72. それぞれの王太子
みるみるうちに洞窟の下までたどり着いたベルナルディノ王太子殿下は、そこで馬の足を止めた。
彼は腰に帯刀しているのではなく、大きな得物を背負っている。長いだけでなく幅も広い大剣だ。
残念、斧じゃなかった。でも大剣も似合いますね。
二国の王太子は、騎乗したまま相対した。
「やあ、久しいですね、マルシアル殿」
ベルナルディノ殿下は、にこやかにそう言う。
けれどマルシアルは思いっきり眉根を寄せた。
おそらく、敬称を略されたのが気に入らなかったのだろう。
そっちだってレオさまのことさっき呼び捨てにしてたくせに。図々しいんですよ。
しかし彼は気を取り直したように、というか、嫌味っぽく返した。
「これはこれは、ベルナルディノ王太子殿下」
お前もこれくらい言え、という感じか。
「こんなところでお会いするとは」
「それはこちらが言いたいことです。なぜあなたが国境を越えて、我が国の領土にいるのですか?」
「それについては謝罪申し上げます。もちろん追って報告はさせていただくつもりでした。けれど火急の事態が起きまして、やむなく」
「ほう? 火急の事態とは?」
あっ、話は聞かなくていいのに。先に不法入国の件で捕縛してどこかに連れて行って欲しかった。
レオさまもそう思ったのか、眉根を寄せている。
マルシアルは胸元に手を当て、悲し気に滔々と話し出した。
「恥ずかしながら、我がキルシーの第二王子であるウィルフレドが、王太子である私を斬りつけて逃げまして」
「なるほど」
「内密に行方を調べさせておりましたら、そちらの第三王子であるレオカディオ殿下が匿っておられるということを掴みました。これは由々しき事態です」
「レオが匿っている?」
「ええ、あの洞窟の中を検めさせていただきたい。あの中に、私の弟とその恋人がいますから」
その通りです。
くっ、さっさと言ってしまいましたね。
「レオカディオ殿下の行動への抗議も合わせ」
マルシアルは、堂々と胸を張って言った。
「キルシー王国王太子、マルシアルの名において、二人の身柄の引き渡しを要求します」
いけしゃあしゃあと!
けれどベルナルディノ殿下は顎に手を当て、わざとらしく何度も首を捻った。
思ったのと違う反応だったのだろう。マルシアルは不審げにその様子を眺めている。
ベルナルディノ殿下はそれからマルシアルのほうに向くと、にっこりと笑って口を開いた。
「おかしなことを仰いますね。キルシー王国の王太子は、そんな名ではありません」
「……は?」
は?
「王城に報告がありましたよ。廃太子されたそうで。いけませんね、破れかぶれになるお気持ちはわかりますが、我が国の領土に無許可で立ち入るとは」
肩をすくめて両の手のひらを天に向け、ふるふると首を横に振ってみせる。
唖然としたままのマルシアルに、ベルナルディノ殿下は続けた。
「しかもならず者を連れているそうじゃないですか。コルテス領の蒼玉目当てでしょうか。こちらこそ正式に抗議せねばなりません」
穏やかな声だが有無を言わせぬ迫力がある。
どうやら正気に戻ったらしいマルシアルは叫ぶように言った。
「廃太子とはどういうことだ!」
「そちらの第三王子殿下が立太子されたようで」
「はあ?」
はあ? なんですか、その展開。
けれど呆然とする私とは違い、レオさまは隣で大きく息を吐いた。
ついでに洞窟の中のウィルフレド殿下とお姉さまも安堵の息を吐いた。
あれ、驚いているの、私だけ?
他にもう一人、驚いているらしい人に向かってベルナルディノ殿下は続ける。
「おや、わかりませんか? 今やキルシー王国の王太子は第三王子殿下ですよ。あなたはもう王太子ではありません。こんなときに国を離れるとは、愚かなことです」
本当にバカだな、とでも言いたげに、ベルナルディノ殿下は何度もゆるゆると首を横に振った。
しばらく口をあんぐりと開けて間抜け面をさらしていたマルシアルは、突如、馬首を巡らせて走り去る。
後には、馬が蹴り上げた土ぼこりが残された。
あの人、本当に怪我しているのかな。ものすごい勢いだったけど。
キルシーに帰るのかなあ。
そういうことなら、もうどうしようもないと思うけどなあ。
「追え」
「はっ」
ようやく追いついたらしいベルナルディノ殿下付きの衛兵二人は、休む間もなくそのままマルシアルの後を追わなければならなくなった。
呆然とその光景を見守る私の横で、レオさまは大きく手を振った。
「ディノ兄上!」
「レオ、ずいぶん楽しそうなところにいるな」
苦笑しながらそう答える王太子殿下の反応を見るや否や、レオさまは立ち上がって洞窟を出ると崖を降りていく。
いそいそ、という表現がぴったりだ。
レオさまが駆け寄っていく間に、ベルナルディノ殿下は馬から降りて、彼を迎える。
王太子殿下の前に立つと、レオさまは嬉しそうに言った。
「まさかディノ兄上が来てくださるとは思っていませんでした」
「可愛い弟の危機だったからな、来てやったぞ」
「ありがとうございます、嬉しいです」
その様子を見ながら私は思う。
やっぱりレオさまがもし犬だったら、尻尾をブンブン振っているだろうなあ。