狼
夜の闇に紛れて、狼が一匹、人里に姿を現した。
普段は山の中で狩りをして過ごすこの狼、今は手負いでもなければ、縄張りや家族から追い出されたわけでもない。
それでも、人里に姿を現したのは、ここ数日、エサが全く獲れないからだった。
狼は、山に一番近い、人里の中でも離れた家に足を向ける。
狼にとっての人間は、群れていれば恐ろしいが、一人なら恐れるものではなかった。
だから、他の人間から一人で離れて暮らすその家を目指した。
夜目の利かない人間には、夜の闇に紛れた狼を見付けることは出来ないと知りつつも、自慢の鼻で嗅ぐにおいとピンと立てた耳から得られる音を頼りに、慎重に歩を進めていった。
人里でなら何か食べられると確信があったわけではない。ただ、以前にこちらの方向から満腹な様子の別の狼が山へ戻って来たのを見たことがあっただけ。
なんでもいい。なんなら、人の捨てた残飯でもいい。今日食えなければ明日には死ぬ。
狼はそう感じ、他の多くの狼は近付きたがらない人里へと来たのだった。
ほどなくして、人間の家にたどり着く。そして……見付けた。
腐った臭いが混ざるところ……残飯捨て場だろうか? そこで、ネズミが食事中だった。
目の前の小さな獲物に、文字通り飛び付く狼。
無事、今日の食事にありつけたのだった。
……そして、気付く。
ここの周囲から、たくさんの獲物のにおいがすることを。
……そして、気付く。
その獲物を、狙うものが今はいないということを。
つまり、ここは、狼にとってのエサ場だった。
ネズミをいくつか狩って腹も満たされたころ、さらに気付く。
この場所で、他の獣が縄張りを主張していないことに。
またここに来て、ネズミを獲ろう。
嬉々として、縄張りを主張するのだった。
……人間にバレにくいように、畑と山との境目辺りに。
※※※
いつも木の上で嘲笑う忌々しい猿を一匹食い殺してやったことで、猿の群れの一つから執拗に追いたてられるようになってしまった狼は、人里の近くに縄張りを移す羽目になってしまった。
あの猿共、狼を見ると仲間を呼び騒ぎ立てるのだ。わめき散らすのだ。
これでは、まともに狩りが出来ない。
ならば、猿共を獲物にしてやると牙を剥けば、猿共は決して木の上から降りてこない。
狼は、猿になど負けない。
しかし、木の上には登れない。
どれだけ五月蝿くても、どれだけ忌々しくても、木の上の猿共を仕留めることは出来ない。
なので、猿共のせせら笑いを背に受け、逃げたと見せかけて姿を隠し、その時を待った。
猿共も食わねば生きていけない。
食うためには、木から降りて食事を探す必要がある。
その時を待って、息を潜めた。
その時は、登りきった日が、少し傾いたときだった。
樹上でしっかりと確認したからか、特に警戒もせずに木から降りた一匹の猿が、木から離れた瞬間を狙い、最大速度で一直線に首めがけて牙を剥いた。
そして、木の上で騒ぎ立てることしか出来ない猿共の目の前で、獲物を食ってやった。
勝ち誇り、獲物を見せびらかし、優越感に浸りながら他の猿共が降りてくるのを待った。
降りてきたなら、順番に食い殺して獲物にしてやるとばかりに。
しかし、猿共は一匹たりとも降りなかった。
それどころか、鳴き声を上げて遠くの仲間を呼ぶ始末。
最初に駆けつけた一匹の猿の片腕を食いちぎってやったが、木の上の猿共が一斉に降りてきた上にあちこちから猿共が集まってきてしまっては、狼一匹ではさすがに太刀打ちできず、多勢に追い立てられて縄張りを捨てる羽目になるのだった。
それからというもの、以前に縄張りを主張した人間の家の近くをねぐらにして、残飯捨て場に来るネズミや、畑の野菜を狙う猿共を獲物にする日々が続いた。
人間の家に近いところでは隠れるところがたくさんあるので、ネズミには有利。しかし、家から離れた場所の残飯捨て場は、ネズミでも身を隠すところがない。なので、格好の狩り場だ。
畑の野菜を狙う猿共も、木から降りれば狼に敵うはずもなく、等しくエサになった。
また、縄張りを主張しておくと、熊や鹿のような、仕留めるのに苦労する大型の獣は寄り付かなくなった。
……イノシシは別だ。アレは、なんだろう? 狼相手に突進してきて、ヒラリとかわすと後ろの太い樹に自分からぶつかって倒れたヤツもいた。その日は楽に獲物にありつけたが。
縄張りの主張に関係なく現れ、狼を見ると逃げるヤツもいれば、逃げずに突進してくるヤツもいる。
……正直、イノシシこわい。ワケわからない。
ある日、いつものように、人間に見付からないように夜になってから人間の家に行く。すると、見覚えのない、木で出来た穴蔵があった。
用心して穴蔵に入ってみると、狼にとってちょうど良いくらいの狭さで、土のにおいがして、なんだか落ち着く。
しばしの間、丸まって体を休めた。
……そうしたら、いつの間にか雨がざあざあ降っていて、この穴蔵から出たくなくなってしまった。
狼も、濡れるのは好きではなかった。ねぐらがグチョグチョになって放っておくと体が冷えてくるから。
しかし、この木で出来た穴蔵のなかでは、雨で濡れることがなかった。
これ幸いと、雨がやむまで木の穴蔵でのんびりするのだった。
雨がやんだら、また縄張りを主張しなきゃならないな。なんて思いながら。
……日が昇るまで木の穴蔵で寝こけていたら、人間が覗き込んで、ビックリして慌てて飛び出していったのは内緒だ。
※※※
それからは、山のねぐらの他に、人間の家にあった木の穴蔵もねぐらにして、山と人里とを往復する日々になった。
山のねぐらは、狩り場が近くて便利だが、猿共の縄張りのすぐそばで、今となっては既に猿共に見付かっているようだった。
人里から戻った時、ねぐらの中で猿のにおいがしていた。だから間違いはないだろう。
段々に年を取ってきたせいか、山では猿共を仕留めることが難しくなってきた。あと一歩というところで木の上に逃げられてしまうのだ。
忌々しい猿共から逃げるようで業腹だが、山のねぐらは捨て、人間の家のねぐらで過ごすことにした。
日の出ているうちは、獲物もどこかに隠れていて、動かない。
なので、木で出来たねぐらの中でゆっくりとする。
人間が家から出てきて畑でなにかやっているが、気にすることでもない。このねぐらには近寄ってこないし。
夜になれば、活動の時間だ。残飯捨て場に来るネズミを仕留める。人間の家の周りを巡回して、獲物がいれば仕留め、縄張りを主張する。
他の人間の家までは、行かない。
犬がいるからだ。そして、犬が吠えると人が出てくるからだ。
鎖に繋がれた犬共。
小さくて弱いネズミは見向きもしないくせに、狼が来ると助けて! 助けて! と騒ぐのだ。
図体ばかりでかい犬があまりにもうるさいので、歯を剥いて威圧してやったところ、悲鳴を上げて小便漏らして震えているヤツもいた。
小猿ほどの大きさしかない小さな年寄り犬は、近寄ってきてふんふんとにおいを嗅いだら、興味無さそうにねぐらに戻っていびきかいて寝ていたくらいなんだが。
それからは、他の人間の家がある方にはあまり行かなくなった。
夜、人間が明かりを持って歩き回るようになったからだ。
狼も、人間を襲ってはいけないことくらいは分かる。
以前、山で会った人間が、棒を仲間の狼に向けたところ、雷のような音がしてその狼が悲鳴を上げて動かなくなった。というのを見たことがあったから。
その代わり、ねぐらにしている家の周りで縄張りを主張する回数が増えた気がする。
ある日の昼間、それは突然現れた。
いつものように、人間が畑でなにかをやっているときのこと。
山から、痩せた熊が姿を現した。
空腹からか、血走った目をした大人の熊。手負いと同じくらい危険な、山の厄介者。
縄張りの主張をものともせずに……いや、一呼吸分くらいの時間は怯んだか……ズシャリとあえて音を立てて、境界線を越えやがった。
その音に気付いて、人間が振り返る。そして、驚きのあまり腰を抜かして座り込んでしまった。
獲物を前に、熊が、嗤った。
てめぇ、この熊ヤロウ。越えたな?
ここは、オレの縄張りだ。てめぇの場所じゃねえ。
図体でかいだけのウスノロが。
狼の牙を思い知れっ!!
早く、速く、風よりも疾く。
マヌケヅラを晒す熊ヤロウの喉元めがけて一直線に駆け抜けて、自慢の牙をお見舞いしてやった。
※※※
気が付けば、変な臭いのする檻の中。
体にはなにかが巻き付いていて、動き辛さを感じ身を捩ると、尋常ではない痛みを感じた。
あまりの痛みに、ぎゃいんっ!? と、変な鳴き声が勝手に出た。
そのせいか、また、体が激しく痛んだ。
今度は、あまりの痛みに鳴き声も上げられなくなった。
できるだけ痛くない姿勢で、大人しくしているしかなかった。
『おお、目を覚ましたか。ちょっと待ってろよ』
ねぐらのそばに住む人間と、同じかそれよりも上か、老いた人間が姿を現すと、またすぐにいなくなった。
『ほら、飲んでいいぞ』
また姿を現した人間が、器に入った水を檻の中に入れる。
おかしなにおいは、しない。
腐ったにおいも、泥臭いにおいも。
慎重に舐めてみると、おかしな味もしない。
なら安全かと水を飲む。乾きを癒すために飲む。
水はあっという間になくなってしまったが、代わりに、何かの粒で満たされた器を檻の中に入れた。
『犬用のカリカリは食わんか?』
人間が何を言っているかは分からないが、この粒は食べるものだと何となく分かった。
しばし見つめ、においを嗅ぎ、首をかしげて、口を開けたところで、空の器が水の満たされた器と交換された。
人間が、またどこかへ行ってきたのに気付かなくてびっくりしたのは、内緒だ。
※※※
熊にやられたのであろう傷も癒えてきた頃、木のねぐらのそばに住む人間がきた。
『帰るぞ』
人間が何を言っているかは分からないが、『ケイトラ』と呼ばれる白くて動く箱の上に乗れといいながら指をさす。
賢いと自負する狼は、これで木のねぐらに帰れると思い、白くて動く箱の上に勢いよく飛び乗った。
『こんばんはー。今夜も《みんなと動物の時間》になりましたーっ! よろしくねーっ!』
『さて、今日最初の動物は? ……○○県、△△郡□□村に住む、石頭さん……えっ? これ名字? ほんとに? 大丈夫?』
『え、えー、失礼しました。その、ご主人の飼う狼犬の……えっ? 犬じゃなくて、本物の狼? しかも、勝手に住み着いてるの? ほんとに? 大丈夫?』
『ご、ごめんねー。オレびっくりしちゃった。じゃあその、石頭さんちの狼のお話です。VTR、どーぞ!』