66. 王太子マルシアル
王太子は馬を引いて、すぐそこに立っている。
その顔を見た途端、「ひっ」と喉から出掛かったけど、なんとか口を閉じる。自分で自分を褒めまくりたい。
そんな私を見て、マルシアル王太子は目を見開いた。
えっ、なに?
王太子は私の顔は知らないはず。私が宿で隠れ見ただけで、見られてはいないはずだけど、なにに驚いているんだろう。
系統は違うけれど、お姉さまとちょっと似ているところもあるから、血縁者とわかってしまったのだろうか。まさか。
心臓がバクバクとうるさい。
落ち着け。落ち着かなければ。
混乱した私は言葉を出すことができなくて、ただ呆然と王太子を見つめてしまう。
「なにか?」
不審げにそう問うてくるので、私は慌ててぶんぶんと手を振った。
「あっ、いえっ、見かけない人だなーって」
「ああ、旅行者なんですよ」
「そ、そうなんですか」
その反応からして、私がお姉さまの妹だとはわかっていないように思える。
なので少し落ち着いて来た。
どうしてこんなところにいるんだろう。
だって宿でのんびりしているのではないのか。
それにレオさまは? 入れ違いになった? なにがどうなっているんだろう。
王太子は困ったように眉尻を下げ、私に話し掛けてくる。
「実は人を探していましてね。私と一緒にここに旅をしに来た男たちなんですが」
「ああ、はぐれたんですか、それは心配ですね」
懸命に平静を装ってそう言ってみる。
「まあ心配といえば心配なんですが」
そう穏やかな声で言った。
この様子では、レオさまや衛兵たちを倒してやってきたというわけではなさそうだ。
王太子は、辺りを見渡しながら続ける。
「たぶんこういったところで、のんびり散策でもしているんですよ。仕事を頼んでいるんですがね」
「ははあ」
森で怠けようとしていたことを見透かされていますよ、あなたたち。
というか、それで釘を刺してやろうと宿を出てきたのかもしれない。
よりにもよって、今日。なんて悪運の強い。
「どうですか、見かけませんでしたか」
「いえ、私は」
意識して首をゆっくりと横に振る。
「田舎ですし、知らない人がいたら目に付くと思うんですけど……」
おずおずとそう言ってみる。
私は知らない。だからとっとと立ち去ってほしい。森を探索されても困るし。
けれど王太子はそこから動かない。
口元には笑みを浮かべているけれど、なんだか怖い。私が王太子を一方的に知っているということもあるだろうけれど、目が笑っていない気がする。
「なるほど?」
そう言いながら、私の全身を舐め回すように見ている。
値踏みするような視線。
こんな視線、私の人生の中で、一度たりとも向けられたことがない。
気持ち悪い。怖い。この人、怖い。
さらに顎に手を当てて、私をじっと見つめて何ごとかを考え込んでいる。
どうして。見てないって言っているんだから、立ち去ればいいのに。早く早く早く。
背中にじっとりとした汗を感じる。
なんだろう、絡め獲られるような、そんな感覚がして仕方ない。
「お嬢さん」
「はっ、はい?」
しまった、声が裏返った。
けれど王太子はそんなことは気にならないかのように、冷静な声で続けた。
「お嬢さん、先ほど私のことを、見かけない人だと仰いましたね?」
「え、ええ」
うなずくと、また、これみよがしに考え込んでみせる。
そして顔を上げたときには、口元に薄く皮肉気な笑みを浮かべていた。
「おかしいですね」
「えっ」
なにが。
なにかまずいことを言った?
確かに挙動不審だったかもしれないけれど、それは初対面の相手に怯える女としてはありえる動きだと思う。
冷や汗がワンピースの中を伝った。
「あなたは私によく似た顔をご存知のはずだ」
息が止まる。
わかっている。私がウィルフレド殿下を見知っていることを。
どうして? どこでわかったの?
それに強く言いたい。似ているけれど、残念なんです。惜しいんですけどね。
「なんの、ことだか」
「お嬢さん、あなた、ここの領主の娘じゃないのか」
王太子の言葉尻が、厳しくなってくる。
「あ、あの……」
「お前の姉はどこだ」
声が、凄みが含まれた濁ったものに変わった。
どこまで誤魔化せばいいんだろう。
私を領主の娘とわかっている? どうして? 理由はわからない。わからないけれど、とにかくわかってはいるのだ。
ならばそこまでは認めていいんだろうか。
「あ、姉は、キルシーに嫁いだので、ここにはいません」
「帰ってきただろう」
「いえ、きてません」
ふるふると首を横に振るけれど、まるで信用していない風に、笑う。
「嘘はよくない」
「嘘なんて」
どうしよう。逃げないと。
でも今、ちょうど馬を繋いだところだ。しかもガッチリと結んだ。あれを解くのには時間がかかる。
どうしよう、どうすれば。
「おい。答えろ。俺の弟も一緒だろう」
マルシアル王太子はこちらに一歩、足を出す。
思わず、一歩、後ずさった。
それを見て、彼はにやりと口の端を上げた。
「怖いのか?」
声がまた変わった。濁ったものから、愉楽の混じったものへ。
ゾッと背筋に冷たいものが走る。
楽しんでいる。この状況を。
私は思わず、腰の短剣に手をやった。
それに気付いた王太子は、何度か目を瞬かせたあと、くくっと笑う。
「刺せるのか? お前に。箱入りの貴族令嬢には難しいんじゃないのかな? 自分の手を汚せるのかな?」
また数歩、こちらに歩み寄ってくる。
なのに身体が動かない。王太子はすぐそこだ。
けれど腕を伸ばせば短剣が届く距離でもあった。




