしまう。不思議なことに、こういうふうに声だけだと、おれの大野に対するイライラは発生しないようだった。顔を見るからだめなのか。大野の顔が、おれは嫌いなのか。そう考えるけれど、大野の顔を、おれは別に嫌いではない。大野を前にすると発生する、あの妙な感情は一体なんなのか。そんなことを考えながら、おれは大野の次の言葉を待つ。
「あゆむくんて、泣かないもんだと思ってたから。びっくりした」
大野にそう言われ、幼かった頃の自分を思い出した。大人は泣かないものだと思っていた。特に、両親は。だけど、父が病気で死んだとき、泣いている母を見て、おれはその認識が間違っていることに初めて気が付いたのだ。お母さんは、泣かないものだと思っていた。それなのに、お母さんだって泣くということを知った時、おれの中の確固たる安心感を持ったなにかが、ぼろりと崩れた。大野が言ったのは、それに近い。おれだって、泣くこともある。大野は、泣かないと思っていたおれに、なにを感じていたのだろう。
「なんか用?」
大野がメール以外で、こうして連絡してくるということ自体が珍しいので、なにか用事があるのだろうと思って尋ねると、
「ううん。別に用はなくて。ちょっと声聞きたくなって」
意外な答えが返ってきた。
「なにそれ」
驚いたような声を発してしまう。
「うん。なんだろうね」
そう言ったきり、大野が黙ってしまったので、おれも黙る。床の上、片手で膝を抱えて、全神経を耳に集中させる。
「ちょっとね」
大野が、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと、大丈夫って言って」
「え、なんで」
「いいから」
大野はまた、黙ってしまった。
「だいじょうぶ」
言われたとおりに、おれは言う。棒読みもいいとこだ。
「もっかい」
幼げな口調で大野は言う。甘えているのだろうか、と、ふと思う。大野は図体はでかいくせに、妙に子どもっぽいところがある。おれや健太に、親にそうするように甘えてくるようなところが、昔から時々あった。
「だいじょうぶ、だいじょーぶ。大丈夫だよ、いーくん」
おれは、大野の望む言葉を何度も言ってやる。変なイライラのせいで、普段なかなか優しく接してやれないけれど、おれは決して大野が嫌いなわけじゃないのだ。大野のために、このくらいのことはしてやれる。電話の向こうで、大野が微かに笑ったような気がした。
「ああ、なんか。うわ、いーくんって久しぶりに呼ばれた」
そう言われて、無意識に出た昔の呼び方が、急に気恥ずかしくなり、
「ねえ、本当どうしたの、大野」
ごまかすように、そう言った。
「ちょっと、深夜だから、不安だったり寂しかったりしたから」
大野は、整っていない日本語でわけのわからないことを言って、
「でも、ありがとう。あゆむくんの声聞いてると、元気出た」
そして、
「あゆむくんてさ、俺に優しくしようとする時、いーくんって呼ぶよね」
そう言ったかと思うと、おれの返事も聞かずに、あっさりと通話を切ってしまった。もうおれは用無しらしい。
大野に優しくしようとする時?
おれは、大野の言葉を脳内で反芻する。
なんだそれ、なんだそれ、なんだそれ。なんであいつは、こういう時だけは察しがいいんだ。
急激に顔面に熱が集まり、さわると、じゅっと音がしそうなくらいに熱くなってしまう。
なんだ、それ。
頭がくらくらして、胸の内はもやもやしてしていた。
昨夜は大野のせいで眠れず、頭が重い。おれが子どもだったら、頭が痛いと言って学校を休んでいるレベルだ。寝不足のままに打ち合わせのために事務所へ向かう途中、コンビニに立ち寄ると、おれの不調の原因、大野と遭遇した。
「あれ。今日、遅刻じゃないじゃん。めっずらし」
おれが言うと、大野は顔をくしゃっとさせて笑いながら、
「寝たら起きられないから、ずっと起きてた」
と馬鹿丸出しなことを言った。
「馬鹿じゃないの」
そのまま感想を言うと、うへへ、とまた笑う。
カゴに、漫画雑誌と、健太の好きなガムを放り込む。大野が、なにも言わずにおれの持っているカゴにラムネ菓子を入れた。
「なにしてんの」
「レジ、一回のほうがいいでしょ」
大野は何食わぬ顔で言う。
「ちゃんと、あとで金払えよ」
「そんくらい買ってくれてもいいじゃない」
そう言って、大野はおれの頭に手を置いた。途端に息苦しさを覚える。これ、なんかやだ。身長差をいやでも感じさせられる。
その瞬間、ふっと昔のことが頭をよぎった。そんな昔じゃないような気がしていたけれど、改めて年数を数えたら結構昔だ。必死になっている間に、年月は過ぎている。
おれたちはまだ高校生で、おれと大野は、地元の駅のところのスーパーで、駄菓子を選んでいた。他にも誰かいたような気がするのだけど、よく覚えていない。でも、きっと健太はいたはずだ。覚えていないけど。
誰かの家に遊びに行く途中だったとか、たぶんそんな感じだった。練習しようとか、そういう感じではなかった。だらっとした空気の、明るく晴れた午後。大野はラムネを、おれの持っているカゴへ入れた。自分がなにをカゴに入れたかなんて、全く覚えていないのに、大野が入れたものは覚えている。
「あゆむくん、これ買って」
そう言いながら、大野は実に自然にカゴの中にラムネを落としこんだのだ。その時も、否を唱えたおれの頭に、大野はぽすんと手を置いて、
「そんくらい、いいじゃん。あゆむくん、先輩でしょ」
そう言って、にかっと笑ったのだ。都合のいいときだけ先輩扱いしてくる大野に、悪態を吐きながら、結局ラムネを買ってやった。
大野は変わっていない。そのことを確認する。だけど、おれは違う。頭に大野の手が乗っているだけで変なふうに脈が乱れるなんてことは、あの頃はなかったはずだ。おれだけが、なんだか変わってしまった。
変だ。
今の自分に対する的確な表現はそれだと思う。おれは、ずっと変だ。
頭に置かれた大野の手を振り払い、おれはレジカウンターにカゴを置いた。
大野にさわられると苦しくなる。そんなふうになってしまったのはいつの頃からだろう。
まだインディーズでやっていた頃は、ツアー中に泊まる宿は例外なく安宿で、狭い部屋に三人押し込められることは珍しくなかった。男三人に、ベッドが二つしかないという、しょっぱいことも時々あった。じゃんけんをするか、前はおまえひとりで寝たんだから今回は我慢しろとか、そういう感じで寝床は決めていた。
その頃からだったのかもしれない。大野に対して、おれがおかしくなったのは。
健太と同じ布団に入ってもなんともないのに、大野と同じ布団だと、妙にそわそわして苦しくなって、眠りが浅くなったものだった。雑魚寝なら平気なのに、同じ布団にきっちりとふたり押し込められると、眠れなくなる。大野がのんきに寝息を立てているのを聞きながら、おれは密着した大野の背中からその体温を感じ取り、じっと固まって夜を過ごした。
そんなふうなのに、おれは時折、無性に大野に触れたくなるのだ。大野の体温を感じて、大野の存在を確かめたくなる。
しかし、おれが大野に触れるのと、大野がおれに触れるのとは完全に別物だ。
だから、大野には予告なしにさわってほしくない。そう思っているのに、現在、おれの肩には大野の手が乗っかっている。その視線はおれではなく、おれの目の前の食品サンプルに注がれていた。スパゲティ・ナポリタン。
「浮かぶフォーク」
ガラス越しに見て、大野は言う。おれの神経は耳よりも肩に集中していた。大野の手の温度を確かめて記憶でもしておくつもりなのかというくらいに、とんでもなく敏感になっている。
「いつ見てもシュールだよね、これ」
おれは、大野の言葉には答えず、息苦しさを感じながら肩に乗っかった大野の手を乱暴に払う。そうされた大野は、きょとんとおれを見る。
「あゆむくん」
大野がおれの名前を呼んだ。文句でも言われるのだろうかと身構えていたら、
「なに食べようね」
ときた。
「んー」
おれは曖昧に、返事にならない返事をする。
「あゆむくん」
大野が、またおれを呼ぶ。
「うん」
おれは返事をする。
「ごめんね」
唐突に言われ、
「や、べつに」
小さく首を振ると、
「うん」
笑い出しそうな顔で、大野は言う。
「うん」
大野はもう一度うなずくと、
「なに食べようね」
と、また言った。
「んー」
おれはやっぱり、曖昧な返事をする。心臓の音だけがうるさくて、腹は減っているはずなのに食欲を感じない。自分が何を食べたいのか、わからない。
打ち合わせが終わり、大野が、「あゆむくん、ごはん食べに行こう」と言ったのは、健太がソファが届くからとかなんとか言って、いそいそと帰ってしまった後だった。ちょうど昼時だったし、断る理由もない。おれは大野と並んで街を歩いてここまできた。駅の地下の食堂街だ。
食品サンプルのガラスケースに映った、手を繋いで歩く若い男女に気付き、そして、同じくガラスケースに映るただ横に並んでいる自分たちの姿を見て、おれと大野はああいうふうにはできないな、と思う。思ってしまってから、その思考のぶっ飛び加減に気付き、眩暈がした。これでは、おれが大野と手を繋ぎたいみたいじゃないか。
まるで。まるで?
その言葉の先を考えまいとしても、どうしても浮かんでしまった言葉は、おれを絶望させると同時に納得もさせ、妙に落ち着かせてしまった。
なんだ。わかってみれば簡単だ。理解できなかったから、不安定だったのだ。
「ナポリタン食べる」
おれは言う。
店に入ると、レジ横の台にチラシが置いてある。見ると、プラネタリウムの上映案内だった。
「見て、これ」
ここ数年の自分が変だった理由がわかり、幾分か余裕を取り戻したおれは、その一枚を取って大野に見せた。
「あ。俺これ、こないだ行った」
席に通され、座りながら大野は言う。
「まじで。おまえ、星とか興味あったっけ?」
チラシをテーブルの真ん中に置き、おれも大野の向かいに座る。
「あるある。俺、ロマンチストだし」
大野は適当なことを言う。
メニューを受け取り、注文を済ませると、おれはまたチラシに目を戻す。そこには、夏の大三角の成り立ちを神話に基づいて説明した小話が書かれていた。なんとなく興味がわいてきたので、
「どうだった? よかった?」
と尋ねると、
「うん。結構よかった」
大野はこくこくとうなずきながら、言った。
「あのね、もう超癒された。椅子が座り心地よくて、ナレーションも絶妙でね。しかも仄暗いもんだから、もうぐっすり眠れて」
「だめじゃん」
おれのツッコミに、大野は顔を大きな目を細めて笑う。
大野は普通なのにな、と思う。おれに対して、大野は無邪気すぎるほどにずっと普通だった。おれだけが変だった。だから、おれさえ普通にできれば、ちゃんとうまくいくと思う。もう、理由はわかったんだし、開き直ろうと思えば、開き直ることもできる。
まるで、恋みたい。
先刻浮かんだその言葉を、おれは少しだけ訂正する。
これは、恋だ。
自分が同性に恋をするわけがないと思い込んでいた。だから、こんなにも長い間、気が付かなかった。自分がこんなにもまじりけのない透明な恋心を抱えていたなんて、今の今まで知らなかった。だからといって、この年になってこんなことを知ったって、もうどうしようもない。
絶望はずっと、こんなにも近くにあって、おれのことをとっくに絡め取っていた。
「食べたら行こうかな、俺」
大野が言う。
「プラネタリウム?」
「うん。あゆむくんもどう?」
そう提案されて、デートみたいだと思ってしまった自分に呆れながら、
「行く」
と答えてしまっていた。
「昨日眠れなくて、眠いし」
「あゆむくん、寝に行くの?」
「うん」
「だめじゃん」
大野が、さっきのおれと同じことを言って笑う。それを見て、愛しいと思ってしまう。
これは、恋だ。
4.大野伊織
あゆむくんのほっぺたに、まつ毛が落ちているのを見つけて、取ってあげようとしたら怒られた。自分がなんで怒られたのかわからなくて、きょとんと見返してしまう。
「急にさわんなって、もう」
そう言われても困る。俺は無言であゆむくんのほっぺたを見る。まだ、まつ毛がそこにくっついている。気になる。
「右のほっぺ、まつ毛ついてるよ」
言葉に出してみて、最初からこう言っていればよかったと思う。取ってあげようとしたのが、そもそも間違いだったのだ。
「どこ、このへん?」
「もうちょい上」
「えー、わかんないわ。取って」
あゆむくんは言う。結局、俺が取るのかよ、などと心の中でツッコミながら、俺はあゆむくんのほっぺに触れる。今度は怒られなかった。
ほっぺのまつ毛を指で払い落とし、そのままするすると指を移動させて、唇にふれてみる。自分でも、どうしてそうしてしまったのかよくわからない。
親指で、下唇をふにっと押すと、あゆむくんは真顔で俺を見た。
「なにしてんの」
そう言われても、自分でもなにをしているのかわかっていないのだから、答えようがない。だから、じっとそのままでいたら、親指をがぶりとやられた。
「痛い」
呟くと、
「だろうね」
あゆむくんはにやりと笑う。
ここ最近のあゆむくんは、以前にくらべて安定していると思う。なにかいいことでもあったのかと思って尋ねると、
「一回、絶望しただけ」
わけのわからない返事を返された。いいことじゃなくて、いやなことがあったのだろうか。
さらに、あゆむくんは、よく俺を飲みに誘ってくれるようになった。ケンちゃんと三人でっていうのじゃなくて、俺とあゆむくんとふたりでお酒を飲む。そういうことは、これまで全くなかったので、俺はうれしい。デートみたいだ、と少し思う。だけど、これはデートじゃない。お酒を飲んで、手を繋いでどちらかの家に行ってセックスをするなんてことを俺たちはしないし、きっとできない。こういうことを考える時、今のままで何が不満なのか、と自分に腹が立つ。あゆむくんのそばにいられるこの立場に、なんの不足があるのだろう。それに、あゆむくんとセックスなんて、今さらのような気もして、なんだか想像もできない。
あゆむくんの後頭部は、ちょっといい。
アルコールで、へらへらとだらしなく弛緩した顔もいいけれど、後頭部も好きだ。
ブラウンとオレンジの間みたいな色の薄暗いカフェバーで、青いチェックのシャツと、明るい色の髪の毛がゆらゆら揺れている。
現実味の薄い、たるーんとした声で、あゆむくんはなにかをしきりにしゃべっている。アルコールが入っている時のそれは、だいたいがどうでもいいことだったりするので、俺は惰性的にうなずくだけで、話を聞いたり聞いていなかったりする。あゆむくんは、俺のその態度が気に入らないらしく、少しだけ怒気を孕んだ口調で、
「ちょっと、おい、聞いてんの?」
などと言うので、
「聞いてるよー」
俺はけろりと嘘を吐く。そうしたら、
「なんで、すぐばれる嘘吐くの」
と言われる。表情こそ弛緩しているけれど、いつも結構見透かされている。
「なんで、ばれるんだろう」
俺が言うと、あゆむくんは、むふっと鼻を鳴らして笑った。
「なんで、ばれないと思ってんの、いーくんは」
そう言われ、
「えー」
俺は思わず不満の声を漏らす。あゆむくんは、もう一度、むふっと笑って、メニューカードを手に取る。
「すみませーん。コロナふたつー」
上半身を後ろに捻って、カウンターの奥の店員さんに声をかけているその後頭部は、やっぱりちょっといい。
「それ、ひとつは俺のぶん?」
「うん」
こちらを見て、弛緩した表情で笑いながら小さく頷いたあゆむくんを、俺はかわいいと思う。この、「あゆむくんをかわいいと思う」気持ちは、もしかしたら不自然なことなのかもしれないということに、俺は結構早い段階で気付いていた。
だけど、あゆむくんは、かわいいのだ。どうしても、かわいい。表情だとか仕草だとかが、俺の心臓をぴりぴりと甘く痺れさせる。
高校生の頃、
「あゆむくんて、かわいいよね」
ケンちゃんにそう同意を求めたら、
「え、なんで?」
と驚かれてしまったことがある。客観的に見てそうだと思っていたことが、実はただの主観でしかなかった時、俺は悟った。だから、それ以来、あゆむくんがかわいいということは、冗談ぽく聞こえる場面でしか口にしないようにしている。
ある一定の時期から、あゆむくんは片想いみたいな歌ばかり作るようになっていて、俺はそれを聞いたり弾いたりするたびに、あゆむくんは誰かに片想いをしているのだろうか、ともやもやしたものだった。
「新しいの書いた、どんなか見て」
スタジオで歌詞とコードが書かれた用紙を渡された時、
「あゆむくん、恋の歌ばっかり作るね」
そう言ってみると、あゆむくんは、
「え、そうだっけ」
と、わしゃわしゃと頭をかいて、鞄の中からリリックノートを取り出してパラパラと捲り、「あれ」と声を上げた。
「本当だ。なんでだろ」
自分でも気付いていなかったみたいで、あゆむくんは不思議そうにしていた。
「でも、出るもんは出しとかないとなあ」
あゆむくんはデトックスみたいにそう言って、たまに違う感じの歌詞を挟みつつ、それからも片想いみたいな歌を作り続けた。
だけど、最近は、言葉が未来に向かっている明るい歌が多い。あゆむくんの安定と絶望と、それがどう関係しているのかはわからないけれど、俺は、あゆむくんが何かから解放されたようだということを、単純によろこぶことにした。あゆむくんのデトックスは終わったらしい。
「明日のスタジオ、遅刻すんなよ」
帰り際、俺の鼻先に人差し指を向け、アルコールの回った声であゆむくんは言った。だったら、飲みになんて連れ出さなきゃいいのに、と一瞬思うけれど、それはそれで寂しいので俺は、
「努力する」
とだけ言った。
5.宮田歩
スタジオの扉を開けると、腹の底に響くような重低音がブンブンと聴こえてくる。大野のベースの音だ。
あ、えらい。ちゃんと遅刻せずに来てんだ。そう思いながら、おれは黙って準備をする。
ギターのチューニングもそこそこに、おれはその音に乗せて、自分の音を鳴らす。やっぱり少し音がズレていたけれど、気にしない。でたらめな言葉を歌にして、そのまま音に乗せる。
扉が開いた気配がして、少しすると、ドラムの音が加わった。
リズムが繋がって、絡まって、ひとつのかたまりになる。その感覚を、どこか浮環で感じている自分がいた。
変なの、と思う。会話なんてしていないのに、まるで会話をしているみたいだ。
この空気を壊したくなくて、おれは、ギターをガシガシやって、でたらめな歌をうたい続けた。
音はずっとズレている。リズムも時々狂う。それでも気にしない。気にならない。ずっとズレている三人が、ずっとズレたまま、それでもいっしょにいるこの状況が、おれはきっと好きなのだろう。
横目で大野を見ると、大きな目を細めて、大きな口をかぱっと開けて、楽しそうに笑っていた。それは、きっと無意識に底の方からくる笑いで、大野も、おれと同じように感じていればいいな、と思う。それぞれ別の個体なのだから、同じようになんて到底無理な話ではあるのだけど、そうだといいな、と思うことはわるいことではないはずだ。
上半身を捻って、後ろの健太の顔を見る。相変わらず無表情だったけれど、それは笑顔寄りの無表情だ、と自分の中だけで納得した。
三人三様、それぞれ好き勝手なことをやって、それが偶然同じことだったらいい。そういうのが、いちばんいい。
愛だの恋だの身体だの絡めなくても、おれたちは、ちゃんとひとつになることができる。
あのあと、通常通りの練習をして、三人でスタジオを出たところで、大野に言われた。
「あゆむくん、笑ってたね」
「うん」
おれは短く返事をする。
「おまえも笑ってたじゃん」
「うん」
大野も短く返事をして、言った。
「ケンちゃん、笑ってた」
「笑ってないよ」
健太が言う。そう言った顔は笑っているので説得力がない。
「え、笑ってんじゃん、おまえ」
おれが言うと、
「だよね」
笑う大野の口調はゆるい。
そのまま三人でランチを食べに行くことにし、ついでに新曲の打ち合わせもしよう、ということになった。大手飲料メーカーからCMに使用する楽曲のオファーがきているのだ。
広い襟刳りのティーシャツから覗いた、大野の鎖骨が目に入った時だ。
「うわあ」
妙な声が出てしまい、おれは表情を殺して口を噤む。まるいテーブルを中心に、横に座る健太が眠たそうな目でチラリとこちらを見て、すぐになんでもないような顔をしてグラスの水を飲む。
ランチミーティング中。ランチミーティングという言葉は、男三人にはそぐわないような気がする。大野に至っては、そんな単語すら知らないかもしれない。
「こちら、お下げしてよろしいですか」
「あ、はい。お願いします」
かわいい女の子の店員さんが、おれたちのテーブルの皿をてきぱきと片付けてくれる。
彼女の後姿を見送ったあと、
「B」
大野がぼそりと言った。
「Cでしょ」
健太が続けて言う。
「えー、そっかなー。ケンちゃん、願望入ってるよ」
大野が笑いながら健太をつつく。そこでようやく、ああ、胸のことか、と気づいた。さっきのかわいい店員さんの胸のサイズを目算したのだ。おまえら中学生か、と呆れながらも、健太のCに心の中で賛同する。
頭の隅っこに、さっき見た大野の鎖骨がチラついた。大野の胸元に自然と視線が行ってしまう。薄っぺらい胸は、包容力のかけらもなさそうだ。
「A以下、だな」
思わず呟くと、
「もっとあるよ!」
大野は拳を握って反論してきた。いや、あの店員さんのことじゃないよ。おまえのことだよ。
「噛み合ってない」
健太がおれの横で噴き出した。おれもつられて笑ってしまう。
大野だけが中途半端な笑みを浮かべて、
「え? え?」
と、間抜け面でおれたちを交互に見ている。
「どういうイメージか聞いてんの?」
健太のその一言で、さっきの会話は置き去りになり、打ち合わせが始まった。
夢を見た。
おれは、なぜか大野と手を繋いで、夜の街を歩いていた。街といっても、なんだか現代っぽくない純和風の街だ。京都の花見小路とか、あの辺りに近いかも。石畳の路と、ぼんやりとした街灯が、なんだか逆に日本じゃないみたいだった。
ただ、手を繋いでたらたら歩いて、目についた居酒屋みたいな店に入ってビールを飲んだ。
いくら飲んでも酔っぱらわなくて、むしろ最初から酔っぱらっていたような気がする。
大野が注文したカレー味の肉じゃががテーブルに届いて、おいしそう、でもこれもうカレーなんじゃないの、などと言い合っていたら目が覚めた。
家に帰ったのは夕方だった。いつの間にかソファで眠ってしまっていたらしい。
しばらくぼんやりと天井を眺めていると、お腹が鳴った。
「ビール飲みたい」
呟いてみる。おれは手探りでローテーブルの携帯を掴み、大野に電話をかける。
「もしもし」
大野のゆるい声がした。
「いま何時?」
尋ねると、
「え、なんで?」
と言いながらも、
「二十二時すぎ、くらい」
と答えてくれる。
「ごはん行こうよ。おれ、ビール飲みたい」
そう言うと、
「俺、もう食べちゃったよ」
と返ってきた。
「えー、まじでー」
残念に思いながら、ベッドの上でごろりと寝返りを打つ。
「でも、いいや。俺、あゆむくんが食べてるとこお酒飲みながら見てるから。ごはん行こう」
大野はそう言って、
「なに食べる?」
と聞いてきた。おれは酒のつまみかよ、と笑いが込み上げてくる。
「カレーか肉じゃが食べたい」
「どっち?」
「大野、どっちがいい?」
「どっちでもいいよ。俺、食べないもん」
「じゃあ、おれもどっちでもいい。ビール飲みたい」
おれと大野は、手を繋いで歩いたりなんかしないけど、だけど、ビールくらいはいっしょに飲める。それでいいじゃないか。
おれは、白い泡と黄金色のしゅわしゅわを思い浮かべながら、急いで身支度をする。
6.大野伊織
ビールを飲んで、肉じゃがを食べて、あゆむくんは幸せそうな顔をしている。本当に、ここ最近は憑き物が落ちたようにあゆむくんからはカリカリした空気が消えた。
「カレー味の肉じゃががあればよかったのにな」
ぽつりと言ったあゆむくんに、思わず笑ってしまう。
「なに言ってんの。それ、もうカレーじゃん」
俺の言葉に、あゆむくんは、ははは、と声を上げて笑った。楽しそうでうれしくなる。
俺も少し肉じゃがをもらって、ビールを飲んだ。店を出て、そのまま別れるのがなんだか名残惜しくて、
「今から、あゆむくんち行っていい?」
俺はそんな大胆なことを口にしていた。冷静になれば、大胆でもなんでもない、男同士で普通にするような会話だと思うのだけど、俺には、あゆむくんをかわいいと思っているという負い目があるので、その行為がとても後ろめたいことのように思えた。
「あー、うん。いいけど」
戸惑ったように、あゆむくんは言った。
「なんか、映画でも借りてく?」
そう言われて、前に電話をかけた時、映画を観て泣いていたというあゆむくんの声を思い出した。あゆむくんも泣くんだ、と驚いた。あゆむくんは、泣かないものだと思っていた。単純に、俺があゆむくんが泣いているところを見たことがなかったからだ。
「感動するやつ借りよう」
俺はそう答えた。
見たい、と思った。あゆむくんが泣いているところを見たい。
あゆむくんの部屋は小ざっぱりとしていたけれど、少し乱雑だった。
「ここ越してから、家に来るの初めてじゃない?」
あゆむくんは言って、途中のコンビニで買ってきたレモンサワーを俺に差し出した。
「うん」
俺は頷く。そわそわと落ち着かないままにソファに座らせてもらい、ディスクをハードにセットするあゆむくんのまるい背中を見ていた。
映画が終わって、エンドロールが流れる。俺の期待通り、あゆむくんはすんすんと洟をすすりながら泣いた。初めて見る泣き顔に俺は興奮してしまい、もっとよく見ようと、あゆむくんの顔を覗き込むようにしてしまう。
「なんだ、おまえ」
ティッシュで涙と鼻水を拭いながらあゆむくんは抗議の声を上げた。
「いや。泣いてるとこ、初めて見たから」
あゆむくんは眉間に、きゅっとしわを寄せ、わけがわからない、という表情をした。
覗き込むようにしていた体勢を戻し、俺はソファの背もたれに体重を預ける。
さっきまで泣いていたあゆむくんが、俺の横にいる。ひとつのソファにとなり同士で座っている。
「俺は、あゆむくんの味方だよ」
ふと言っていた。
「あゆむくんのこと、実は未だによくわかってないんだけど、でも、味方でいたいと思う」
「なにそれ」
あゆむくんが言う。
「これ、理屈じゃなくてね。気持ちの問題なんだけど」
考えながら、俺は続ける。
「あゆむくん、なんかずっとカリカリしてたけど、今はすっきりしてるでしょ。なにがあって、どうやって抜けたのかわからないけど、あゆむくんがどんなあゆむくんでも、俺は一生そばにいるからね」
「なにそれ」
あゆむくんは笑った。
「なにそれ、おまえ。口説いてんの?」
おかしそうに笑うあゆむくんが発したその言葉に、俺は我に返る。本当に、普通に口説いていた。
「そう、かも」
そう言って、隣のあゆむくんを見ると、
「へ」
あゆむくんは気の抜けたような返事をした。あゆむくんの膝の上にあった手を握ってみる。あゆむくんは固まってしまったように動かない。拒否られてはいないけれど、その表情は驚きを具現化したようなもので、拒否する以前に、事態を飲み込めていないということがわかる。
「ごめんね」
そう言って、俺はあゆむくんの手を離す。
「ごめん」
もう一度言う。
「帰るね」
俺は立ち上がり、あゆむくんの家を後にする。
「待て、大野」
エントランスを出て、しばらく歩いたところで呼ばれて振り返ると、あゆむくんだ。
「帰るって、おまえ、電車もうないだろ」
それで追いかけて来てくれたらしい。息を切らしているところを見ると、階段を使ったみたいだ。元気だなあ、と思う。
「タクシー拾うつもりだった」
俺が言うと、街灯の下のあゆむくんの顔は、わかりやすく赤くなった。
「あ、タクシー。タクシーね」
気まずげにぼそぼそと言って、それから、
「手を」
ぽつりと言った。
「おれは、おまえと手を繋いで歩きたかった」
予想外の言葉をもらってしまい、今度は俺が固まる。
「だけど、そういうのはできないだろ」
あゆむくんは言った。
「なにがあって、どうやって抜けたのかって、おまえ言ったろ」
「うん」
俺は頷く。
「なにもなかったんだ」
あゆむくんは少し笑った。
「最初から、なにもなかった。それなのに、ずっと優しくできなくてごめん」
「あ、うん」
俺は間抜けな返事をして、結局どういうことなのだろう、と考えていた。
「だからさ、おれんち戻ろ、いーくん」
そう言われて、あ、俺いま口説かれてたんだ、と気付いた。
深夜の人通りのない道を、俺とあゆむくんは並んで歩く。ぷらぷらと揺れるあゆむくんの手を取ると、するりと自然な動作で握り返してくれた。
手を繋いで、夜道を歩いてあゆむくんの家へ行く。これから、俺とあゆむくんがセックスをするのかどうかなんてわからないけれど、これはデートだなあ、と俺は思っていた。
これは、デートだ。
了
ありがとうございました。