坂に憑くモノ
「あなたには…これから私のことを意識し続けてほしいのです」
―――――と、美少女にこんなことを言われて、心の踊らない男が果たして存在するのだろうか………。
それはゴールデンウィークも終わり、学生が皆『五月病』と呼ばれる無気力極まりない病気にかかるようになる季節。しかし大祓依部ら一年生にとっては、まだ新生活への期待による補正でなんとかギリギリやる気のわき上がる季節の出来事である。
今春よりH県K市の久留宮高等学校にて無事高校生デビューを果たした依部は本日、人生で初めて自転車通学をしていた。元々高校からは自転車通学をするつもりだったのだが、まだ慣れない高校生活でどうも自転車で行く気になれなかったのである。それでどうやって通っていたかといえば、親に車で送迎してもらっていたのだから格好が悪い。しかしゴールデンウィークも明けた今、両親に「いい加減慣れてきたんじゃないのか」とはっぱをかけられ、ついに自らの足で学校通いをしなければならなくなった。そうして現在、依部は自転車を押してのろのろと歩いている。
今年は4月末まで肌寒い日々がしつこく続いていた。で、ようやくそれが終わったかと思えばこの蒸し暑さだ。依部は目の前に立ち塞がる坂道を前に自転車を押す手を止めた。なんせ蒸し暑い。とにかく蒸し暑いのだ。某熱血テニスプレイヤーもこれにはびっくりであろう。いや、こういう時むしろ燃えたぎるのだろうか、ああいうタイプの人々は。いかんせん依部はそういうタイプではないので分からないが…。
そんなこんなで何となく登る気のしない坂道を見上げていると、ふと後ろから声をかけられた。
「あなたはこの近くに住んでる方?」
振りかえると、自分と同じくらいの背丈の少女がこちらを向いて仁王立ちしていた。依部は彼女の纏う制服が自分の通っている高校のものだと気づく。肩まで伸ばした頭髪のてっぺんにちょこんとミリタリーベレーをのっけているが、それは校則違反ではないのか。とにかくその帽子により、彼女は妙な異質さを放っている―――否、帽子はそれを助けているだけだ。彼女は、彼女自身が異質な圧力を放っていた。
「い、いえ…ここは丁度通学路でして。今も帰り道の途中で…。どうか…されたんですか?たとえばえーと、道にでも迷われたとか?」
依部は男の子としてもう少しカッコいい返答を用意したかった。のだが、この少女、かなりの美人で―――ミステリアスな魅力があって――――女子への耐性の低い依部には、しまりのない返事を返すのが精一杯である。
「そう。違うのですね。住人ではありませんでしたか。心配していただいてありがたいですけど、私は別に迷っているわけではないんですよ。」
「はあ…。じゃあ僕はこれで」
「待って!…ください」
そそくさとその場を立ち去り、前の坂を上ろうとした依部だったが、彼女は慌てたようにそれを引き留めた。先ほどまでのクールですました様子とは違う余裕のない反応なので少し違和感がある。
「その先には行かない方がいいですよ。」
「え?……その先って、この坂道には…ってこと、ですか?なんで?」
「危険だからです。それで私はこの坂道の危険を取り除きに来たんですよ。」
「……はあ。危険、ですか。何が危険なんです?というよりあなた高校生でしょう?高校生が取り除かなくちゃいけない危険って何なんです?」
「めんどくさい……」
「へ?」
「ごめんなさい何でもありません。」
今めんどくさいって言われた気がしたのだが気のせいだろうか。まあよく聞こえなかったのだし滅多なことは言えない。
「それで、どうなんです?えっとその、危険ってのは。」
「それは…教えられません。」
「え?教えられないって、なんで。」
「教えてもどうせ嘘だと思われるだろうから。」
「……は?」
変な話だった。『嘘だと思うような危険』ってどういう事なのだろう。まさかこの少女は、『今から3分後、この坂の上から巨大な岩が落っこちて来るんです!』とでも言うんだろうか。それは流石に信じられやしないが…。
「いや…えーと、注意しておけば大丈夫、な感じでもないんですか?例えばその、ここから○番めのマンホールの蓋がなくなってるから落ちないように…的な」
「あなた一人じゃどんなに頑張っても避けられない…でしょう。どちらにせよ、『一人』では無理です。絶対に。」
「ええ…」
何だそれは。どんな危険なのかますます気になるのだが。というより、危険なんて作り話であるように思えてきて仕方がない。実際そんな危険なんてないんじゃないか?全部彼女の悪戯という可能性もある。
「それじゃ、俺…じゃなくて僕はどうすればいいって言うんです…?この坂を迂回しようと思ったら僕、結構遠回りになっちゃうんですけど…。」
「なら仕方がないですね。遠回りしてください。」
「どえぇ?!それは無理ですよ!そんな何かも分からない危険のためにこれからずっと回り道しなきゃいけないなんて。」
「誰が『ずっと』なんて言ったんです?私はこうも言いましたが。『ここの危険を取り除きに来た』って。明日からは通れるようになるので。」
「いや、今日も嫌ですよ回り道なんて。もしかして悪戯なんですか?あなたの作り話なんじゃないんですか?それ。その『危険』とやらがなんなのかさっぱり分からないのに、時間を浪費したくないんですけど。」
「…時間の浪費と言うのなら、この言い争いこそ…それこそ時間の浪費だと思いますが。早く別の道から帰って欲しいのですけれど。」
依部はいつの間にか自分たちが口論をする一歩手前に至っていることに気づき、少女に少し申し訳なくなってきた。罪悪感が心を埋め尽くす。とはいえ、こちらも譲れない。なんせここを避けて回り道しようとすると、道の手入れも雑で、脇にある森からの落葉やら枝やらで散らかっているところを通らなくてはいけなかったし、何よりこの坂道を通るより20分も時間を食うのだ。それで依部は意固地になりつつあった。
「……そうだ、あなたがここの『危険』を取り除くまでここで待ちます。何分くらいかかるものかによりますけど、せいぜい10分程度なら待った方が早いので。……というかそもそもその危険が何なのかすら僕はまだ聞いてないんですけど。」
「だからさっきも言ったけど、危険については教えられないんです。それと、ここで待つのもやめてください。」
後で聞いた話、彼女も相当意固地になっていたようだ。実はこの時、彼女は自分が盛大な忘れ物をしてしまったことに気づいて焦っていたのである。依部は幸運にも、そこの部分に気がつくことができたのだ。
「さっき…僕一人じゃどんなに頑張っても避けられない危険って言ってましたけど…。もしかしてあなたも一人じゃどうにもできなくて、それでこんな道端で困ってたんじゃ?」
「……っ!そ、それはちがっ」
「いや、絶対そうだ。そうなんですよね?だったら僕にも考えがありますよ。」
「…………。」
少女は黙りこくってこちらを睨んでいる。自分が話の主導権を握れたことを実感した依部は、相手に何も言わせまいという勢いでこう告げた。
「あなたのその危険を取り除くって作業……僕も手伝いますよ。」
「……は?」
「だから、その作業を手伝うって言ってるんです。一人じゃ絶対できないことなんでしょう?あなたは人手がほしい。で、僕はその危険がなくなってくれたらありがたい。win-winですよ!」
こう言って依部は少女の眼前に指を突き付けた。それとこれは口にも顔にも出さなかったが、彼女がもしいたずらに嘘をついていたとしたら、こう言えばそれも白状せざるを得なくなるだろう。少女はじっくりと20秒近く黙りこくった。依部も自然、息をのむ。
「わかりました…。実は、作業自体は難しいものではないんです。二人いるならば、ですけど。でも…。」
未だに彼女には言いづらい何かがあるらしい。何が彼女をそんなにためらわせているのだろう?
「でも?」
「いえ、なんでもありません。ただ一つ、お聞きしておきたいことがあります。」
「はぁ。」
「……あなた、霊感が強かったりとか、しますか?」
これは今から18年程前の夏の話である。その日、H県K市、久留宮町三丁目にある交番に1通の電話がかかってきた。交番から徒歩10分ほどの坂で起きた事故についての通報だった。当時その電話をとった新人警察官の山口は、こんな報告を聞いた。
「じ、事故が目の前で起こって、そ、それでその、何といっていいか分からないことが起きて、それで、それで……」
聞こえてきたのは、若い男の早口な声だった、と山口は思った。こう書いたのは、結局その通報者はその後忽然と姿を消し、2度と見つからなかったからだ。
とにかく山口は、(それは山口が初めて取った通報だった)マニュアルに沿ってまず男を落ち着かせることにした。どうもその男の説明は判然としない部分が多かったからだ。
「ゆっくりで構いませんから、落ち着いて、深呼吸して……。それで、はい、事故があったんですね?どこでですか?いつ頃のことですか?」
「え、えっと、久留宮三丁目、のコンビニの近くにある坂のふもとの電話ボックスからかけてます。それで事故は、その坂で起こりました。時間は、ついさっきです。ついさっき。」
山口は地図を確認する。コンビニが近くにある坂…はこの街には3つあったが、そのふもとに電話ボックスがあるのは一つだけだった。
「はい、わかりました。それで被害者は出ましたか?運転手は……じゃなくて、その前に、何と何で事故が起きたんですか?車と建物?車と車?車と人?」
後から思えば下手くそな対応だった。初めてで動転していたのはあるのだが、その男のあまりの慌て方に触発されてしまったのだろう。
「車と人です!トラックが4人連れの家族を轢いてしまって!!!」
これはかなりデカい事故だぞ、と山口は思った。到底自分にさばけるものではない。それで山口は携帯で先輩にメールでSOSを求めた。この判断は彼を救うことになった。もし彼がそのまま現場に単身直行していたら、きっと彼自身も姿を消していただろう。
「トラックは?!トラックの行方は?」
「それがさっぱり分からない!!!」
突然向こうで男が絶叫した。再び山口は男をなだめる。そして焦りにかられる気持ちを抑えてこう尋ねた。
「分からない?逃げたんですか?」
「違うんです!運転手の方は……えっと、50代後半くらいの男でしたけど、えっとそれで、その方は自分のしてしまったことで驚いて、それですぐにトラック降りて救急者を呼ぼうとしてました。で、俺はそこに通りかかったので、その方に坂の上から『警察を呼んでくれ』って頼まれたんです!」
聞いている限り、その運転手の行動は(人を4人も轢いてしまったとはいえ)、正しく誠実なものだった。到底逃げ出すような人ではないのだろう。
「それで、あなたはこちらに通報してくださったわけですね?…じゃあ、どうしてトラックの行方が分からないんです?」
「違うんです!トラックは目の前でまだあります!分からないのは、運転手の方なんですよ!」
「え?いやでも、あなたはさっき……」
「違うんです!!違うんですよ!!!俺は見失ったんです!運転手を!いや、運転手だけじゃない!彼の足元に倒れてた被害者の4人家族もみんな!!みんな俺がほんの一瞬目を離した隙に、みんな、みんな消えてしまったんだあああ!!!」
この時ほど山口が恐怖を覚えたことはない。電話口の男はもう既に狂乱状態だった。山口はその場から動けなかった。足がすくんでしまったのだ。
と、その時折よく先ほど連絡した先輩、武田先輩が現れた。彼は電話口で突っ立っている山口を見て叫んだ。
「おい山口!お前何してんだ!さっさと現場行けって俺のメール見なかったのか!」
山口はハッとして携帯を見る。気づかなかった。先輩からの着信がもう5件も来ていた。
「ったく……!貸せ!俺が話す。」
そう言って武田は電話をひったくり、二言三言話すとガチャリと受話器を置いた。
「早くいくぞ。向こうには、すぐに行くからその場でじっとしていろと言っておいた。道中で事情話せ。」
警官二人が現場に到着した時、男の姿は、というより誰の姿も、あたりにはなかった。ただ坂のど真ん中に奇妙な向きでトラックが佇んでいるのみである。その場は異様な空気だった。いくら歴戦の武田といえど、これほど静かな現場は初めてだった。冷や汗が背筋を伝う。
「これは…嫌な予感がする。すぐに本部に連絡しよう。」
瞬時に武田はそう判断する。本部との話をテキパキと進めた彼は、トラックの方へ足を向けた。
「おい山口、行くぞ。」
「は、はい!」
山口は完全に縮み上がっていた。そんな後輩を情けなく思うが、しかしそれも仕方がないだろう。何せ武田自身、胸騒ぎが止まらなかったからだ。第一、通報してきた男の姿が影も形もない。
「どうやらあの男、狂ってたわけではないらしいぜ。見ろ。」
武田はトラックの足元を指さす。それを見て山口はヒェッと小さく息を吸った。地面いっぱいに血が飛び散っていた。ここで事故があったことはもはや疑う余地もない。しかし、肝心の被害者、および加害者、居合わせた通報者……誰もこの場にいないのだ。これはおおよそあり得ないことだった。武田はうすら寒い心地になりながら、山口と共に現場の観察を開始した。
二人が現場の記録をしていると、本部から数名の警官がやってきた。すぐにその場は物々しい雰囲気に包まれた。そのうち野次馬も現れ、この辛気臭い感じも吹き飛ぶだろう…。普段なら忌々しい存在だが、今回ばかりは野次馬の到着が待ち遠しかった。
と、ここまで聞いて、依部は少女をじろりと見る。
「そういう事があったのは知らなかった…。不気味な事件ですね。って言いたいところですけど…。」
しかしこれは………。
「これはただの都市伝説でしょう!!そんな長々と話して!結局何ですかあなたは?まさかこの坂に足を踏み入れたら消えてしまうとでも言うんですか!ばかばかしい!」
「残念ですけど、その通りですよ、まさしく。そしてこの話は都市伝説ではない。私が知り合いの山口警部、そう、彼は今警部にまでなってらっしゃるのだけど、彼に直接聞いた話。そしてこれが彼の作り話ではない証拠に、この坂付近では毎年一定数、姿を消す人がいるんです。」
「で、でも僕は今朝だってこの坂を通った!それはどう説明するんだ?」
「落ち着いてください。話はまだ終わりじゃない。」
「終わりじゃないって…。これ以上こんな怪談話を聞けと?」
「いいから。手伝ってくれるんでしょう?大見得を切ったのだから最後まで付き合いなさいよ。」
しまった。そうだった。依部は言い返せず黙り込んだ。
「……山口警部にはどうしても気になることがあったらしいんです。そのトラックはこの坂を登ろうとしていたんだけど、でもこの坂は開けていて見えにくい場所なんてない。そして下りでスピードが出ていたのならまだしも、上りで事故が起こるほどのスピードが出るだろうか?と。色々考えても、なぜあんな事故が起きたのか分からないって言うんですよ。」
「でもまぁ、運転手がちょっとよそ見してしまったとか、ブレーキと間違えてアクセル踏んだとか、そういう事もあるんじゃないですか?」
「ええ…。それはそうなんです。実際、この話の中で事故がなぜ起こったのか、は大して重要なことではない。重要なのは。」
重要なのは。
「トラックが上りだった、ということですよ。」
最後までご覧くださりありがとうございました。いろいろと準備段階なのでタイトルとか変わる可能性がものすごく高いです。