9. 初めての
少しつんのめるような格好で、とっとっと、と前に進むと、第三王子殿下も私のほうに駆け寄ってきた。
王子は慌てたように私に手を差し伸べてきたので、それを握ってなんとか立ち止まる。
「大丈夫か」
「あ、はい」
握られた手がなんだか照れくさくて離そうとすると、軽く力が入ったので、そのまま大人しく手をつないだままにする。
すると低くて小さな声が降ってきた。
「コルテス卿の二女に相違ないか」
「はい」
うなずくと、王子もうなずき返してきた。
「こうなっては致し方ない。私の婚約者になってもらう」
耳元でぼそぼそとそんなことを言う。
致し方ない、か。まあそうですよね。
「やっぱり」
「やっぱり、とはなんだ」
「それしかないかなあって」
「それしかないな」
どうやら王子殿下も覚悟を決めたらしい。
本当なら、あの美女が妃になっていたはずだったのに可哀想だなあ、と思う。
「文句ならあとで言え。今はまずこの場を収める」
「は、はい」
私の返事を聞くと、王子は顔を上げてまっすぐに前を見つめる。
私は上目遣いでその横顔を見上げた。
やっぱり男の人にしては綺麗な顔をしているなあ、と思う。
この人が、私の婚約者?
だめだ、びっくりするくらい実感が湧かない。お姉さまが第三王子の婚約者になるっていう話も実感は伴わなかったけれど、これはそれ以上だ。
芝居を繰り広げるキルシー王子とお姉さまのほうに向かうと、彼は口を開いた。
「ウィル」
そう呼びかけられて、キルシー王子は少々不機嫌そうにこちらに振り向いた。
今いいところなのに邪魔をするな、とでも思っているのだろうか。
こっちはおかげさまで大変なんですよ、と言ってやりたい。
「ああ、レオ」
しかし声を掛けてきたのが第三王子だと知ると、彼はにこやかな笑みを返してきた。さすがにそこまで我を失ってはいないようだ。
友人というのは本当らしい。お互い、愛称で呼び合っている。
「ウィル、私の婚約者を紹介しよう」
「ああ、そうなのか」
キルシー王子は、『喜ばしい報告』とはそういうことかと納得したのか、うなずいた。
お姉さまはその隣で俯いている。
俯いている場合じゃないですよ、今、我が国の王子が手を繋いでいるのは、妹の私ですよ、見てますか。
「こちらが私の婚約者となる女性だ」
手を軽く引かれて前に出されたので、私は腹をくくる。
もうやぶれかぶれだ、どうとでもなれ。
なにかあったら誰かがなんとかしてください。だって私はやっぱりまったく悪くない!
そう自分に言い聞かせると少し落ち着いてきたので、レオカディオ殿下の手を離すと、なるべく楚々として淑女の礼をする。
私だって、ちゃんと授業は受けたんだから、これくらいはきちんとできるんです。抜け出していたのはごくたまに、なので。
「ご拝顔賜り光栄ですわ、ウィルフレド殿下。わたくしは、プリシラ・コルテスと申します」
私のその声に、お姉さまの肩がぴくりと揺れた。そしてゆっくりと顔を上げる。大きな目をさらに見開き、口を半開きにして、そのままの表情で固まってしまっている。
お姉さまのその顔を見ると、本当に周りが見えてなかったんだろうなあ、としみじみと思ってしまった。
二人だけの世界はどんなものだったんだろう。
「プリシラ……?」
ぼそりとお姉さまの口から漏れた言葉に、キルシー王子は振り返って小首を傾げる。
「アマーリアのお知り合いで?」
「え、ええ、わたくしの妹です……」
戸惑いながらも、お姉さまはそう答えた。
今、お姉さまの頭の中はしっちゃかめっちゃかだろうなあ、と想像する。
けれどたぶん、冷静になれば今なにが起こっているのかは理解できるだろう。
そして合わせようとするだろう。お姉さまはそういう人だから。
唯一、なにも知らないのであろうキルシー王子は、明るい声で応えた。
「ああ、私の恋人の妹とあって、やはり輝かんばかりにお美しい。こんな麗しい女性が婚約者とは、レオは幸せ者ですね」
うむ。お姉さまの美貌しか目に入ってなさそうな、あんまり心が籠ってない賛辞を呈された。
いや、ちょっと待って。出会ってまだ一刻も経ってないのに、もう恋人になってるの? 展開が早すぎるよ。
「展開が早すぎる……」
ぼそりと後ろのレオカディオ殿下がつぶやいたのが聞こえた。
おっ、気が合いますね。
しかし気を取り直すような咳払いが聞こえたかと思うと、彼は私の横に立った。
「そうなんだ。私の誕生日に、愛する婚約者を紹介できて嬉しく思うよ」
友人に対しての気さくさで、にこやかにそう言う。
隣でそれを聞いていた私は、呆然とレオカディオ殿下の顔を見つめてしまった。
愛する……! 殿方に初めて言われた!
一気に顔に血が集まってきたような気がした。頬が熱い。ドキドキする。
こんな素敵な人に愛するって言われるなんて、私の人生にあるとは思っていなかった。
でも。
一瞬後には、その熱もすっと引いた。
でもそれも、この場を取り繕うための嘘なんだ。
生まれて初めて言われたのがこういう場だなんて、それはちょっと嫌だったかもしれない。