世界一かっこいいきみへ
如月の冷たい空気を切り裂いて、全力疾走でグラウンドを駆け抜ける。これが最後の一本、苦しい時こそ最後のひと踏ん張り。己に負ける事が大嫌いな私は決して妥協なんかしない。
「よーし! 千葉ぁ、クールダウンして今日は上がりだ」
走り切った身体は鉛のように重く、両膝に手をついて呼吸を整える。身体からはお風呂上がりの様に湯気が立ち昇り、顔を伝う汗が鼻先から落ちて乾いた地面に吸い込まれる。
「はっ、はっ、……はい。お疲れ様でした」
顧問に一礼して女子陸上部の更衣室兼部室へと向かう。部室の前を通り掛かると、中から下級生二人の話し声が聞こえてきた。
「ねえねえ! 帰りにさぁ、駅前に今日と明日だけテナント出してるコティパ寄らない? そこのチョコレートがすっごく美味しいんだってぇ!」
「あ、行きたい行きたいー! てか、コティパって何? なんか聞いたことあるような名前だけど……」
「知らないの!? ベルギー王室御用達のザ・キングオブチョコのあのコティパよ!」
「う、うん。知識はあるのに肝心の名前がトンチキね……。まあいいや! 今の期間しか出店しないんだし行こ行こ!」
「うん! 明日彼氏に渡す分も買ーおうっと」
「妄想彼氏じゃチョコは食わん」
部室のドアが開く音に反応して振り返る二人。私の姿を認めると同時に今しがたの盛り上がりはどこへやら、気まずそうに二人は口を噤む。
「ねえ、何の話?」
私としてはなんの気なく訊いたつもりなのだが、二人の反応はまるで詰問されているかのようにたどたどしいものだった。
「あ、いや千葉先輩にはくだらない話ですよぉ」
「あの、お疲れ様で〜す」
作り笑いを浮かべ、挨拶も手早に二人はそそくさと帰って行く。その背を見送りながら、私は胸の内で小さくため息を吐いた。
バレンタイン……か。
制服に着替え帰路に着こうと思ったが、教室に忘れ物をした事を思い出し校舎の四階まで急いだ。いざ私のクラスである二年三組の前にたどり着くと。
「そうそう、なんか未来って話しかけづらいのよね〜。あんたたちとは住んでる世界が違うのよみたいなあの雰囲気」
「わかるわかる。見下されてる感が伝わるよね。ちょっと美人だからって鼻にかけてる感じ? 高飛車の鉄仮面女」
「きゃっはは、そのあだ名最高っ!」
ああ、またか。こんな陰口は日常茶飯事だ。私は臆すことなく教室に踏み入ると、案の定陰口を叩いていた二人はぎょっとして言葉を失った。
「あっ、そろそろ帰ろうか?」
「う、うん。じゃあね、未来。また明日ね」
この手のタイプは当人を目の前にしたら何も言えないこともわかっている。
ふん、そうやってこそこそやってるから見下されるのよ。言いたいことがあるなら堂々と正面から掛かってきなさい!
◇◆◇
「って! そう思わない!? ねえ、大河!」
「あ、あぁ、そうだね」
不満のはけ口はいつも幼なじみの大河の役目。夕暮れの河川敷をイライラしながら歩く私のすぐ後ろを大河が大人しく付いてくる。私より身長が十センチくらい低くて引っ込み思案で運動もからっきしの大河は私の弟分。
ピタと立ち止まり振り返ると、頬をポリポリと掻く大河を認め、ジロリと睨む。
「大河、あんた今弱ったなぁって思ったでしょ?」
「んな、お、思ってないよ!」
「弱ったなぁって思うと頬を掻く。幼稚園の頃からのあんたの癖よ。直しなさいって言ってるでしょ」
「う……」
「ねぇ、私ってそんなにツンケンしてて話しかけづらい人間かなぁ?」
黄昏時がそうさせるのか、私は少し感傷的になっているようだ。私だって別に皆と仲良くしたくないわけじゃない。だけど、何というのだろう……うまく言えないが、私の考え方が凝り固まっているのが原因なのか、一般的な同級生たちとどうも波長が合わないのだ。
「未来は誇りを大切にしてる人だから」
誇り? プライドが高いってこと? 大河のその言葉は私の心を尖らせた。先程教室で聞いた陰口が思い起こされる。
「なに? 私が高飛車だから皆とうまく付き合えないって、そう言いたいの? 高飛車な傲慢女だって、あんたもそう言うの!?」
ああ、またやってしまっている。自分でもわかるのだ。こういうところがいけない、こういう攻撃的な態度が受け入れられないのだと。それでも繰り出してしまった刃は今更しまう事はできなかった。
「違うよ。そうじゃない」
だけれど向けられた刃に大河は全く怯まなかった。
「未来は人を貶めたり詰ったり傷付けるような汚いことが嫌いな強い人だから。でも大抵の人は未来みたいに強くないんだよ。誰かと一緒に他人を悪く言って共感を得たいし自己を正当化したいんだ。だから……正直に言うと未来がそんな子たちと仲良くなるのは難しいと思う」
意外だった。大河がこんなにはっきりとものを言えることに驚いた。小学生の頃はいじめっ子にちょっかいをかけられては泣いていた。それを私が助けていじめっ子を成敗してたっけ。
中学に上がってもいつももじもじしていて教室の片隅で本を読んでばかりいた。
そして二人揃って地元の進学校に通うようになった今でも、大河のイメージはその頃のままだった。
適当な事を言ってはぐらかす事のほうが簡単だろう。現に私は大河に怒りの矛先を向けてしまった。
大河の真摯な答えが嬉しかった。誰も私と正面から向き合ってくれないと思っていたけど、ちゃんと向き合って真剣に考えてくれる存在が近くにいたのだ。
「ふーん、じゃあ私がぼっちで過ごすのは仕方がないってことね」
本当はありがとうと言いたいのに私は素直になることができず、代わりに出た言葉は不貞腐れ、ひねくれた言葉。
「そ、そういう事を言いたいわけじゃないんだ! えっと、誤解させるような言い方をしてごめん。僕が言いたいのは、未来がその未来らしさを失くしてしまったら未来じゃなくなる……あれ? 未来が未来を未来じゃ?」
パニックになる大河に思わず吹き出す。一生懸命にフォローの言葉を探しているけど、逆に自分が何を言っているのかわからなくなったようだ。
大丈夫。ちゃんと伝わってるよ、ありがとう、大河――。と、私も言えたらいいのだけどね。
「と、とにかく! 僕は未来のそういう誇り高くて気高いところをとても尊敬しているんだ」
ふと私は思い立った。そうだ。普段正直に言えないことを告白できる特別な日があるではないか。本来の用途とは違うかもしれないが、日常では伝えられない感謝の気持ちを贈るのも悪くないかもしれない。
「じゃあ、大河。私これから寄るところがあるから、またね」
「未来が未来を……え? あ、うん! また明日ね!」
◇◆◇◆◇
「いらっしゃいませー! コティパへようこそ」
え? あれ? 今コティパって言った? コティパは部室で聞いた後輩の言い間違いでは?
いやしかし、間違いなく綴りは『COTHIPA』である。ここはどうやら本当にコティパのようだ。
う、うーん。思ってたのと違うんだけど、今から別のお店に探しに行くのもちょっとと思う。それによく見ればとても可愛らしく美味しそうなチョコレートがショーケースの中に陳列されている。
別に大河がブランドにあーだこーだ言うわけもないし、まぁいいだろう。
バイトもしていなくてお財布事情が心許ない私は比較的小さめな六粒入りのアソート、ニ千円を購入した。まあ、こういうのは気持ちが大切だからね。
本命チョコ……とは違うけれども、改まって大河に渡す事を考えると気恥かしいような、それでいてどこかワクワクした気持ちが込み上げる。
ふふ、大河にチョコレート渡すのは小学生以来かしら。久しぶりに私からチョコ貰ったらどんな反応するかな?
可愛いその小箱を鞄に忍ばせ、明日を楽しみにすることにした。
◇◆◇◆◇
翌日。
いつ渡そうかと悩んだが、やはりどうせ渡すなら二人きりの時にしっかり感謝の気持ちを込めて渡したいと考え、部活終わりの放課後。通学路の河川敷が一番いいと結論付けた。
大河は図書委員の仕事の傍ら自らも読書に勤しみ、下校時間が遅くなりがちだ。あらかじめ打ち合わせなくとも部活終わりの時間に図書室に向かえばまあいるだろう。
この日も全力で練習に励むと、内心逸る気持ちを抑えつつ乱れた髪を梳かして、汗ばんだ顔も綺麗に洗う。
そして夕暮れの空が鮮やかな橙色に染まった頃、私は大河を迎えに行く為、昇降口へ向かった。
「てかさ、未来ってホント何なの?」
ふと、聞こえてきたのは私の事を話題にしている声。まただ。またこの嫌な感じ。
昇降口の陰で立ち止まり、私はその会話に聞き耳を立てた。五人か六人の女子生徒の憤りと嘲りの声が次々に耳に飛び込んでくる。
「マジで何様って感じ。宿題忘れたからノート見せてって頼んだらにべもなく断られたし」
「キャハハッ、いやいや、あの鉄仮面に頼む自体駄目でしょ? 冷血人間よ?」
「そうそう、まともな感情なんて持ち合わせてないって」
「てかさてかさ、未来って顔はまあ綺麗じゃん? それを利用して街で逆ナンして男を食い漁ってるって噂知ってる?」
「マジで!? うっわ、最低。同じ女としてないわー」
ケラケラと心底可笑しそうに笑う女子生徒たち。
よく鋼のメンタルなんて言葉を使うことがあるけれど、人間生身である以上鋼のメンタルなんてことはあり得ない。そこにあるのは太い幹か細い幹かだけだと思う。そして、多少標準より太い幹を持っていたとしても、のこぎりで少しずつ削られてしまえばいずれは折れる……。
『未来の誇り高くて気高いところをとても尊敬しているんだ』
頭の中に反芻される大河の言葉。
そう、そうよね。大河。
こんな誹謗中傷なんかに負けない。私は何も恥じるような事をしていないわ。
私は折れかけた心を強く持ち直し、その女子生徒たちの前に姿を晒した。
「いい加減にしなよ」
同時に聞こえたのは凛と響く、厳しさを含んだやや中性的な声。聞こえてきた階段の踊り場の方へ目を向けると、そこにあったのは大河の姿。
悪口を言われている現場を大河に目撃され、バツの悪さに思わず立ち尽くしてしまう。対して大河は、私ですら見た事のない厳しい目つきで女子生徒たちを睨み据えていた。
「未来が君たちに何をしたっていうの? そうやってありもしないことを陰でこそこそ言うのはみっともないし、とても恥ずかしいことだと思う!」
大河の張りのある声が昇降口一帯に響き渡る。がなり立てるような怒声ではないが、確かな圧力が大河の小さな身体から迸っていた。
しかし、その女子生徒たちも多人数の余裕なのか、変な奴が現れたとでも言いたげに大河を嘲笑する。そんな態度を取るのは普段から大河を侮っているからなのだろう。
心優しく争いごととは無縁な大河が私の為に立ち向かってくれたことにとても驚いた。だけど、どうせこの人たちに真っ当な言葉をぶつけたところで無駄だと、そう思ったその時。
「ホント聞くに耐えねーよ。お前たちの会話」
「だよな。小学生じゃあるまいし」
靴を履き替え帰ろうとしていた数人の男子生徒が嫌悪の言葉を女子生徒たちに投げ掛けた。これには連中も流石に動揺したらしく「も、もう行こ!」と、蜘蛛の子を散らすようにその場を去っていった。
未来を擁護する声が上がること、それは今までにはない出来事だった。
◇◆◇
「未来、ごめんね」
夕暮れに染まる空にまだら雲が規則正しく並ぶ様を眺めながら歩いていると、後ろを歩く大河がぽつりと呟いた。先程の勇ましかった様子は鳴りを潜め、いつもの頼りなさげな大河だった。
「何が?」
「僕、余計な事をしただろ? 未来が相手にしない連中に僕の方が我慢できなくて」
私は足を止め大河に向き直る。私が怒っているように見えたのか、大河はわかりやすくおろついた。
「まったくよ、バカね。あんたまで連中につまらない因縁つけられたらどうすんの?」
「そ、そんなことはどうだっていいさ。ただ僕は、未来が悪く言われることがとても嫌だったんだ」
トクン……。
大河の言葉に胸が高鳴った。幼なじみとしてでもそんなにも大切に思ってくれる事が本当に嬉しい。顔が熱くなるのを感じ、柄じゃないなと自嘲する。
「あ、そうだ。はい、コレ」
そんな顔を見られたくないので、私はさも今思い出したかのような何気なさを装って用意していた物を大河に手渡した。
「これって?」
「バレンタインデーのチョコよ。普段私の愚痴に付き合ってくれるお礼」
と、今日助けてくれたお礼――。その一言は言えなかった。
「うわぁ! やったぁ! 未来ありがとう!」
途端に笑顔が弾ける大河。まったく以て子どもっぽい。
「やめてよ。なんだか照れるじゃない」
「母さんとおばあちゃん以外の人からチョコを貰えるなんて、小五の時に未来から貰った以来だよ!」
う、悲しいカミングアウトを喜々と……。中学の時あげなくてごめんね……。
「ま、まぁ、そんなに喜んでくれる事に悪い気はしないけどさ」
「あ、僕からも未来に渡したい物があって」
そう言った大河が鞄から取り出したのはコティパの専用袋だった。
「僕の方こそ、いつも未来には助けられっぱなしで……。バレンタインに男から渡すなんて変かと思ったんだけど、受け取ってくれるかな?」
照れ臭そうにはにかむ大河は両手でそのプレゼントを差し出している。とても温かな気持ちが胸の中を満たす。
そっか、大河も同じ気持ちでいてくれてたんだね。
「ええ、ありがとう、大河。ところでさ」
続く言葉を待つ大河が目を丸くする。私はにっと口角を上げてみせた。
「これは本命チョコと受け取っていいのかしら?」
「ええっ!」
途端に顔を真っ赤にする大河は視線をあっちこっちに彷徨わせて動揺している。
「ほ、本命って、ち、ちょっと未来何をッ、ぼ、僕が未来のことをなんて」
「なるほど、私のことは何とも思ってないって言うのね?」
意地の悪い返しに尚もあたふたとする大河。そんな大河に歩み寄り、その頬に指先を当てた。
「弱ったなぁ。でしょ? 癖、直す努力してるのね」
「み、未来に直すように言われてるからね。……えっと、未来」
大河の真っ直ぐな視線が交錯する。大河の喉がゴクリと鳴った。
「そのチョコレートには僕の本当の気持ちが込められているよ。紛れもない、僕の本当の気持ちが」
「へぇ、ありがと」
そう言うのが精一杯なくらい、私の心臓もドキドキと激しく鼓動していた。
大河に対してこんな気持ちを抱くなんて思ってもみなかったな。ずっとつかず離れずの関係だけど、私はあなたの事がちょっぴり好きよ。
◇◆◇
家に帰り、自室の机の上で大河から貰ったチョコレートの箱を袋から取り出す。すると箱の上に乗っていた一枚の名刺サイズの紙がひらりと机に落ちた。
なんの紙かと思い拾い上げると、そこには丸みを帯びた優しそうな字で一言こう書かれていた。
『世界一かっこいい君へ』
ふと、微笑が漏れ出す。かっこいい……ね。
「ホント、バカ大河」
数あるチョコの中から一つを摘んで口の中に押しこむ。選んだチョコはビターの効いた、ほろ苦い味がした。